歴史散歩 Vol.78

三池港周辺2

三池港の東北、歩いて約10分くらいのところに素晴らしい洋館があります。三井関係要人の社交倶楽部・外国高級船員の宿泊・皇族を含めた政財界人の迎賓館として利用されてきました。100年以上のときを経た今も現役で総合結婚式場やレストランとして使用されています。今回はこの建物を巡る物語です。本稿作成にあたって、有明工業高等専門学校の松岡高弘教授から丁寧な御教示を頂きました。記して謝意を申し上げます。(参考文献「筑後の近代化遺産」弦書房)
 
 三井港倶楽部は翌年の三池港開港をにらんで建築が準備されました。当時の額面で6万5000円という高額予算が付けられています。三井は敷地として当時芋畑だった土地を約5万平方メートルも買い入れました。登記事項証明書によると現在の敷地面積は約5081平方メートルですから当初はその約10倍の敷地を誇っていたことになります。棟札には設計者として「清水満之助」と記載されています。施工を請け負った清水組(現・清水建設)の社長の名前です。おそらく清水満之助自身が設計したのではなく、清水組設計部門の社員が担当したのでしょう。この建物は明治40年8月10日に起工され、明治41年2月16日に上棟し、同年8月15日の三池港開港と同時に開館しました。旧三井港倶楽部は大牟田市西港町2丁目にあります。道路側の入口を入ると左手に芝生の庭園が広がります。少し進むと右手に団琢磨の銅像と大浦抗の遺構が目に付きます。
 芝生正面にハーフチンバー・スタイル風の立派な建物が鎮座しています。ハーフチンバー・スタイルとは「木骨様式」と直訳されています。木材で構造を造り、構造材の間を埋めて壁にする建築手法(英国で15~17世紀に流行)です。九州には旧門司三井倶楽部・雲仙観光ホテル・旧松本健次郎邸(戸畑)など、ハーフチンバー・スタイルの建物が見受けられます。ハーフチンバー・スタイル「風」とした意味は三井港倶楽部の壁に間に見受けられる多数の美しい木材は<デザイン>として取り入れられているに過ぎず、構造耐力を担っているわけではないという趣旨です。あくまで疑似建築なのですね。アプローチ側に印象的な2つの丸窓があります。「港」を冠する建物として船窓をイメージしたデザインでしょう。当時は挑戦的な意匠だったと思いますが、全く違和感がありません。

 本館に入る前に隣設建物との近さに注目してください。港倶楽部は北に正面を設けています。その真正面が寸詰まり状態になって工場の一部のような建物が間近に造られています。建築当初ここには広大な前庭があったこと・それがぎりぎりまで削られて現在の敷地となっていることを伺わせます。是非とも「目の前のこの建物は何なのだろう?」との疑問を抱きながら旧三井港倶楽部に入ってみてください。立派な入り口を入ると左右に三池港のモニュメントが飾られています。


 真正面に喫茶室、左手に応接間、右手に食堂があります。

 現在レストランが営まれている宴会場は右手奥の平屋部分に存在しています。宴会場は素晴らしいシャンデリアが配された広大なものです。使用されている家具も素晴らしいものです。これらシャンデリアや家具は本件建物専用に作られた特注品です。

宴会場は建設当時は球戯(ビリヤード)場でした。昭和初期に食堂に改められ、その後宴会場になったという経緯があります。宴会場がある平屋部分には他に配膳室・浴室・トイレがあります。食事を済ませたら2階もご覧下さい。前述の船窓をイメージした丸窓は2階に登る階段室にあります。内側から見ても素晴らしいデザイン性を感じることが出来ます。


2階には広間と4つの個室があります。三井港倶楽部は建物が優れているだけではなく什器備品にも素晴らしいものがあります。建物内には多くの絵画が配されておりミニ美術館として楽しむことも出来ます。多くは印象派風の作品です。建物内には明治時代の著名な政治家の書が飾られています。

井上馨「山海を開発して世界に通ず」   伊藤博文「浦潤山輝」

三井が国家権力と密着しながら三池炭鉱の開発を進めたことが良く判ります。庭園から見る三井港倶楽部の建物は美しいものです。この庭園でガーデンウエディングを行うことも出来ます。近郊で結婚式をお考えの方は是非ご検討ください。

 この建物は昭和61(1986)年に改修工事が行われた上で、市民に開放され、結婚式場やレストランとして利用されていました。しかし所有している三井鉱山が産業再生機構の支援を受ける事態に陥り、営業は平成16年12月25日中止されます。三井鉱山は大牟田市に買い取りを打診しますが、大牟田市も財政難であるため交渉は難航しました。このとき保存を求める市民の声があがり、地元経済界有志により保存会が設立されます。NPO法人「大牟田荒尾炭鉱のまちファンクラブ」です。保存へ向けた署名運動がスタートされ1か月余りで約2万8000人の署名が集まりました。地元経済界により株式会社港倶楽部保存会が設立され三井鉱山と売買交渉を進めた結果7000万円での譲渡が決定します。当初2億5千万円を提示していた三井鉱山ですが、「地元が所有するのならば」ということでこの価格になったのでしょう。平成17年10月5日、この土地建物は三井鉱山から株式会社港倶楽部に譲渡されました。そして閉館から1年後に旧三井港倶楽部は再オープンすることができたのです。三井三池には「光」の側面と「影」の側面があります。両者は各々をバランス良く考察する必要があり片側からだけ論じるのは良くない、と私は考えています。三池港と旧三井港倶楽部は三井三池の「光」を象徴するものです。この建物は平成17年12月12日大牟田市指定文化財の指定を受けました。平成19年に経済産業省近代化産業遺産に認定されています。地元の方々の御好意により救われたこの建物の生命が長く長く続きますように私は祈っています。

* 平成29年6月、株式会社港倶楽部保存会と三井松島産業株式会社及び株式会社エムアンドエムサービス(三井松島産業の100%子会社)は平成29年5月31日港倶楽部保存会が所有する旧三井港倶楽部の資産を三井松島産業に譲渡すること、その事業をエムアンドエムサービスに譲渡することで合意し、契約を締結しました。再びこの建物に三井の血が流れることになりました。

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