歴史散歩 Vol.54

古代の筑後2

筑後平野に突き出す形でそびえるのが高良山。高良山は有力者が覇権を競ってきました。標高312メートルですが筑前・筑後・肥前を見下ろす要衝です。高良山は別名高牟礼山(たかむれやま)と言い、高良玉垂命を祀る神山として信仰の対象ともなってきました(この点については「中世高良山の終焉」を参照)。山の斜面を取り囲むように巨大な列石が1500メートル以上も延々と連なっています。この列石は「神籠石」と呼ばれています。最も高位にあるのは社殿の背後です。
 
 神籠石を最も良く観察できるのは大学稲荷神社付近の自動車道です。約90センチ位に綺麗に切り出されたほぼ同じ大きさの石が延々と連なっているのは壮観です。


 神籠石の本来の意味は「磐座」(いわくら:神の依り代となる岩)を指すものであり、高良山の場合だと、参道を上がって直ぐの所にある馬蹄石がこれにあたるようです。

神籠石の性格について、戦前から霊域説(神聖に保たれた地と解する説)と城郭説(朝鮮式山城と解する説)の論争が展開されましたが、1963(昭和38)年、佐賀県おつぼ山神籠石や山口県岩代山神籠石の発掘調査により版築工法で築かれた土塁と列石前面に並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、古代山城であることが学問的に確定されました(森公章編「史跡で読む日本の歴史3古代国家の形成」吉川弘文館152頁)。我が国の古代山城は以下の5つに分類されます(2011年6月25日福岡地方史研究協議大会、小川秀樹氏の講演資料による)。①史書に記述がある遺跡で築造時期も明確な城:長門城・大野城・基い城(以上665年) 高安城・屋島城・金田城(以上667年)。②史書に記述があり遺跡も特定されているが築城時期が不明確な城:鞠智城(大野城と同時代と解されるが築城時期は明確でない)。③史書には登場するが遺跡が確認されていない城:常城・茨城・三野城・稲積城・長門城。④遺跡は存在するが記録が残されていない城:鹿毛馬城・雷山城・杷木城・高良山城・女山城・帯隈山城・おつぼ山城・御所ヶ谷城・石城山城・唐原山城・阿志岐城・大廻小廻山城・播磨山城・永納山城・讃岐山城。⑤新羅征討計画にともなう新しい城:怡土城(吉備真備・756年)。このうち4の最初の9つが「神籠石式山城」と呼ばれています。小川氏はこの呼び方は適当ではないと主張しています。神籠石は高良山の磐座を指すものであり「他山城に拡大呼称するのは学問的に適切ではない」というのです。確かに神籠石という名前には霊域説の気配が濃厚に感じられます。城郭説で確定した現在において「神籠石」という名前を使い続けることには問題があるのかもしれません(ただし長年使い続けてきた名称を変えることには別の問題が生じます・難しい処です)。

 これらの古代山城は何故に築造されたのでしょうか?蘇我入鹿が滅ぼされた乙己の変(645年)から間がない660(斉明6)年、唐・新羅連合軍の攻撃により百済は攻め滅ぼされました。百済遺臣は百済復興の兵をあげるべく倭国に救援を要請します。ヤマト政権はこれを承諾し、661年に斉明天皇は自ら九州へ出兵しますが「朝倉橘広庭宮」で急死します。天皇死亡後も政権の中心人物である中大兄皇子は百済復興軍を支援することを継続。663(天智2)年、倭の援軍を得た百済復興軍は百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに一時的に成功しました。が、唐・新羅連合軍は反撃の準備を整え、水陸を併進して白村江に集結します。倭軍は三軍編成をとり4度攻撃しますが唐・新羅水軍に大敗しました。陸上でも唐新羅軍は倭・百済軍を破り復興勢力は崩壊しました。敗戦後、天智政権は唐・新羅による侵攻を怖れ国土を要塞化することを考えます。防人(さきもり)や狼煙(のろし)を配備するとともに、唐新羅連合軍の進軍予想ルートである西日本各地(北部九州や瀬戸内海)に防衛網を構築し、中央集権国家の確立に向けて邁進しました(森公章「『白村江』以後」講談社選書メチエ158頁以下)。かようにして構築されたのが古代山城です。後の元寇防塁と比べても、その規模や堅固さが際立っています。ヤマト政権の危機感・恐怖感が如何に大きいものであったかが判ります。

高良山城は前記分類における4の代表的存在です。(下図は久留米市「歴史散歩№20」から引用)
 
 築城時期は判っていません(築造主体も不明)。小川氏は「後代のものほど軍事的機能が進化しているであろう」との根拠に基づき、切石列石を特徴とする神籠石スタイルの山城の築城着手は白村江敗戦以前に遡ると考察しています(「日本書紀に記載がない」)。倭国の前戦司令部は朝倉橘広庭宮に置かれていましたが、後に太宰府がこれに代わります。九州の防衛網は太宰府を拠点に形成され「北の大野城・南の基い城」が特に重要なものとして構築されました。高良山城は主に有明海方面からの侵攻に備えて構築されたと思われます。「神籠石スタイル山城の築城着手が白村江の敗戦以前に遡る」仮説が正しければ、高良山城は「磐井の乱」に表象される南方からの国内混乱に備えるために構築され始め(「磐井の乱」が高良山裾野である御井郡で鎮圧されていることに留意)白村江の敗戦後、基い城の南側防衛ラインの必要性が認識され構築が続行されたのではないかと推測します。

日本書紀に以下の記述があります。持統4(690)年、天皇は上陽咩郡(現・八女市上陽町)の大伴部博麻(おおともべのはかま)に対しこう述べたとされます。

白村江で貴方は唐の捕虜とされた。土師連富杼ら4人が唐で日本襲撃計画を聞き『朝廷に奏上したいが帰れない』と憂えた。貴方は富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため富杼らは日本へ帰り奏上することができた。貴方は1人で30年近くも唐に留まった後やっと日本に帰ることが出来た。私は貴方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。

読者に「日本の危機」を知らしめるとともに「忠誠の対象としての朝廷」をクロ-ズアップさせる意義があったものと推測されます。この物語は「忠君愛国」を表象し、後世に語り継がれました。幕末、尊王攘夷思想が勃興する中、古代の愛国者としての大伴部博麻を顕彰する碑が上陽町の北河内公園に建てられました。久留米城址にも同様の碑が建てられています。

白村江の危機感は「倭国」を「日本」に変換しました。天武天皇は中国を模範とした新しい帝国を形成するため「神」として人々の前に現れたのです(神野志隆光「古事記と日本書紀」、石川品康「日本史の考え方」講談社現代新書)。危機感を梃子に中央集権の物語を構築すること。そのとき天皇が中心的役割を担わされ歴史の書き換えが試みられること。鎌倉幕府末(元寇)と江戸幕府末(対西洋列強)に再現されるパターン。 これが「この国のかたち」(@司馬遼太郎)なのでしょう。
 筑後に住む者にとり高良山は高良大社が鎮座する馴染み深い山です。基山は国道3号線で福岡市に向かうときに見上げる山であり大野城(四王寺山)は西鉄やJRで二日市を通り過ぎるたび仰ぎ見る山です。これらの山城はかつて「国土防衛の最前線」でした。筑後から福岡へ向かう際にはこれらの山城を眺めて古代の人々の思いを感じ取ってみてください。(終)

* 「倭国」と「日本」の関係については複数の考え方があります。伊藤まさこ「大宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房)は次のような踏み込んだ叙述を行っています。「白村江で敗北したのは倭国である。倭国は唐によって『戦後処理』された。多くの学者も交えて、倭国の近くに『日本』という歴史のある国が昔からあったように、速やかに倭国の歴史を日本に組み替えて形成(改竄)することが唐と交際する唯一の方法なのだと意思統一されていたと思われる。」
* 本文の記述は古代史の通説的見解によったものです。近時発刊された中村修也「天智朝と東アジア」(NHKブックス)は大胆な異論を展開しています。「壊滅的な敗戦を喫した以上、恭順の意を示さない限り、滅亡を免れないのが世界史的な法則だ。山城を築かせたのは唐である。戦勝国として倭国を支配する際に(百済に設けたような)都督府が必要となる。都督府を防衛する施設が大野城であり基い城であった。」古代史門外漢なので専門家による議論の進展を待ちたいと思います。
* 朝倉橘広庭宮が何処にあったか?については説が分かれています。かつては須川地区の公園(朝倉橘広宮公園)と考えられており、旧朝倉町時代にその趣旨の碑も建てられています。しかし学問的な裏づけをもって設置されているわけではなさそうです。この付近から遺構が発見された事実もありません。近時の研究では志波地区の郵便局・小学校付近が宮の跡ではないかと考える見解が有力になっています。この付近で高速大分道建設時に大型建物群の遺構が発掘されている上に同地区には宮原・宮下・政所・洛中・殿築・出殿越などの字名が散在しているからです。
* 九州国立博物館新元号特別企画レジュメに次の記述があります。
 大伴氏は大阪湾沿岸を拠点とする豪族で、九州とはもともと縁がない豪族でした。しかし大伴金村が5世紀後半~6世紀前半にヤマト政権中枢で台頭し「筑紫の君・磐井の乱」(527-528)を契機として物部氏とともに九州各地に進出しました。具体的には筑紫君等に従っていた部曲(かまべ・私有民)を大伴氏の部曲に編入する形で「大伴部」(大伴氏の私有民)を設置し、大伴氏の軍事活動(ヤマト政権の軍事活動)等に動員しました。軍事行動の中心は朝鮮半島への派兵であり、九州の人々の大きな負担と犠牲を生みました。その最たる事例は筑後国在住の大伴部博麻で663年の白村江の戦いで唐軍の捕虜となり、690年に至るまで長安に奴隷として抑留されました。九州における大伴部の拡大(大伴氏の軍事動員数の増加)と朝鮮半島への出兵は「征夷将軍の有力候補=大伴氏の氏上(頭領)」という構造を定着させる原動力となりました。つまり大伴旅人の征隼人時節大将軍・太宰帥の就任は、旅人自身の資質とともに、大伴氏・大伴部が積み上げた実績が大きな要因となっています。(平成31年4月23日・九州国立博物館研究員・小嶋篤)

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