5者のコラム 「学者」Vol.28

構造的知性の法解釈

橋爪大三郎氏は「はじめての構造主義」(講談社現代新書)でこう述べます。

テキストはふつう何かを言いたいためにあると考えられている。言いたいこと(メッセージ)を読み取るのがテキストの読解である。ところがレヴィ=ストロースの神話学はテキストを字義通りには読まない。それはテキストの表層に過ぎなくて、本当の<構造>はその下に隠れているとみる。テキストをずたずたにして、いろいろな代数学的操作を施してもかまわないと考えるのだ。いっぽうキリスト教は言うまでもなくテキスト(聖書)の権威を中心にできあがっている。聖書は神から人間へのメッセージであり、そこから「神の言いたいこと」を読み取るのが人間の義務だった。もちろんテキストに人間の手が入ることは許されない。ところが一度神話分析の方法になじんでしまうと、そういうことはそっちのけで勝手にテキストを組み替え、ついには最高のテキスト(聖書)の権威を否定してしまうことになる。

このコラムにおける書物の引用は恣意的です。「作者は何を言いたいのか?」など私には関心がありません。私の中で「作者」は大きな意味を持っていません。他人の文章に「作者」という絶対者を想定し、真意を見極めるという読書は自分にはありえない行為です。法律は公布された瞬間に立法者の手を離れ独自の命を有する客観的存在となります。立法時と適用時に見受けられる法律と現実のすきまを埋める法律解釈は、法律の根底にある利益考量の構造を顕在化させ、あらたな利益考量をふまえて適用時にふさわしい規範を生み出す創造的作業です。法律をどう解釈するかは適用時点の法律家の手に委ねられます。法律解釈は利益考量の構造を立法趣旨という概念で取り出す作業に重点が置かれますが立法趣旨とは立法時のそれではなく解釈時のものです。法律家にとり立法者は神ではありません。現在の目から見て望ましい立法趣旨を想定し、そこから現在にふさわしい規範を酌み取る作業を行う法律家は、構造主義的知性を先取りしていたのかもしれません。

医者

前の記事

SOAP方式の意義
芸者

次の記事

弁護士も見た目が9割?