歴史散歩 Vol.139

筑後における南北朝時代1

筑後において南朝方と北朝方の間で繰り広げられた「大原合戦」を取り上げます。今回は戦いの全般的解説を行い、次回はゆかりの地を散歩します。(年は西暦・北朝・南朝の順番)

1336年(延元1・建武3)「湊川の戦い」で楠木正成を破った足利尊氏は光明天皇擁立に動き、即位した天皇から征夷大将軍に任命されました。同年11月、足利尊氏は京都に幕府を開きました。他方、同年12月に後醍醐天皇は花山院を脱出し吉野金峰山に入ります(「吉野」参照)。足利尊氏は後醍醐天皇から朝敵の汚名を着せられると支配がやりにくくなると考え、廃帝・光厳院まで担ぎ出して自己の正統性の根拠にしました。「武家対天皇家の戦い」を「天皇家内部の抗争」にすりかえたと評することも出来ます。このようにして全国的に57年も混乱が続く南北朝時代が始まりました。武家との棲み分けではなく「王権至上主義」を目指す後醍醐天皇は自らの正統性を主張するため皇子を各地に派遣します。征西将軍宮として西国(九州)に派遣されたのが懐良(かねなが)親王です。征西将軍に任ぜられた8歳の懐良親王は1338年(延元3・暦応1)秋、九州に向けて吉野を出発し、瀬戸内海の島々を経て1342年(興国3・康永1)に薩摩に着き谷山郡司隆信の居城に入ります。以後、親王は数年を経て勤皇に篤い菊池氏に迎えられました。

当時、北部九州は探題や少弐頼尚などを中心とする北朝(武家方)勢力が優勢でしたが、南朝(宮方)の菊池氏が次第に筑後に進出するようになりました。他方、北朝方内部に抗争がおこり、2つに分裂します。探題方(尊氏・高師直)と佐殿方(尊氏の弟直義・直冬親子)です。一般に「観応の擾乱」と呼ばれています。この結果として九州は一色氏を中心とする探題方(尊氏党)直冬を擁する佐殿方(直義党)懐良親王を中心とする宮方(南朝)の三すくみの形勢となっていました。
 九州の諸将は探題方につくもの・佐殿方につくもの・宮方につくものと揺れ動きました。当時の戦いは理念やイデオロギーによるものではなく(地元の安泰を図るため)「誰に付くのが得策か」を考える目先の利害得失を巡って戦わされていたからです。「所領を安堵すること」こそが武将の政治力を高める手段でした。勤皇「イデオロギー」により宮方を支持していたのは菊池氏や調一族(黒木氏等)など少数に限られます。1353年(正平8・文和2)2月、一色氏勢力に攻められていた大宰府の少弐頼尚(佐殿方)を菊池武光が救援に駆けつけ、針摺原(筑紫野市)の戦で一色軍を破りました。菊池武光に助けられた小弐頼尚は「今より後、孫子七代に至るまで、菊池の人々に向かって弓を引き矢を放つこと有るべからず」と血書しました。この針摺原の戦いに勝利したことによって宮方の征西府は拠点を菊地から久留米の高良山に移しました。これから征西府が大宰府進出を果たすまでの間、懐良親王の居所たる征西府は久留米の毘沙門岳城(現在のツツジ公園上方)にありました。

説明版を見ると典型的な山城の構造を残していることが良く判ります。

少し山側に上ると空堀の跡が判ります。

山城の下部(駐車場)から広大な筑後平野を一望にすることができます。毘沙門岳城が筑後の戦略的要地であったことが良く判ります。
1356年(正平11・延文1)長門に逃げていた一色勢が九州に戻ると、1359年(正平14・延文4)4月、宮方に帰順していた少弐頼尚は一転して武家方につきました。同年7月、31歳になった懐良親王を大将として「菊池が大宰府へ攻め寄せてくる」という情報を得た少弐頼尚は敵を先に迎え撃とうと筑後に出陣します。その数は約6万余騎とされ、杜の渡し(久留米市宮ノ陣町大社付近)を前にして味坂庄(鯵坂)に陣を取ります。宮方は侍大将に菊池武光を据え8千余騎が高良山・柳坂・水縄山に布陣しました(具体的には吉見嶽城・杉ノ城・毘沙門嶽城・鶴ヶ城・谷山城)。(兵士の数については諸説があります・後述)。7月19日、菊池勢が筑後川を渡り少弐勢に向かって押し寄せました。少弐頼尚はこれには応戦せず退却して大保原に陣を取ります。この際、菊池勢はさきの血書起請文を旗に掲げて「情けなし、頼尚の心変わりよ」といって頼尚の不義理をなじったと言われています。次いで8月16日夜半、菊池勢は夜討ちに馴れた兵を選りすぐって少弐勢の搦め手へ迂回させ、主力の兵を三手に分け筑後川の端に沿って河音に紛れて地形の険しい方から少弐陣を攻めました。現在の久留米市から小郡市のほぼ全域にわたっての激戦がほぼ1日続き劣勢の少弐は大宰府へ撤退します。しかし菊池にも追撃の余力が無かったので戦いは収束します。菊池武光は血で染まった太刀を川で洗いました。この故事にちなみ川は「太刀洗川」と名付けられます。この戦いで少弐方は3600人以上が・菊池方は1800人以上が討ち死にしたと言われています。激戦地であった小郡市役所隣の東町公園には「大原古戦場碑」と刻まれた石碑が立っています。

1959年に「大原合戦600年記念碑」が建立されています。

2009年には「大原合戦650周年の碑」も建立されました。7月のシンポジウムに際して書籍「懐良親王と三井郡」を購入したので不肖私も碑の裏面に氏名を記させてもらっています。

 以上が九州における南北朝最大の激戦である大原合戦の全体的構図です。2年後の1361年(正平16・康安1)征西府は念願の太宰府入りを果たしました。それから約11年間九州が南朝下におかれます。ただ後醍醐天皇は怨念を抱いたまま1339年(延元元・暦応2)に死亡しており、楠木正成・新田義貞など南朝方の有力な武将は全て死亡していました。太宰府を拠点に九州を支配する懐良親王は「日本国王」として明の冊封を受けます。明との交易による利益を確保するとともに対外的な後ろ盾を得ることで国内支配をしやすくする意図があったようです。この状態は1338年に京で成立した足利政権(室町幕府)にとって許し難いことでした。1372年(文中元・応安5)足利幕府が送り込んだ今川了俊が太宰府を奪還し懐良親王は再び筑後に退却します。その後、懐良親王は征西将軍の座を良成親王(後村上親王の皇子)に譲り、筑後の地において死去します(享年54歳・病没とされる)。そして南北朝の分裂を1392年(元中9・明徳3)に政治力で無理矢理に統合させた足利義満が「日本国王」として明の冊封を受けることになるのです。

大原合戦は、宮方(南朝)の数少ない勝利として、「太平記」において華々しく描かれています。少数派の正義軍が多数派の賊軍を破るというイメージは戦記物の特徴と言われますが、「太平記」はその傾向が特に強いようです。郷土史家によると大保原の戦いを巡る「太平記」の叙述は<神話>に近いものです。現実の兵士の数は五分五分(地元では宮方の兵士の数を4万騎とするものが少なくありません)か、むしろ「宮方のほうが多かった」との見方もあります。何故ならば戦闘は「徹底的なリアリズム」の世界であり「物量に優る方が勝つ」のが自然だからです。

菊池武光の雄姿は皇国史観が盛んだった昭和初期によく視覚化されました。
久留米の旭屋デパート(久留米伊井筒屋の前身)で昭和13年2月に開かれた「筑後尊皇事績展」においては上述の菊池武光の太刀洗の場面がジオラマとして表現されています。

 太刀洗町の一角に「太刀洗い」伝承地碑があります。国道500号線と太刀洗川が交差するところです(障害者支援施設「菊池園」の入口)。この南約600メートルほどの地に太刀洗公園があり、立派な菊池武光の銅像があります(次回紹介します)。

 皇国史観において「九州における菊池武光」は「中央における楠木正成」に匹敵する英雄でした。久留米が陸軍の中心的存在であり得たのは筑後が菊池武光に縁の深い「南朝びいき」の土地柄だったことも大いに寄与していると思われます。(次号に続く)

* 室町時代初期の武家方の内部抗争である「観応の擾乱」については亀山俊和「観応の擾乱」(中公文庫)が詳しいので御参照ください。とても面白い。

* 2019年7月14日九州国立博物館「室町将軍展」橋本雄先生の講演から。
 義満は明から「勘合貿易」をする相手方の資格を認めてもらうため漢文脈(国際的な視点)においては臣下の礼をとりつつ和文脈(国内的な視点)においては自分こそ上であるような振る舞いをとっていた。かかるダブルスタンダード(2枚舌)は現代に通じる日本人政治家の行動パターン。異民族の王朝たる元を追いやって成立した明は中国の歴代王朝の中でも突出して強烈な華夷意識をふりかざした。明は周囲の諸国民族に対しこれまでの中国王朝とは比較にならないほど高圧的な姿勢で臨んだ(あるいはそのような異丈高な姿勢を中国国内向けにアピールした)。かような明と付き合うには前述のポーズが必要だったのだと思われる。義満は「日本国王」にこだわった。これは①南朝方の良懐(和名では懐良親王)が自分よりも前に国王に認定されていたのでこれを排除する必要があった②幕府財政が逼迫しており貿易による利益を上げたい思惑があったから。そのために義満は明使を日本に迎えるが、漢文脈においては儀式において明使が先に昇殿し南面して義満を迎えるべきところ、実際の北山邸の儀式は先に義満が昇殿し南面して明使を迎える形式をとった。 「日本国王」という名称は勘合貿易のための資格に過ぎず国内的には朝廷(天皇家)に配慮してほとんど使われていない(ここにもダブルスタンダードが見受けらる)。

* 2019年8月4日、黒木町出身の作家・安部龍太郎さんの講演が小郡市文化会館で行われました。骨子は以下の通り(同月10日付「西日本新聞」。大原合戦の遠因は元寇にある。元は軍事的意味での侵攻には失敗したものの、通商関係は存在した(日元貿易)。当時、自国で通貨を鋳造していなかった日本にとって元がもたらす銅銭は重要であった。鎌倉時代の武士は半農半武で「農本主義」であった。銅銭の流通量が増えることで海運業などに乗り出し豊かになる武家もいた一方、農本主義の武家は困窮し土地を担保に借金をした。そのため幕府は借金をチャラにする徳政令を乱発して経済混乱が起きた。これが鎌倉幕府崩壊の引き金になっている。北朝方と南朝方が「九州の覇権」を争った大原合戦は大陸との貿易の利を巡る経済戦争でもあったと言える。

* 南北朝動乱の全体状況については渡邊大門「南北朝の動乱・主要合戦全録」(青海社親書)が詳しい。九州に関しては第9章にて詳論されています。

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