八女茶の里
八女地方は高温多湿でよく霧が発生し、肥沃な土と豊富な伏流水に恵まれていることから高級茶の生産に適した地域といわれています。福岡県の茶の栽培面積は約1580ha。うち約90%は八女地域に集中しています。この八女茶にまつわる物語です。本稿は矢部屋許斐本家十四代許斐健一(六代目久吉)様の教示を得ています。記して感謝申し上げます。
八女茶の起源は黒木町の霊巌寺にあります。建久2(1191)年、宋で修行をした栄西禅師は、肥前(現在の佐賀県神埼市脊振町)と筑前(現在の福岡市早良区)の境界にある背振山に宋から持ち帰った茶の種を蒔きました。これが我が国に於ける茶の元祖とされています(異説もあります)。応永30(1423)年、明に於いて修行をした周瑞禅師が上妻郡鹿子尾村(現在の八女市黒木町笠原)に霊巖寺を建立し、明から持ち帰った茶の種を地元の庄屋(松尾太郎五郎久家)に与え、釜炒り茶の製法を伝授しました。これが八女地方に於ける茶の起源とされています。
黒木の名刹・霊厳寺(臨済宗妙心寺派)は久留米藩第七代藩主有馬頼ゆきが定めた筑後三十三箇所観音霊場の第三十三番で、巡礼の地でもあります(「天才とバカ殿」末尾を参照)。毎年5月2日に周瑞禅師への感謝をこめて献茶祭が行われています。
寺裏の岩場には周瑞禅師が座禅をしたと伝わる「座禅岩」があり、その前には巨大な男根型をした「珍宝岩」がそびえています。一度は見る価値のある巨石です。寺近くにある「お茶の里記念館」に茶道具の展示が為されている他、茶の体験コーナーも設けられています。
霊厳寺から始まった八女の茶は集落ごとに違った名で細々と生産されていました。当時茶園や茶畑のような効率的な生産形態は存在しませんでした。農民にも茶が特産品であるという意識はありませんでした。江戸時代、当地で製造した釜炒り茶は贅沢品であり、生産量も僅かだったため主に久留米藩の中だけで細々と流通していました。八女の地において茶の生産が拡大するのは江戸末期に茶が海外への輸出品になってからのことです。特に長崎の貿易商・大浦慶(坂本龍馬との親交で著名)が出島に於いてイギリス人貿易商ウイリアム・オルトと茶の取引を開始したのがその魁けのようです。その後、貿易商トーマス・グラバーが日本茶をアメリカ等に直接輸出するようになり、八女の茶は輸出商品として大いに注目されるようになったのです。
明治時代に入ると、政府の貿易促進政策により当地の茶は盛んに外国に輸出されるようになりました。茶が貴重な<外貨獲得手段>となったのです。
八女地方で緑茶製造が本格的になるのは明治時代後期から。大正時代に入ると緑茶製造技術が向上し八女製茶の原型が出来上がりました。が大正末まで当地の茶は「筑後茶」「笠原茶」「星野茶」等複数の名称で呼ばれており統一ブランド名が存在しませんでした。これが「八女茶」に統一されたのは大正14年。八女郡福島町 (現・八女市本町)で開催された「物産共進会・茶の品評会の部」の席で十代目許斐久吉 (八女郡茶業組合長) が茶業関係者に「八女茶」 の統一名称を提案し、これが可決されたことで、その名が広まるようになりました。
許斐家は北矢部出身の許斐甚四郎が宝永元(1704)年頃、福島町に近隣の山で採れる椎茸や木材を取り扱う問屋を創業したことに始まります。屋号の「矢部屋」とは当時取り扱っていた山菜物がとれる場所(矢部村)から名付けたものです。前述のとおり外国との海外交易が盛んになり茶の需要が爆発的に増えたため、許斐家は八女地区の茶の特長を生かした技術改良に励みます。慶応元(1865)年、その将来性を見越した八代目許斐虎五郎は現在地に茶に特化した専門問屋を開きます。これが「矢部屋許斐本家」となるのです。この「矢部屋許斐本家」を受け継がれておられるのが14代目許斐健一さんです。健一さんは24歳で家業を継ぎ、貴重な店舗の価値を発信しながら八女茶の素晴らしさを世界に知っていただこうと努力を重ねられています。既に母屋・離れ座敷・土蔵など計8棟ある建物の内4棟の修復を終えておられます。私も健一さんに詳細な説明を受けながら店舗内をご案内して頂きました。健一さんは単に建物の現状を保存するだけではなく、昭和初期の写真を分析検討された結果、戦前の店構えを再現しておられます。茶の色形を見極める「拝見場」や天候に左右されず明るさを一定にする「日よけ」がそれです。
この取り組みは「伝統的建造物街並保存地区」に指定された八女福島の街並みに溶けあい伝統的な落ち着きと斬新なデザイン性を両立させる店構えを示しています。
八女茶の特産品が「玉露」。伝統本玉露の約45%は八女特に黒木町・上陽町・星野村の傾斜地で栽培されています。原料となる茶葉は収穫前(最低2週間程度)日光を遮る被覆を施されます。これによって煎茶の旨味の原因とされるテアニンなどのアミノ酸が増加し、逆に渋みの原因とされるカテキン類(いわゆるタンニン)が減少し特徴的な香り(覆い香)が生ずるようになります。八女地域では特に以下の条件を満たす茶葉を「伝統本玉露」と呼んでいます。1茶樹の枝を剪定をせず芽を自然に伸ばす。2稲藁で茶の木と距離を取った棚から被覆する。3しごき摘みで一心二葉を手摘みする。玉露生産には手間がかかります。そのため普通のお茶と比較し高価に取引されています。玉露の最大の生産拠点は星野村です。ここには八女茶の歴史を展示する「茶の文化館」があります。
茶の歴史や生産機械等が展示されている他に、ロビーで「しずく茶」などを頂くことが出来ます。2階には立派な茶室があり、本格的な茶席を楽しむことも出来ます。
私が「磐井の乱と八女古墳群」で触れた「古墳ロード」(九州オルレ・八女コースと重なる)は素晴らしい「お茶ロード」でもあります。古墳ウォーキングを楽しみつつ、見事な茶畑を見学することが出来るのです。特に八女中央大茶園では、うねった大地に広がる茶畑の素晴らしい景観を味わうことが出来ます。八女中央大茶園は1969年から1973年にかけ県営パイロット事業として莫大な費用と時間を掛けて開拓された103ha(内65haが茶畑)の大農園です。辺りが緑の絨毯に覆われる4月から6月頃の八女中央大茶園の景色は素晴らしいの一語です。
筑後の人間にとって「茶畑が広がる風景」は当たり前過ぎて、その価値を認識できないまま素通りし易いものと言えます。その歴史を堪能しつつ「八女茶の里」を訪れてみて下さい。
* 久留米市文化財保護課の小澤先生によると、この八女中央大茶園一帯は6世紀の後半頃に筑紫国造による須恵器の一大生産地だったところなのだそうです。