歴史散歩 Vol.22

大石堰と五庄屋物語

 筑後川の堰のうち山田堰以外は全て久留米藩のものです。久留米藩にとって筑後川からの取水がいかに重要なものであったかが判ります。堰にまつわる先人の苦労を象徴する物語として語り継がれているのが「五庄屋物語」です。五庄屋物語は筑後川左岸(南側)を潤している大石長野水道をつくるに際し献身的な貢献をした5人の庄屋が「神」として水神社に祀られた訳を教えてくれます。以下「久留米市史第2巻」735頁以下を基礎にしてご紹介します。

寛文3年(1663年)干ばつで生葉郡包末村(現吉井町)以西の農作物は全滅の状態となり導水計画の必要性が叫ばれました。そこで近隣の五庄屋(夏梅村の栗林次兵衛・清宗村の本松平右衛門・高田村の山下助左衛門・今竹村の重富平左衛門・菅村の猪山作之丞)は筑後川本川からの取水を計画して藩に請願しました。しかし、藩は困難な大工事であるし莫大な費用もかかるので、容易に許可しませんでした。導水が通過するだけの他の村からの反対も大きいものでした。藩が土木技術者・丹羽頼母を派遣して調査した結果、同年12月に「藩営事業」として行うことが決定されました。他方で藩は「計画通りに導水できなかったときは5人の庄屋全員を磔の刑にする」と表明。5人の庄屋は「成功せず徒労に帰したならば誅罰を加えて世の見せしめにされたい」と答えました。工事に際しては5人の磔台が立てられます。このことが「庄屋を磔にしてはならない」との農民の水道工事に対する強い団結を生み出したのです。
工事は4期に渡りました。工事初期段階の導水成功により近隣地域から強い配水の請願がなされるようになり追加工事が必要となったからです。工事の仕上げとして延宝2年(1674年)に大石堰が築造されました。筑後川本流をせき止めるという大工事でしたが、見事に成功し寛文4年(1664年)に77町歩だった灌漑面積は、貞亨4年(1687年)に1425町歩に増大しました。
工事の成功により五庄屋は地域の恩人となり「神」として祀られるようになりました。大石堰脇に大石水神社が建立され顕彰の碑が建てられています。

現在の大石堰は水流に直角に作られたコンクリート製の普通の堰ですが、これは昭和28年の筑後川大水害で破壊された古い堰を新規に作り替えたものです。江戸時代の大石堰は山田堰と同様の「斜め堰」でした。旧大石堰は筑後川が右にカーブするところに斜めのラインを形成して水流を左(南)側の水門に導く構造でした。
 大石堰から取水された水は用水路を通って流れてゆき隈ノ上川に流れこむようになっていました。隈ノ上川に堰を設け(長野堰)ここから再び用水路を通して以西の村を流れるように設計されました。そのためこの水道を「大石・長野水道」というのです。この構造では水流が隈ノ上川の状態によって左右されてしまい安定的な流量確保に支障が出ます。そのため、昭和28年の大水害後、長野堰に大規模な改良が加えられ、隈ノ上川の下を水路がとおるという「水流の立体交差」が設けられました(大気圧を利用したサイフォンの原理に基づくもの)。立体する部分の上に設けられているのが長野水神社です。サイフォンを出た水流は筑後川の南側を西に向かい、原鶴温泉の南にある「角間の天秤」なる分水路で3つに分かれます。分水のために各水路の幅や角度が絶妙に調節されています。南に向かう水路は南新川と呼ばれ、吉井の町の中で毛細血管のように枝分かれしています。この水が白壁の町並みで名高い吉井の発展を支えました。
   
 「五庄屋物語」は戦前の修身の教科書にも取り上げられました。5人の庄屋は200年以上経って大日本帝国の「神」とされたのです。現代の目から見れば大石長野水道の価値が多大であることに議論の余地はありません。後世の地域住民は5庄屋の命をかけた決断と農民の献身的な労働の恩恵を被っています。しかし当時の農民に現実に生じたのは益々強化される年貢米の徴収と用水施設の維持管理費の自己負担による<生活の困窮化>でありました(「筑後川農業水利誌」198頁)。これを背景に(増税を直接的契機として)後年この地域に大農民一揆(享保一揆1728年・宝暦一揆1754年)が起こるようになったのです。大石堰築造から304年後の昭和53年(1978年)に提起された筑後大堰訴訟の最終準備書面において、原告住民側はこう主張しました。「この五庄屋物語の『修身』の美談は幕藩体制下の現地の農民にとっては決して『成功物語』ではなく、むしろ逆に生活を圧迫し、生活を困窮させ、ついには一揆まで起こさざるを得なくなる物語だったのである。この『水資源開発』による利益を一手に受けることができたのは有馬藩であった。有馬藩はなるべく経費を使わずに農民の『自発的労働』によって荒畑の美田化による多額の租税収入を上げることに成功したのである。」筑後川の治水を巡る政治は「筑後大堰」問題の他にも、下筌ダム建設に際しての「蜂の巣城闘争」を引き起こしています。筑後川は現在に至るまで「公共工事とは誰のために何のために行われるのか」という根本問題を我々に投げかけています。

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