歴史散歩 Vol.144

ちょっと寄り道(多賀城松島)

3日目午前は多賀城址と東北歴史博物館を見学し午後は塩釜から松島に渡りました。予定とは全く違う廻り方になりましたが、スリリングな面白い1日でした。
(参考文献)松尾芭蕉「おくの細道」角川ソフィア文庫、関屋淳子監修「奥の細道を歩く」JTBパブリッシング、進藤秋輝「シリーズ遺跡を学ぶ№66古代東北統治の拠点・多賀城」新泉社、「東北歴史博物館展示案内」熊谷公男「日本史リブレット:蝦夷の地と古代国家」山川出版社、河北新報社編集局「仙台藩ものがたり」河北新報出版センターほか。

早めの朝食をとって「ドーミーイン広瀬通り」を出発する。雨が止んでいる。そのため松島方面の天候を心配する昨夜の友のメールを私は失念していた。事前に立てていた予定は仙台駅からJR東北本線に乗って「国府多賀城」で降車する・多賀城史跡と東北歴史博物館を見学・「国府多賀城」からJR東北本線で「塩竃」駅に行き塩竃神社参拝・JRで「松島」駅まで行く、というルート。東北本線で国府多賀城駅に行きたかった理由は2つ。1つは「国府多賀城」が多賀城遺跡近くなので便利であること(仙石線多賀城駅から遺跡までは相当距離がある)。もう1つは「おくの細道」の仙台多賀城間に「奥の細道の山際に十符の菅あり」という記述があり「奥の細道」とは現在の仙台市岩切から国府にかけての旧七北田川に沿う道を指すとされること(JR東北本線が七北田川を横切るあたりに「岩切」駅が設置されている)。要するに私は可能な限り芭蕉の「おくの細道」に沿った道程をたどりたかったのだ。そんな思いから「東北本線」に乗るつもりで仙台駅の改札を通った。改札機前に重要な告知が為されていたのだが見落としていた。私は何ごともないかの如く東北本線のホームに行き、普通列車の出発予定時刻を確認した。が何と!あと1時間以上待たなければならない!これは時間の無駄と思い地下ホームに移動して(便数が多い)「仙石線」を使うことにした(私は次のことを深く考えずに予定を変更する傾向がある)。約10分程で直ぐに仙石線普通電車に乗車できた。とりあえず、ここまでは問題がなかった。問題が生じるはもっと先である。

列車は昨日降車した「榴ヶ岡」を過ぎ、多賀城市に入った。仙石線「多賀城」駅で降りる。現在の街の中心はこの「多賀城」駅周辺である。ここから多賀城遺跡までかなり遠い。私は体力を温存するためタクシーを使いたかったが見つからない。多賀城遺跡に歩いて向かう他無い。私はけっこうな距離を歩いて「国府多賀城」駅近くに辿りついた。道沿いの手前の角に東北歴史博物館があった(国府多賀城駅と隣接している)。まだ開館時間(午前9時半)前なので先に多賀城遺跡を見学することとした。今回の歴史散歩に先立ち私は進藤秋輝「シリーズ遺跡を学ぶ№66古代東北統治の拠点:多賀城」(新泉社)を予習している。が、実際に多賀城遺跡を見てみると遺跡の印象は事前の予想と違う。多賀城遺跡は巨大なのだ(約900メートル四方・内約100メートル四方の政庁跡が遺されている)。容易に見学できる南門(復元中)から多賀城碑辺りは(空撮写真をみると)多賀城遺跡のごく一部であることが判る。奈良時代に完成する律令国家において「東北における多賀城」は「九州における太宰府」に匹敵するものであった。即ち「地方支配の要」であった。大宰府政庁と同様、古代都市多賀城の南側には碁盤目の道路が整備され、都から来た人々や東北各地から来た人々が集い、豊かな生活が展開されていた。南門前の道路を東に歩く。微高地上の少し踏み入ったところに立派な瓦付きの小屋に守られた石碑があった。多賀城設置の由来が漢文で詳細に記されている。この地に来るまで私は認識が無かったのだが、これが「壺碑」として著名な「多賀城碑」である。江戸時代、松尾芭蕉はこの石碑を見て感激し「おくの細道」でこう記す。

昔より詠み置ける歌枕、多く語り伝ふと言えども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念(かたみ)今眼前に故人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

ただし、角川ソフィア文庫「おくの細道」解説によれば両者は全く別物であり、芭蕉は勘違いをしただけだと説明している。学問的なことなど私には判らない。もともと私は最初から壺碑についての認識が無かった程なので両者の同一性などどうでも良い。芭蕉が江戸時代に感激した石碑をこうして21世紀に生きる自分が目にしている事実だけで私は十分に満足であった。少し東に歩き官衙の東南部分(角)を確認できたところで多賀城遺跡の見学を終了した。

午前9時半。「東北歴史博物館」が開館。良い気分で見学を開始する。想像していたよりも遥かに立派な建物である。当然ながら展示の中心は多賀城関係だ(城柵とエミシ・多賀城の役割と古代都市としての意義)。前述のとおり古代都市多賀城南側には碁盤目の道路が整備され都から来た人々や東北の各地から来た人々が集い豊かな生活が展開されていた。それを実証する土器・陶器・金属道具類などが豊富に展示されている。中には呪術用の人形もあった。
 古代における東北は中央権力から「征服の対象」として認識されていた。古代のヤマト政権は国造制を施行した6世紀半ば頃、施行範囲外の人々を「化外の民」である「蝦夷」とひと括りに認識した。各地の蝦夷集団を服属させ、政治関係を結び朝貢を促した(中国大陸王朝が展開した中華思想を日本的に適用したもの)。蝦夷は高い戦闘力を有しており、中央権力も彼らの戦闘能力を高く評価していた(太宰府警備に充てられた防人も多数)。東北は良馬の産地であり蝦夷は馬を良く乗りこなした。中央集権化が早くから進んだヤマトに対し蝦夷社会は個々の集団の自立性が相対的に強かった。「大化の改新」は国造が支配するクニを解体し、評という新行政組織を全国的に配置するものだった。その外に蝦夷の支配拠点として「柵」が設置された。655年に重祚した斉明帝は積極的な蝦夷政策のもと大遠征を行った。それは従前政策が国郡制の「面」的拡大を基本としたのに対し朝貢制支配の「点」的拡大を志向したものであった(@熊谷公男)。701年の大宝律令で骨格が定まる古代国家は国司の一員を蝦夷支配の拠点である城柵に派遣し常駐させた。この延長線上に、724(神亀元)年創設されたのが多賀城である。多賀城は当初から陸奥国府と鎮守府が並置された。発掘調査の結果、国府政庁の瓦は大崎・牝鹿地域で生産されたものであることが判明している。このような考古学的研究が進んでいることは「古代日本の成り立ち」を認識するために重要である。学芸員さんの努力に感謝。展示物は古代関係だけではなく中世(特に奥州藤原氏)や近世(特に伊達政宗の治政)に関しても十分な解説がなされている。満足して東北歴史博物館の見学を終える。

裏口の東北本線「国府多賀城」駅に向かう。ここで私は驚愕の表示を目にした。大雨の影響により東北本線が動いていない!仙石線は動いているものの松島方面が大雨のために塩釜付近で折り返し運転になる!「松島まで行けるのか?」というレベルの問題になった。とにかく動いている交通機関に頼るしか無い。私は再び結構な距離を歩くことにした。左手に「多賀城廃寺」があるけれども今の私にはこれを見学する余裕は無い(多賀城廃寺は多賀城の付属寺院として建立されたもので、太宰府の「観世音寺」と同じ伽藍配置をしているらしい)。仙石線「多賀城」駅まで帰還。掲示板をみると下りは東塩竃駅までしか行かないらしい。私は「少しでも松島近くまで行き後はその場で考えよう」というテキトーな感じで、来た電車に飛び乗った。スマートフォンで「塩竃・松島」の交通手段を検索する。すると驚愕の表示が出た。なんと「塩釜港から船で松島まで行ける」ことが判ったのだ!東北人にとっては当たり前のことであろうが九州人にとっては当たり前では無い。もともと私は旅先で舟に乗るのが大好きなのだが今回は選択に入れていなかった。にもかかわらず、JRの運行休止というアクシデントを受けて私は大好きな「船の旅」をすることが出来るようなのだ!たぶん私は運が良い。そのとき今日泊まる予定の松島センチュリーホテルの従業員さんから確認の電話がかかってきた。従業員さん曰く「東塩釜までホテルの臨時バスを出すので到着時刻を教えてください」。私は「塩竃港から船で行く予定です」と伝え「たぶん大丈夫です」と付け加えた。
 とにかく予想していない事態だった。何がこういう事態を起こしたのか?判らない。塩竃から船で松島にいくなど1ミリも考えていなかった。本来の予定ではJR東北本線の塩釜駅を降り、塩竃神社を短時間参拝して再びJR東北本線で松島に赴くつもりだった。歴史散歩では「塩釜神社は多賀城が西南5キロの丘に設けられた際に精神的支えとなった社であること・国府の鬼門に位置し国府守護と蝦夷地平定を祈願したこと・都からの赴任者に篤く信仰された社であること・潮流の神であり製塩の神でもあること」などと得意のウンチクを述べるつもりだった。しかし、この状況下では私にそんな余裕は無い。塩竈神社参拝は中止だ。本塩釜駅で降り海に向かう。
 塩竃港(国府多賀城の外港たる意義がある)を擁する塩竃市は独自に訪れる価値のある素晴らしい街である。決して通り過ぎるような街ではない。松尾芭蕉もこう記述している。

塩竃の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに籬が島もほど近し。あまの小舟漕ぎ連れて肴分かつ声々に「つなでかなしも」と詠みけん心も知られ、いとどあはれなり。

引用されている「つなでかなしも」とは「みちのくは いずくはあれど 塩竃の 浦漕ぐ舟の綱手かなしも」という古今和歌集の東歌である。しかし、今の私は今日中に松島に辿り着けるか否かの瀬戸際に立っているのだ。自分が「あはれ」になったらギャグだ。海に向かい歩くこと約10分。松島港行観光船乗場があった。運行状況を確認したら「通常通り運行」。ホッとした。私は無事に正午発「丸文松島観光汽船(芭蕉コース)」の切符を購入することが出来た。

日すでに午に近し。船を借りて松島にわたる。その間2里余、雄島の磯に着く。

芭蕉も(正午頃に)塩竃から松島への船旅をしている。塩釜は天然の良港として古くから名を馳せてきた港。同じ舟の旅を私は辿っている。まさに芭蕉コースだ。船は、造船業で栄えた塩竃港を出て湾内の島々を巡る。特徴ある島(仁王島・鐘島・鎧島・兜島など)前では速度を緩めて解説の音声が流された。船は毘沙門島・大黒島の間を抜け雄島の脇を通り過ぎる。

快適な50分の船旅。私は松島港岸壁に降り立った。「松島センチュリーホテル」へ向かう。たどり着けてホッとする。ホテルの従業員さんも私が辿り付けたことを喜んでくれた。チェックイン時刻前なので荷物を預けた。近くの食堂で遅い昼食をとる。松島はなんといっても牡蠣だ。生牡蠣と牡蠣フライのセットで生ビールを飲む。食後、辺りをゆっくりと散歩。
 西に歩くと近くに五大堂がある。東北地方で最古の桃山建築として国の重要文化財に指定されている。大聖不動明王を中心に東:降三世、南:軍荼利、西:大威徳、北:金剛夜叉の五大明王像を安置している。この建物は慶長9(1604)年に伊達政宗が再建したものである。橋桁が完全に板張りされず、隙間から海が見える「透かし橋」が印象的である。「何気なく渡っているこの世も一寸先は奈落であると思え」との仏教思想が込められているそうだ。南無。

道の反対側に「瑞巌寺」(松島青龍山瑞巌円福禅寺)の入口がある。9世紀初頭、比叡山延暦寺第3代座主慈覚大師円仁によって開創された天台宗「延福寺」が前身。奥州藤原氏は延福寺を篤く保護した。藤原氏滅亡後は鎌倉幕府が庇護者になる。13世紀中頃、執権北条時頼が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名を「円福寺」と改めた。室町時代になると、円福寺は地方の名刹を示す「諸山」の地位に位置づけられ、やがて「関東十刹」に昇進するも戦国時代を経て次第に衰退し、16世紀末に臨済宗妙心寺派の1寺院になる。関ヶ原戦後、伊達政宗は領民の精神的な拠り所とするため盛んに神社仏閣を造営したが、その流れの中で円福寺復興に力を注いだ。奥州藤原氏や鎌倉幕府が保護した古刹を再興することにより「自分こそこの地域における精神的・政治的・文化的正統性を保持する者だ」と内外に表明する意味あいがあった。政宗は「奥州の高野」と称される霊場松島円福寺を復興して菩提寺とすることで自身の浄土往生を願ったと考えられる。
 慶長14年(1609)、5年の歳月を経て復興工事が完了し、元和6年(1620)から元和8年にかけて本堂の各室を飾る障壁画の制作が行われた。伊達家の菩提寺として厚い庇護を受けた瑞巌寺は60余の末寺を有し、領内随一の規模と格式を誇った。しかし明治維新後は廃仏毀釈や伊達家の版籍奉還による寺領撤廃を受けて什宝物の散逸・建物の損傷等、荒廃の憂き目を見ることになる。明治9年(1876)、明治天皇東北巡幸に際し瑞巌寺が行在所となったことが復興の契機となった。桃山美術を現在に伝える貴重な建築物であることから、昭和28年に本堂と御成玄関が、昭和34年に庫裡と本堂をつなぐ廊下が、各々国宝に指定されている。
 高齢者は松島瑞巌寺と聞けば「さいたろうぶし」をイメージする方が多いだろう。
       エンヤードット エンヤードット 松島の サーヨー
       瑞巌寺ほどの(ハ コリャコリャ)寺もない トエー
       あれは エーエ エトソーリャ 大漁だ エー
 私の亡父も宴会でよく歌っていた。この歌は、瑞巌寺を訪れたことがない全国の人々に対して松島瑞巌寺の素晴らしさを伝えるために絶大な力を発揮したことであろう。
 還り参道では、岩壁に掘られた摩崖仏を、昔の人の息使いを感じながら拝見した。

西側に歩く。茶屋観瀾亭(かんらんてい)がある。伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の1棟であり、のちに2代藩主・伊達忠宗によって松島に移築されたと伝わる。「伊達政宗の基本的スタンスは徳川ではなく豊臣であること」を強く印象づけられる。
 観欄亭を出る。グリーン広場を抜け雄島に向かう。雄島は中世において禅の修行地だった。芭蕉もそういう背景を踏まえて雄島を訪れている。

雄島が磯は地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。はた松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落ち葉・松笠などうち煙りたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知れずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに月海に映りて、昼の眺めまた改む。

雄島入口を示す階段を上がると岩壁に摩崖仏が掘られている。狭い岩壁の切通しを抜ける。雲水が島の岩陰で座禅している姿をイメージしつつ渡月橋を渡る。渡月橋は雄島へ赴く雲水が俗世との縁を断つことから「縁切り橋」と呼ばれた。橋を渡ると多くの岩窟がある(以前は108あったようだが現在は50ほど:ネット情報)。これは修行僧や巡礼者の手によって掘られたもの。島内には石碑も多く存在する。最南端にある六角形の鞘堂は重要文化財指定「頼賢(らいけん)の碑」が納められる。頼賢は22年籠って修行した僧の名だ。一度も雄島から出ずに法華経を唱えたと伝わる。コロナ禍のため雄島では他に人の姿を見なかった。この幽玄な霊場を夕暮れ時に「1人で」廻るのは少しばかり勇気が要る。異界に迷い込まないうちに引き返すことにしよう。

道を折り返す。「伊達政宗歴史館」がある。典型的な観光施設だが伊達政宗という人物を良く知らない人間にとっては(判りやすく為された展示によって)その概略を簡単に頭に入れるのに便利なところ。専門的叙述をする際には詳細に調べて批判的検討をすべきだが非専門家における素人的認識を得るにはちょうど良い。特に「独眼竜正宗」ファンには面白いだろう。センチュリーホテルに帰る。私はホテルや旅館の豪華な夕食は苦手だ。近い居酒屋でビールとつまみだけの軽い食事をとる。今日はいろんな出来事があった。だからこそ旅は楽しい。(続)

* 難波信雄他「街道の日本史8:仙台松島と陸前諸街道」(吉川弘文館)より。
>中世人のみちのくの旅には宗教的な雰囲気が色濃く感じられる。彼らの多くが目指したのが松島であった。松島の名が世に知られるようになったのは一二世紀の院政時代のこと。見仏という法華の行者がいて雄島に住み、鬼物を使役することが出来る超能力を獲得したと信じられた。時宗二世の僧(他阿真教)は「むらさきの雲の遊迎えを松島や、仏みるてふ名さえ懐かし」と詠んだ。「紫の雲の迎え」とは阿弥陀如来のことであった。松島の絶景は阿弥陀如来の来迎を人々に確信させる要件であった。中世の多くの仏教諸宗派(天台宗・浄土真宗・時宗・臨済宗など)が松島にかかわりを持ち、根拠を持とうとした。聖地松島の存在は(この地域の・宗教の)求心力を高める大きな要因となっていた。政治家もまた松島を重要な場所とみなした。特に鎌倉時代の北条氏は陸奥国への勢力伸長の尖兵として松島を位置づけた。(79頁以下)

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