歴史散歩 Vol.31

石橋迎賓館

市役所の北に広い敷地を持つ洋風建築物があります。風情のある門に「石橋迎賓館」 「ISHIBASHI MANSION」と記されています。久留米の歴史を象徴する建物のひとつです。「石橋迎賓館物語」(毎日新聞筑後版02年4月から03年10月まで)を基礎にしてご紹介します。
  
この建物は昭和8年に石橋徳次郎(日本足袋株式会社社長)の私邸として建てられたものです。敷地は久留米高等女学校の跡地で、ベートーヴェンの交響曲第9番が一般市民に対し我が国で初めて演奏された場所です(15年2月6日「ドイツ兵俘虜収容所2」参照)。この建物を設計したのは松田軍平です。軍平は明治27年に福岡県鞍手郡直方町に生まれました。福岡工業高校を卒業後、大正10年に渡米し、コーネル大学で建築学を学びました。兄・松田昌平も建築家で日本足袋株式会社(現・株式会社アサヒコーポレーション)工場の設計に携わっています。久留米大学本館や久留米大学附属病院本館も昌平の設計によるものです。工場や大学が兄に委ねられたため私邸は弟に託されたもののようです。軍平も三井本館(東京の日本銀行本店近くに現存)の設計に加わる優秀な建築家でした。三井本館の設計はニューヨークのトローブリッジ・アンド・リビングストンという設計事務所によるもので、主席はアメリカ人・軍平は次席でした。
 石橋家と団琢磨(三井合名会社理事長)には個人的な親交があり、その縁により三井本館の設計に携わった軍平が徳次郎宅の設計をまかされた面もあるようです。石橋正二郎の長男幹一郎は団琢磨の孫・朗子と結婚しています。ブリヂストン美術館所蔵のモネ「睡蓮」は正二郎が団琢磨の息子・伊能から購入しました。団琢磨の孫である作曲家・団伊玖麿(朗子の実兄)がしばしば久留米を訪れ合唱組曲「筑後川」(久留米音協合唱団創立5周年記念作品)を作曲したのも、この縁によるものです。松田兄弟にとって、石橋家は良きパトロンであり、上述の作品の他、東京に居を構えた正二郎の自宅(軍平・昭和12年)、旭屋デパート(昌平・昭和12年)ブリヂストンタイヤ東京本社(昭和16年)など多くが委ねられています。軍平の部下として仕事をしたのが平田重雄です。平田は昭和6年にアメリカ留学を終え軍平の事務所に入ります。平田もブリヂストン久留米工場の設計を任される優秀な設計士でした。軍平は平田にこう言ったそうです。「君、このプランにスパニッシュスタイルのエレべーション(立面図)をスケッチしてごらん。」 当時軍平は伊豆下田の三井高修邸の設計依頼も受けており、この三井邸もスパニッシュで設計されています(下田の旧御用邸として現存します)。

設計が開始されたのは昭和6年、ブリヂストンタイヤが設立された年です。施工は清水組が行いました。敷地は1万0266平方メートル(約3110坪)、延べ床面積は963・56平方メートル。鉄筋コンクリート造りの2階建てです(18坪の地下室もあり)。耐震耐火構造を誇り、外壁は木造2重壁。スペイン瓦と白壁の対比が美しく、コリント式円柱のアーケード・放物線アーチの開口などアクセントとなる意匠がバランス良く配されている、と評されています(建築知識編集部「建築グルメマップ2・九州沖縄を歩こう」80頁)。

正面左側の壁には魔よけの意味があるホタテ貝の形の装飾があります。ホタテ貝は12使徒聖ヤコブにまつわるサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼のシンボルで、スパニッシュ意匠の特徴です。温水の自然循環式暖房を持ち、当時は異例の給湯設備まで備えていました。清水建設の竣工報告書によると工事金額は10万199円52銭、工事人員は延べ1万4233人です。庭の設計は戸野琢磨(軍平のコーネル大学先輩)が引き受けました。竣工時は庭南側にプールがありましたが区画整理で敷地が削られたので消滅しています(現在の敷地は2753坪)。
  
 昭和8年の完成後、徳次郎私邸として使われたのは昭和17年まで。以後は日本ゴム(現・株式会社アサヒシューズ)日本タイヤ(現・株式会社ブリヂストン)旭製鋼所(両者の関連会社)の統合本部として使用されました。昭和20年8月11日の久留米空襲でも消失することなく終戦を迎えています。敗戦後、久留米にアメリカ軍が進駐します。この立派な建物はアメリカ軍に接収され、CIC(米軍対敵諜報隊)が置かれました。これは旧日本陸軍の中枢であった久留米に蓄積された機密情報をアメリカ軍が収集する目的があったものと推察されます。以後、昭和32年に接収解除されるまで市役所の直近に位置するこの建物が治外法権的色彩に包まれていました。接収が解除されるとともに、株式会社ブリヂストンに返還され、同社所有建物として現在に至っています。

前の記事

久留米のラーメン

次の記事

歴史コラム(建物とトポス)