歴史散歩 Vol.137

ちょっと寄り道(横須賀1)

 横須賀歴史散歩1日目は浦賀と観音崎を歩き横須賀中央へ戻りました。路線バスで上町に出向き横須賀のメタファーとしての山口百恵さんに触れてみました。
 (参考文献)井上勲編「開国と幕末の動乱」吉川弘文館、西川武臣「浦賀奉行所」有隣新書、同「ペリー来航」中公新書、高村聡史「軍港都市・横須賀」、上杉和央「軍港都市の150年」吉川弘文館、NHK「ブラタモリ8」角川書店、都道府県研究会「地図で楽しむ神奈川」洋泉社、山本詔一他編「港町から№2:特集浦賀・横須賀」街から舎、速水侑「菩薩」講談社学術文庫、山口百恵「蒼い時」集英社文庫、平岡正明「山口百恵は菩薩である」講談社文庫など。

 コロナ禍中の「ホテルマイステイズ横浜」の朝食は各部屋に配布される弁当であった。意表を突かれた。チェックアウトを済ませリュックを背負いホテルを出る。大岡川を渡り黄金町駅から京急電鉄に乗った。京急は(軍事目的で敷設された旧国鉄横須賀線とは違い)基本的には民用路線である。横須賀・横浜と東京を最短距離で結んでいる。電車は金沢文庫・金沢八景を通り過ぎ横須賀の汐入駅に着いた。汐入は僅かな山の間に設けられた駅。線路の両側はトンネルだ。この駅の景色に特異な横須賀の地形が表象されている。汐入駅の直ぐ前に「メルキュールホテル横須賀」がある。未だチェックイン時刻前なので、フロントに荷物を預けて歩き始める。汐入駅から再び京急の赤い電車に乗り「京急浦賀」に向かう。この浦賀線は形式的には本線であるが久里浜方面のほうが乗客が多いので実質的には支線の扱いをされているようだ。

 浦賀まで時間があるので少し考えごとをする。三浦半島は幕末開国の舞台となったところ。古代の日本において外交交渉の舞台は主に九州を窓口として行われた。何故ならば当時の外国とは主に朝鮮半島と中国大陸を念頭に置いていたからである。中世は博多が代表的な港であり江戸時代は長崎が海外への窓口とされた。長崎は秀吉時代以来の直轄地であり地理的に江戸から最も遠い処だった。活発な国際関係が展開された織豊時代を封じ込むかのように(国内の安定を図るため)幕府は国際交渉を最小に留めた(江戸化@我那覇潤)。国際関係で「ひきこもり状態であった」と表現しても良いだろう(ただし複数の国と正規の貿易をしていたしオランダを通してヨーロッパ情勢にも通じていたので学校で習った「鎖国」という表現は適切ではない)。しかし江戸化で安心していた日本は<背中側から>突かれた。アメリカが「太平洋を挟む隣国」として登場したからである。ペリー艦隊が浦賀沖に現れたのは浦賀水道が江戸湾への進入路であることによる。江戸湾の海底地形は千葉側が浅く浦賀沖が深い。船にとって怖いのは座礁だから大型艦船は浦賀沖を通らざるを得ない。そのことをペリー艦隊は事前に調べ上げていた。来航後も湾内の水深を頻繁に測っている。
 合衆国大統領の親書を渡すためにペリーが上陸したのは久里浜だ。私は大学生の頃国立からサイクリングで久里浜に来たことがある(三浦半島一周)。JR久里浜駅で野宿をした。ペリー上陸記念碑や記念館も見学している(記念碑は戦時中に倒されていた時期がある)。ペリー来航が開国の契機となったことは間違いないが、時のアメリカは南北戦争(1861から1865)の前後であり国内的混乱の収束が優先された。そのため海外展開に政治的資源を割ける状況になかった。
 「幕末維新」と呼ばれている政治現象はイギリス(西南雄藩側)とフランス(幕府側)による代理戦争(その国内的な表現)という側面が濃厚である。加え、この間に発生した安政地震やコレラ感染等の自然現象「ええじゃないか」なる集団発狂も頭にいれる必要がある。幕末維新を「勤王の志士」の意思が開化したかのように過剰に脚色するのは「ガラパゴス的歴史観」と呼ぶべきものであろう。
 
 そんなことを考えているうちに京急電車は浦賀駅に着いた。階段を降りると目の前はいきなり遮蔽されている。浦賀造船所(浦賀船渠)跡地である。隙間からドックが見える。当然ながら幕末史の思い出話だけで日常生活はできない。近代浦賀は造船業を主とする工業都市だったのだ。浦賀ドックは明治29(1896)年に設立された老舗造船所である。2003年に閉鎖されるまで約100年の長きにわたり約1000隻の艦船を作り出してきた。当初は浦賀水道をゆく艦船の修理を目的としていたが戦争需要の高まりにより駆逐艦などの軍艦も製造した。ドックは世界的に珍しい煉瓦作りである。地元の催し物の際には一般公開されていると聞く。
 湾右側の道を歩く。「浦賀奉行所」跡を探したが容易に見当たらない。親切そうなおじさんを見かけたので奉行所の位置を聞いたところ私は目標を通り過ぎていた。山側に向けて道を戻る。突如、堀に囲まれた広大な空き地が視界に入った。これが浦賀奉行所跡である。浦賀奉行所は享保5(1720)年に伊豆下田から移転されたものである。移転の公式見解は「下田は港の出入り口に岩礁があって船の出入りの支障になっているという船乗りたちの声を聴いたもの」というものだが、もちろんこれは表向きの理由だ。真の理由は浦賀が江戸湾に出入りする船が通らざるを得ない海の要所であるため、ここに全ての船舶の検査をする御番所を設けるのが取り締まりをする幕府側にとって都合がよかったからである。即ち、浦賀は「海における関所」の役割を担っていた。
 開設から100年経った19世紀初頭、浦賀沖は異国船が姿を見せるようになっていた。浦賀奉行所には異国船の警備と応接の役割が与えられていた。嘉永6(1853)年6月にぺリー艦隊が現れるが、浦賀奉行所にとっては文政元(1818)年5月来航したイギリス船から数えて「7度目」のことであった。幕府は「オランダ風説書」や長崎海軍伝習所教官ドンケル・クロチウスなどによりペリー艦隊が来航するとの情報を事前に得ていた(藤井哲博「長崎海軍伝習所」中公新書)。それゆえ浦賀奉行所にとってペリー艦隊の出現は「突然」でも何でもなかったのである(世界的には著名なニュースでありロンドンの新聞は大きく記事を掲載していた)。
 浦賀奉行所の中島三郎助や香山栄左衛門ら主要閣僚はペリー艦隊に冷静かつ周到に対応し、無礼無きようアメリカ合衆国大統領の親書を久里浜で受け取ることにした。事後、嘉永7(1854)年1月にペリーが再来航して、横浜で日米和親条約が締結され、安政5(1858)年に日米修好通商条約が締結される。横浜の開港後、異国船対応は浦賀奉行所から神奈川奉行所に引き継がれた。が浦賀奉行所は事後も「船改め」の役割を引き受けるとともに軍艦の製造や修理などで重要な役割を果たした。安政7(1860)年に咸臨丸がアメリカに向け出港したのも浦賀からである。浦賀奉行所は慶応4(1868)年4月政府軍に接収され「船改め」以外の業務を終えた。「船改め」の業務は明治5(1872)年まで続けられている。

 海沿いの道へ戻る。「陸軍桟橋」がある。ここは第2次大戦の終了後、海外からの引き揚げの地となったところである。約58万人がここから日本に降り立った。九州人である私は博多港や浦頭港(佐世保)が引き揚げ港だったことを知っているが浦賀も多数の方々が降り立った港であった(全く認識が無かった)。浦賀は戦後も重要な役割を果たしてきたのである。案内板に引き揚げに際してのコレラ感染のことが言及されている。誠に難儀なことであった。すぐ前にある「よこすか浦賀病院」は舟番所の跡だ。浦賀は1日に50雙にも及ぶ船が往来していたため、奉行所の役人だけでは検査の手が足りず、廻船問屋と呼ばれる人たちに委託されていた。奉行所の下田からの移転に伴い「下田問屋」と称される廻船問屋は浦賀63軒・西浦賀22軒、東浦賀20軒の合計105軒を数えた。
 「浦賀の渡し」は300年の歴史を持つが、今も現役である。湾の直ぐ向こう側に行き先が見える。私が出向いたときは舟がこちら側に停泊していたので直ぐ乗れた。向こう側に舟がいるときは待合のボタンを押して知らせるようになっている。約3分程の短い舟旅だが浦賀ならではの輸送手段だ。客は私1人。200円で浦賀湾横断の散歩を楽しめる。お勧めである。

 船着場近くにバス停留所がある。京急バスが来た。海を眺めながら揺られていると約15分で観音埼公園に着く。雨の中、傘をさして歩き始めた。岬の向こう側に「観音崎」の名前の由来となった観音様を祀る祠がある。これは行基上人が天平13(741)年、ここに観音像を祀ったことに由来するものらしい。観音菩薩は衆生を救済するため様々に変化すると信じられていた。法華経の「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には観世音菩薩が衆生を救うために相手に応じて33の姿に変身すると説かれている。うち聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・不空羂索観音を六観音という。六観音は「六道に迷う衆生を救う」との考え方から生まれている。地獄道(聖観音)餓鬼道(千手観音)畜生道(馬頭観音)修羅道(十一面観音)人道 (不空羂索観音)天道(如意輪観音)。奈良京都を中心に全国に作像例がある。行基上人が祀ったという観音様は何だろう?などと考えながら祠に向かってお辞儀をして合掌する。海沿いの坂を上っていく。通路には見事な地層がむき出しになっている。正確なことは全く判らないが、ここは「地学研究の宝庫」でもある。
 観音崎灯台に着く。日本初の西洋式灯台として著名である。横須賀製鉄所設置を指導したフランス人ヴェルニーの指揮で明治2年に建てられた。建設には横須賀製鉄所で焼かれた約6万5千枚もの煉瓦が使われた。大正11年に地震で倒壊したので、コンクリート製のスマートな灯台に生まれ変わるも、翌大正12年の関東大震災で再度被災。そのため大正14年に3代目として建設されたのが今の観音崎灯台だ。77000カンデラの光度と約35キロメートルの光達距離を誇っている。観光客も灯台の中を見学できる。隣りに海の資料館と売店がある。クリスタルガラス製置物を購入した。代金を払う際、私が雨の中を遠く九州から来たことを告げると、管理人さんが喜んでくれて特別のプレゼントを頂いた。お気持ちが嬉しい。私は運が良い。
 帰りは北門第1砲台跡を通る。昔、観音崎は全体が要塞であった。観音崎、広くは三浦半島全体が横須賀軍港を守る最重要軍事拠点であった。ひと昔前の観音崎はリュックを抱えた観光客が気軽に散歩できるような処ではなかった。坂を下ると現代の海の管制室たる「東京湾海上交通センター」がある。東京湾を出入りする多くの船舶をさばくのは難儀なことであろう。

 横須賀方面行のバスに乗る。地図をみると左手の坂上(小原台)に防衛大学校がある。右脇の住宅地は全て埋め立てで出来たものである。その一角・安浦町には色街があった(現在、痕跡は全くない)。正規の遊郭・柏木田よりも安価なので繁盛したそうだ。特に戦後は占領軍兵士用の慰安施設が設けられて「安浦ハウス」と呼ばれた(「新横須賀市史」987頁)。悲しい歴史。著名な海軍料亭「小松」は道路左側にあったのだが喪失していると聞く(ネット情報)。裏山沿いにある横須賀鎮守府司令長官官舎は残存しているが、今日は時間がないのでスルー。
 横須賀中央駅で降車。三笠通り商店街を抜け左側の路地にある民家を改装したオシャレな店で遅い昼食。タコライスが美味かった。食事後、上町方面を目指す。私は衣笠駅方面のバスに乗りたいが、不入斗橋から衣笠駅にそのまま向かう路線(多数)と不入斗橋西の運動公園県営団地方面に向かう路線(少数)がある。昔、県営団地に山口百恵さんが住んでいたという情報を仕入れていたので、どちらにしようか迷い次に来るバスの行先に委ねることにした。待つこと約5分。来たバスは衣笠駅行だ。迷わずバスに乗って「不入斗橋」で下車。不入斗の読みは 「いりやまず」 。この不思議な地名の起源は昔の寺社領などで貢納を免ぜられた不入の権をもつ免租地であったからという説が有力である。バス通り一本南の広い直線的道路に入る。ここが「柏木田遊郭」跡である。戦前の横須賀を代表する色街だ。今その気配は全くない(下知識がなければ絶対に判らない)。
 バスで来た道を歩いて戻る。左は「上町」・右は「深田台」。上町にある豊島村は陸軍の拠点であった。「うえまち病院」は陸軍の東京湾要塞司令部があったところである。「下町の海軍」に対し「上町の陸軍」と呼ばれた。深田台は海軍中枢部が置かれた軍港半島から土地交換でやって来た人々が住んだところだ。左に図書館が右に文化会館と平和中央公園がある。平和中央公園は戦時中に砲台が設置されていた高台。見晴らし台から「今も海が見える」。米軍基地になった海軍中枢や砲台がある猿島も見える。噂ではここが「横須賀ストーリー」の舞台らしい。

 1962年生の私にとり横須賀とは山口百恵さんのメタファーである。実家に兄が購入した百恵さんのデビューシングル「としごろ」があった。爽やかなこの曲を私は良く聞いた。が後の性をテーマにした何曲かは「少女を見世物にして金を稼ごうとする大人たちの下品さ」が見え隠れする醜悪なものであったと私は思う。しかしながら歌手としての自我に目覚めた百恵さんは自分の意思で宇崎・阿木コンビを指名し、横須賀を舞台とした一連の歌世界を作り上げていく。そこには単なる歌手を超えた百恵さんの「プロデューサー的才能」の煌めきがあった。
 山口百恵さんは私の4学年上にあたる。14歳で芸能界入りされていた百恵さんの人生密度は濃厚である。「蒼い時」は自己の出生・芸能生活・訴訟等をテーマにしている。21歳の女性が書いたとは思えない透徹した文章「自分を書くということは自分の中の記憶を確認すると同時に自分を切り捨てる作業でもある」。百恵さんは三浦友和氏と幸福な結婚をして芸能界を潔く引退された。1980年10月5日に日本武道館で開催されたコンサートにおける「私のわがまま許してくれてありがとう・幸せになります」とのメッセージは脳裏に焼き付いている。
 その結婚相手である三浦友和氏は若い頃に国立に住んでいたことがあり、忌野清志郎とは大の親友であった(2018年7月2日「国立」参照)。その縁で三浦夫妻は国立市に居を構えた。芸能界情報に疎い私ですら、学生時代からそのことは知っており、三浦夫妻と同じ街で暮らしていることに不思議な縁を感じていた(なお私人の自宅を見物に行くが如き下衆な感性は私にはない)。
 今回の旅に際し平岡正明氏の著作「山口百恵は菩薩である」に目を通した。彼岸に達している「如来」ではなく此岸にいて衆生を救うために祈りを捧げる「菩薩」。観世音菩薩は衆生を救うため相手に応じて33の姿に変身すると説かれていた。歌に合わせて声も表情も雰囲気も変えた百恵さんに相応しい比喩である。おそらく「しなやかに歌って」(阿木燿子作詞)にある「夜は33の回転扉」というフレーズ(LPの回転数と一致)は偶然ではないのだ。私がイメージする山口百恵さんの本地仏は如意輪観世音菩薩である。世間でよく見受ける「千恵」ではなく、控えめな「百恵」と命名されているところに彼女の本質が表象されているのだと思う。
 山口百恵さんが横須賀の象徴であるのは「父親の不在」を意味するメタファーだから。帝国海軍の中枢がアメリカの治外法権的な租界になったのと軌を一にして日本社会は「正当な強い父親」を無くしてしまったように思える。百恵さんは「蒼い時」の中で「あの人の存在は消えたのではなく自ら私の手で切ったのである・そのことに対して私はいささかも後悔をしてはいない」と明記した。

 坂道を下る。古書店「沙羅書店」があった。物色をしていると吉村昭「桜田門外の変」が格安であったので購入する。意外と地元の本が少ない。店主さんに伺ったところ、駅前のビルで古書店組合主催の古本市をやっていて、多くはそちらに出品しているとのこと。良い情報を仕入れた。喜び勇んで駅前ビルに赴き古本市会場で「新横須賀市史・近現代」を極めて安く購入できた。私は運が良い。
 「メルキュールホテル横須賀」に戻る。風呂に入って休憩したのち夕食を兼ねた散歩をする。ホテル前の通りを右に曲がると「ドブ板通り」。全長300メートルほどの短い通りである。スカジャンの発祥地として有名だ。アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ。名前の由来は第2次大戦前、この通り中央にどぶ川が流れていたところ、通行の邪魔になるため海軍工廠から厚い鉄板を提供して貰い「どぶ川に蓋をした」ことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになったそうだ(どぶ川も鉄板も撤去され現存しない)。ここは占領軍の兵士が土産物を買ったり飲食するだけの地ではなく「ドル買い」という裏経済の拠点だった(「新横須賀市史」984頁)。公定レートとかけ離れた比率でのドル・円交換が行われており、ヤミ商人たちが莫大な利益を得ていたのだという。通りの暗さが、かつてのヤミ経済の影を引きずっているようで私を躊躇させるものがある。この日はコロナ禍・雨・月曜という三重苦で多くの店が閉まっていた。開いていたのはハンバーガー店とうなぎ店。横須賀らしいのは前者だが私はハンバーガーが大の苦手。顎関節症の持病があり、口を大きく開けると戻らなくなることが以前あったからである。短考の末「うな八」にした。正解であった。やっぱり私は日本人なのだろう。メルキュールホテルに戻る。(続)
 
* 佐々木徹「慶長遣欧使節」(吉川弘文館)33頁に次の記述がある。江戸時代初期の浦賀は(活発な海外展開が行われた織豊時代の延長線で)西日本中心に展開していた南蛮貿易の流れを東日本に移す際の「拠点港」として構想されその一部は実現していた。浦賀港の存在意義は想像していたよりも遙かに大きい。(以下引用)家康は、慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死没直後から、フィリピンとメキシコを結ぶ浦賀貿易を構想し、関東の徳川氏領へスペイン船を来航させようとしていたようである。それが慶長11年、ルソン島から浦賀へのスペイン船の偶発的来航によって開始され、その後、1年に1隻スペイン船が同地から来港するようになり、絹・生糸などが輸入されていったという。ところが慶長14年9月幕府が肥前国平戸(長崎県平戸市)にオランダ商館の設置を許可したことで翌年からフィリピン浦賀航路が停止されると、幕府のスペイン外交は主にメキシコに向けて展開されていったといい、慶長15年6月のムニョスの派遣(ピペロ返還)や慶長17年9月のソテロの派遣(ピスカイノ帰国)もまたこの流れで行われているのである(ただし、この間の慶長17年3月にキリスト教布教は禁じられ貿易のみを容認する方針となる)。そして、こうした浦賀貿易の運営を担ったのが、船手頭の向井兵庫助政綱・荘監忠勝父子を扇の要として、スペイン語などに通じて貿易実務に長けていたウリウアム・アダムス、スペイン保護下にあったフランシスコ会士の三者であったというのである。従って、向井忠勝・アダムス・ソテロらが政宗による使節派遣の動きに直接関わるのは、これが浦賀貿易の延長線上にある事業として実現したからであったと見られているのである(以上、小川雄2013)。以上の状況は、政宗の使節派遣が幕府から了解を得た上で行われていることの証左であり、平川新氏も見通しを示すように(平川2015・2018a)家康のみならず、政宗もまた、西日本を中心に展開していた南蛮貿易の拠点を東日本にある自領に設けようとしていたことの表れといえよう。

* 岩波文庫「リンカーン演説集」で連邦解体の危機を目の前にしたときの彼の戦争教書(1861・7・4)2年後の国立墓地における有名な演説(1863・11・19)を読むと、現在は頑強そのものに見えるアメリカという巨大な人口国家も中途においては難しい過程を経てきたことが良く判る。ペリー艦隊が比較的に穏当な外交姿勢を日本に示したのは当時のアメリカが内政不安定であり外交的に問題を起こしたくないという幸運な偶然があったようである。

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