歴史散歩 Vol.138

ちょっと寄り道(横須賀2)

横須賀の2日目はメルキュールホテルとJR横須賀駅の周辺を歩き、ヨコスカ軍港巡りに乗船しました。(参考文献)高村聡史「軍港都市・横須賀」吉川弘文館、上杉和央「軍港都市の150年」、鈴木亨「横須賀線歴史散歩」鷹書房、NHK「ブラタモリ8」角川書店、十菱駿武他編「続しらべる戦争遺跡の事典」柏書房、荒川障二編「地域の中の軍隊2関東・軍都としての帝都」吉川弘文館、神奈川スリバチ学会「横浜・川崎・鎌倉スリバチの達人」昭文社、碇義朗「海軍航空技廠」光人NF文庫、「ヨコスカ軍港巡り・リーフレット」(株式会社トライアングル)

横須賀2日目の朝だ。朝食前に「メルキュールホテル横須賀」周囲を散歩する。戦前、この地は昭和13年5月に新築された下士官兵集会所であった。戦後は駐留米軍がEMクラブとして接収。EMクラブとは占領軍兵士用の娯楽施設である(新横須賀市史985頁)。昭和58年10月、日本政府に返還され汐入駅前再開発に伴い解体されている。平成5(1993)年、クラブ跡に建設されたのが「ベイスクエアよこすか」だ(横須賀芸術劇場とメルキュールホテル横須賀の複合施設)。翌年、建設省が汐入駅と「コースカ・ベイサイドストアーズ」側を結ぶため「ベイウォーク」なるペデストリアンデッキを建設した。ペデストリアンデッキを超えて海方向に降りると歩行者が自然に「ヴェルニー公園」に入っていく仕組みである。
 ヴェルニーは横須賀を近代的港に成長させてくれたフランス人だ。彼は横須賀製鉄所の建設を指揮しドライドック建設でも力を発揮した。観音崎灯台の建設でも尽力した。そのため海に面したこの公園にその名が冠されているのである。もう1人の重要人物が小栗上野介忠順。彼は将来の生糸輸出を原資にしてフランスとの資金繰りを契約し横須賀の近代化を進めた。小栗に限らず、明治初期の産業基盤整備の多くが旧幕臣の努力によるものである。明治政府はその果実を享受したのだ。ただし小栗は強固なる徳川擁護派であり、大政奉還後も徹底抗戦を主張したので役職を解かれ領地の上野国権田村(群馬県倉淵村)にて官軍により斬首されてしまった。
 横須賀製鉄所は旧幕府がフランスから資金と技術援助を受けて建設を進めたものである。慶応元(1865)年11月起工・明治4(1871)竣工。戊辰戦争の進展に伴い新政府は同所を接収しようとしたが、フランス系銀行ソシエテ・ジェネラルの債権50万ドルの抵当権が設定されていた。この抵当権解除に向けて奮闘したのが大隈重信だ。大隈はパークスの紹介状をもって慶応4(1868)年7月にイギリス系のオリエンタル・バンク横浜支店を訪れた(横浜支店の開設は元治元年)。同年9月17日オリエンタル・バンク支配人ジョン・ロバートソンは大隈と50万ドル貸し付けの契約をし、直ちに実行した。この金で大隈はソシエテ・ジェネラルの債権50万ドルを弁済した(大隈重信没後100年・鉄道開業150年記念特別展「陸蒸気を海に通せ」佐賀城本丸歴史館16頁以下)。事後、日本政府は「イギリス資本下の近代化」を推進する。軍事的・政治的のみならず経済的にも明治新政府の後ろ盾はイギリスなのだった。ヴェルニーと小栗の銅像が見つめている先にドライドック3つが見える。長期間使えるように強い岩盤の山を削って構築された。丁寧な仕事である。横須賀海軍工廠で建造された艦船数は1945年までの75年間で200隻を超える。横須賀の繁栄を築いたこの施設は現在アメリカ軍基地内にある。アメリカによる「横浜の接収」はほぼ終了したが「横須賀の接収」が終わる見込みはない。

「メルキュールホテル横須賀」の朝食は最上階のレストランで頂く。良い眺めだ。荷物を片付けてチェックアウトする。未だ横須賀を発つわけではないからフロントに荷物を預けた。歩いてJR横須賀駅に向かう。今日は午前10時に「ヨコスカ軍港巡り」の予約をとっているが、それまで時間があるので少しJR線に乗りたいと思った。横須賀線は明治22(1889)年に完全な軍事目的の路線として設置された。住民の通勤通学の便宜など全く考えられていない。現在の横須賀駅の乗降客は少なく「すか線」とも揶揄されている。横須賀線は逗子・鎌倉を経由し大船駅で東海道線に接続している。結果、鎌倉と厨子に高級海軍軍人の居宅が多く設けられたのである。
 横須賀は駅前に軍港があるというより軍港に直結するように駅が作られた。ホームと出口との間に段差がない。駅が軍事物資の運搬に配慮されて作られたからだ。かつては乗客から港内が見えないように海側に遮蔽があった(この遮蔽は敗戦後に除去された)。駅前を進むと軍港営門がある。昔はその先の岸壁に対岸の旧海軍施設に向かうための船が用意されていた。ホームに上り列車が入庫した。後方車両に乗り込む。トンネルを抜けて田浦駅で降りる。明治37年(1904)に開設された本駅もトンネルに挟まれて設置されている。京急汐入駅でも見受けられた特徴だ。横須賀にトンネルが多い理由は明治以降軍港となって海の航行が大幅に制限されたため従前の渡し舟が使えなくなったことによる。田浦駅は11両編成の電車だとホームに収まりきれないのでドアが開かない車両がある。下り側に明治・大正・昭和に造られたトンネルが見える。中央トンネル(下り線)が明治22年横須賀線開通時に完成した最も古いトンネルで、上り線の煉瓦造りトンネルは複線化に伴い大正13年(1924)増設されたもの。海側のトンネルは昭和18年(1943)軍需物資輸送用引込線として造られた。戦後は在日米軍物資を輸送していた。平成9年まで使用されていたそうだ。

出航までまだ時間があるので道路を歩いて戻ることにした。道路左端に線路の跡がある。かつての海軍専用の軍需物資引込線の跡だ。左手に小さい公園があったので立ち寄る。そこに芥川龍之介「蜜柑」の碑があった。碑文「或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下してぼんやり発車の笛を待っていた。(略)するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。」
 芥川龍之介は明治25年(1892)3月に京橋区(現東京都中央区)生まれ。幼くして入籍した養家は本所(現墨田区両国)にあり、養家の家風と「遺された江戸」の面影をとどめる土地柄が彼の人格を形成した。「蜜柑(みかん)」は芥川が横須賀海軍機関学校教官時代、鎌倉の下宿への帰路、横須賀線内で出会った出来事を題材とする。横須賀駅を出た汽車の中で、二・三等車の区別も判らぬ少女が自分を見送るため待ちかまえていた弟たちに窓から蜜柑を投げ与えた姿を見て抱いた感動を作品化したものだ。彼は市内汐入580尾鷲梅吉方(汐入町3丁目1番地)に下宿していたが塚本文との結婚で再び鎌倉に移る。海軍機関学校の生活は時間的拘束や生徒の気風になじめず「不愉快な二重生活」であった。そうした感情とは別に、彼は授業に対しては熱意があり内容もおもしろいものであったらしい。学校勤務の期間(大正5年12月から同8年3月)執筆を続け「或日の大石内蔵助」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」等の名作を発表した。が、それから間もない昭和2年(1927)7月、芥川は自ら命を絶つ(享年35歳)。この地において芥川龍之介に出逢えるとは思っていなかった。

JR横須賀駅前に戻る。再度ヴェルニー公園に入る。今度は旧日本海軍関係のモニュメントを意識しながら廻る。ヴェルニー記念館前に巨大な砲身が展示されている。戦艦「陸奥」の41cm主砲である。戦艦「陸奥」は横須賀で建造された。この主砲は1936年の大改修で搭載されたものだ。以前は東京のお台場にある「船の科学館」に展示されていたが、2016年に出生地・横須賀に移設された。3分ほど歩くと「海軍の碑」がある。碑文にこう記される。「浦賀に黒船が現われ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、我が国の近代化に着手した。特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露戦役を経てわが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において横須賀はその最枢要基地として、かつての一集落からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、また我が国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。平成七年十一月十七日」。他に軍艦山城の碑・軍艦長門の碑などもある。旧海軍の方々が費用を拠出して造られた。私の父は「榛名」という戦艦に乗っていた。父は高齢になってからも遠方の戦友会に足を運んでいた。軍艦乗組員の絆は我々の想像を超えるものがあるのだろう。  

軍港巡り観光船への乗船までには未だ時間がある。目の前にあるスタバに入りコーヒーを頂くことにした。2階の眺めの良い席を取り本を読みながらゆっくりと時間を過ごす。横須賀の解説本によると「汐入」という地名は満潮時に海水が逆流してくる土地であったことを意味するらしい。この地は、江戸時代に新田開発が行われた後、明治以降は横須賀軍港への入口の街として発展した。
 乗船20分前になったのでチケット売り場へ。「コースカベイサイドストアーズ」内に設けられている。横須賀モール・リーシング合同会社が運営するウォーターフロント型複合商業施設で住友重機械工業横須賀分工場(旧横須賀海軍工廠)と林兼造船横須賀造船所の跡地に立地する。住友重機に存在した高架起重機は1908年に横須賀海軍工廠時代に設置された。1975年に解体されるまでの間、横須賀のシンボルだった。敗戦後アメリカ海軍に接収されていたが、1959年に日本政府へ返還され後に住友重機と林兼造船へ払い下げられた。再開発の結果つくられたのがこの店舗。私は軍港巡りの予約をしていたので余裕でチケットを買えた。桟橋に出向くと既に列ができている。早く並んだ方は乗船すると眺めの良い2階席を占める。出遅れた私は1階室内の右側前方の席を取った。午前10時、汐入桟橋から「横須賀軍港巡り」は出航した。このツアーに参加するのは2度目である。10年ほど前に家族と一緒に乗った。水で生きている街は船で回らないと本当の風情が判らない。が、以前家族と乗ったときには子どもとの対話を優先していたので軍港そのものの観察が疎かになっていた。今回は1人なので(船の現在位置を確認しつつ)ガイドさんの話をしっかり聞きながら「軍港横須賀」の風景を脳裏に焼き付けることにしたい。

日本の潜水艦が2隻停泊している。自衛隊の艦船は自衛隊基地側に停泊させるのだが潜水艦は例外として米軍基地側に停泊させることが認められているらしい。右に6号ドックがある。大和型3番艦空母「信濃」が建造されたところだ(1番艦「大和」は呉・2番館「武蔵」は長崎で建造された)。膨大な費用と時間を費やして建造された、この巨大空母は、昭和19年10月9日進水したものの、呉で艤装を施されるため回航される際、11月29日、米軍潜水艦の魚雷攻撃で撃沈されてしまった。現在に戻る。アメリカ第7艦隊のイージス艦3隻が並んでいる。イージス艦は、艦橋部分に取り付けられた高性能レーダーにより多数の目標を同時に攻撃することができる、との解説がなされた。3隻の建造費がどれくらいになるか?というクイズも出された。もの凄い巨額である。船は右に大きく進行方向を変える。12号バースと呼ばれる巨大埠頭にアメリカ第7艦隊の主力である原子力空母「ロナルド・レーガン」(排水量約10万トン)が停泊している。下から見上げると完全に「動く要塞」である。昔、子供と一緒に回ったときは「ジョージ・ワシントン」を直ぐ前に観られたのだが、今回は高度の軍事機密に触れるということで、遠方からの見学しか観光船には許されていなかった。一般に艦船は女性の名前がつけられることが多いが最近のアメリカ海軍の航空母艦は歴代大統領のなかで特に軍事的貢献が大きかった者(男性)を選択して命名されている。
 かつて、この地は日本海軍の大軍事拠点であった。域内は約240ヘクタール。海軍人事部・経理部・艦船部・海軍病院・軍法会議・海兵団・通信隊・警備隊・砲術学校・航空学校などが集中しており、名実ともに日本海軍の心臓部ともいえる場所であった。周辺の船越・浦郷・吾妻島に海軍工廠造兵部・航海実験部・光学実験部・電池実験部・軍需部倉庫・通信学校・水雷学校・潜水艦基地隊が置かれていた。こちらも総面積125ヘクタール以上あった。これらが戦後アメリカ軍によって接収され現在に至っている。日本国内に「軍事的な租界」が設定されている事実は衝撃的だ。日米地位協定は現代版の「領事裁判権」ともいえる。アメリカ第7艦隊司令部庁舎は旧横須賀鎮守府庁舎(1924年建設)である。<敗戦の象徴>として接収され続けている。現在、基地内には約2万人を超えるアメリカ海軍軍人が生活している(ちなみに米軍基地内で雇用されている日本人労働者は平成24年3月現在において5135人「新横須賀市史」通史編・近現代1046頁)。日本政府は駐留経費の一部を負担さえしている。戦勝国アメリカは(戦後処理としては)日本に賠償金を求めなかったが日本が復興して賠償資力を得た後で経済的負荷をかけているのだ。
 海上に奇妙な杭のようなものが規則的に並んでいる。船体についた磁気を除去する装置だ。日本では横須賀にしか無い。何故この装置がいるかというと現代の機雷は磁気に反応して爆発するので船体に付着した磁気を定期的に除去しなければ危ないのだそうだ。機雷を除去する艦船(掃海艇)が金属だと危ないので掃海艇は船体全部が強化プラスチックで出来ているという。
 船は大きく左に旋回して吾妻島を通過する。ここは日米が共同利用する倉庫地区のようだ。左旋回すると眼前の遠くに工場群がある。追浜の日産自動車工場だ。手前に巨大な自動車運搬船が見える。かつての追浜には横須賀海軍航空隊がおかれ隣接して海軍航空技術廠がおかれていた。戦前の横須賀は単なる軍港ではなく「陸・海・空」の総合的軍事拠点なのだった。この海軍航空技術廠は昭和7年4月から昭和20年8月まで13年5カ月存在した日本海軍の(戦前・戦後を通して我が国最大の)航空研究機関であった(職員1700名・工員3万1700名)。その技術は敗戦後も引き継がれ、鉄道・自動車・建築などの技術革新に生かされた。「追浜」とは鎌倉時代に源範頼が兄(源頼朝)から追われ小舟に乗って密かにこの浜に上陸して漁夫の家に匿われた伝承による。「夏島」に伊藤博文の別荘があり金子堅太郎・伊東己代治らとともに明治憲法の草案をつくった。
 船は左に回って日本の海上自衛隊基地(船越)の側に来た。護衛艦をこれほど間近に見られる場所は日本の何処にも無い。今日は日米の合同訓練が行われているため多くの護衛艦が参加していて、普段よりも護衛艦の数が少ないということであった。船は最後に狭い水路(新井掘割水路)を通る。この水路は横須賀が軍港化される際に、本港と永浦港を水路で繋ぐために、ほぼ人力で開削されたものだ。水路を抜けた観光船は汐入発着所に帰還した。これでヨコスカ軍港巡りは終わりである。

「メルキュールホテル横須賀」に戻る。時間はあるが「記念艦三笠」を見に行く意思は私には無い。何故ならば三笠は家族とともに一度見学をしたことがあるし日露戦争の栄光を語るかのように置かれている三笠を(アメリカの巨大空母やイージス艦を見分した後)見学するのはなんとなく「違う」という感覚を覚えたからである。この三笠は敗戦後に艦橋が取り壊され水族館やダンスホールなど(軍艦としては)屈辱的扱いをされていた時期がある(艦内に当時の写真が展示されている)。この私の旅は観光ではなく「歴史散歩」であるから自分の中ではその姿のほうがしっくりくる。日本は今も<敗戦国>なのだ。その歴史を直視しよう。
 ホテルで荷物を受け取り汐入の駅に向かう。ぴったり羽田空港行き快速が来た。何度か乗ってきた京急電車だが、今日は何故かしら、その赤い車体が目についた。軍港横須賀の長い歴史は「白い列車さえ赤く染める」のであろうか?ねっからの九州人である私は京急の停車駅の名前を「ソラでは言えない」。電車内の表示をみながら呟いてみる。「横須賀中央・汐入・追浜・金沢八景・上大岡・黄金町・横浜・生麦・鶴見・川崎・蒲田・羽田空港第1第2ターミナル。」今回の旅も「これっきり」だ。この先も何らかの理由で横浜や横須賀を訪れることがあるのかもしれない。でも、このように五感を研ぎまし濃密な時間を過ごすことはたぶん二度と無いような気がする。そう。私の横浜・横須賀の歴史散歩は「これっきり」なのだ。夢の如き4日間の旅を思い起こしつつ、私は全日空261便で羽田を飛び立った。(終)

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