中世高良山の終焉
筑後平野に突き出す形でそびえる高良山。昔も今も久留米を象徴する山です。古代から高良玉垂の神が鎮座する聖なる山であり、有力者が覇権を競う要地でもありました。今回は高良山の中世から近世への移行を歩くことにします。(参考文献「久留米市史第2巻・第3巻・第7巻」、「久留米・小郡・うきはの歴史」(郷土出版社)、倉冨了一「高良山物語」菊竹金文堂、九州山岳霊場遺跡研究会「高良山と筑後の山岳霊場遺跡・資料集」、高良大社の公式ウェブサイトなど)
* 本稿の作成に当たっては久留米市文化財保護課の小澤太郎様から丁寧な御教示を頂きました。ここに記して深淵なる感謝を申し上げます。
古代より筑後地域において高良山は戦略的にも宗教的にも重要な山でした。高良山の戦略的意義について私は「白村江と古代山城」(2011年9月16日)で概説しています。この山を取り囲む神籠石の性格について戦前から続く論争:霊域説(霊地として神聖に保たれた地と解する説)と城郭説(朝鮮式山城と解する説)の対立があったことを紹介しました。論争は昭和38年に行われた佐賀県おつぼ山神籠石や山口県石城山神籠石の発掘調査によって古代山城であることが確定しましたが、そのことで高良山の宗教的意義が無くなったわけでは全くありません。高良玉垂の神が人々に何時・どのようにして・認識されるようになったのか判りませんが、社伝によれば「仁徳55(367)年頃、高良玉垂命が高良山に御鎮座された」とされています。従前、高良山に居た地主神「高樹の神」は追い出された格好になりました(実社会における権力者の変更が想像されます)。追い出された「高樹の神」を祀る高樹神社(旧称:高牟礼権現)は現在も御手洗橋の先の上方に鎮座しています
日本書紀によれば、継体22(528)年、ヤマト政権は筑紫国造・磐井を反乱者とみなして物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し、高良山の麓・御井郡で破ったとされます(「磐井の乱と八女古墳群」2011年8月15日参照)。その後、筑後国府が現在の合川町に設置されます。いわゆる「大化の改新」による中央集権化の始まりです。詳論は避けますが、筑後国の「国府」は律令体制が衰退していく中で後代まで命脈を保っています。3度の場所の変遷がありました(変遷をする中で国府が徐々に高良山に近づいてくるところが興味深い)。
社伝によれば「壬申の乱」により天武天皇が即位した後(天武2年・673年頃)仏教が高良山に入り、高良神は「仏教に帰依する」と託宣を下しました。室町時代の高良山を描いた「絹本著色高良大社縁起」が高良大社の宝物として存在します(福岡県指定有形文化財)。この縁起図には社頭図と説話図があり、その中の「説話図」において当時の高良山の規範的な意義が語られています(いわゆる「絵解き」です)。この図は仲哀天皇が「熊襲平定」のために筑紫に向かう場面から始まります。その死後、妻である神功皇后は(高良神をはじめとする)多くの神々の助けを得ながら「三韓出兵」を成功させるというコンセプトです。「神功皇后は筑紫において応神天皇を生む・高良神は2代の天皇の後見人役として働いた・そのため高良山に宿所を得る」という物語(縁起)になっています。ちなみに市内の大善寺玉垂宮も同じ縁起のもとに創建されました。そのため大善寺の山号は「御船山」とされます(神功皇后の船が三韓出兵の後この地に着いたという伝承による)。豊後国において応神天皇を祀っているのが宇佐宮です。宇佐の神は仏教と習合し「八幡大菩薩」(神仏習合の原初形態)として全国的崇敬を集めました(特に奈良の手向山・京の石清水・鎌倉の鶴ヶ岡・博多の箱崎などへの勧請が著名)。高良山信仰もこの神話で民衆の心を捉えていました。石清水八幡宮の麓には今も高良神が祀られています。兼好法師の「徒然草・第五十二段」に出てくる有名な挿話です。
高良山に神宮寺「高隆寺」が創建されたのが何時かはっきりしませんが、寺伝によれば弘仁元(810)年に高祖隆慶上人が講堂を改築したとの記録が見られるようです。創建はそれより古いということになります。高隆寺跡は茶屋「望郷亭」の脇から下り坂を歩いて直ぐの弥勒寺跡の下方にあり掲示板が設置されています。
中世前期において仏教の多くは比叡山を拠点とする天台宗を意味していました。天台宗においては「座主」という特殊な地位が設けられます。現代では想像もつかないと思われますが天台座主は現世権力と宗教的権威を併せ持つ存在でした。座主は天台宗諸末寺を総監する権限を持ち、実社会に対して強大な権威を有していました。そのことは強い力を誇った白河法皇が<自分の意のままにならぬ存在>として「山法師」(比叡山)を挙げていたことからも明らかです。比叡山に準じ高良山にも座主制度が導入されます。社伝によれば天暦3(949)年のことです。長い間、高良山座主は筑後地域で強い力を誇示してきました。この歴代座主の墓所には初代隆慶上人から五十八世亮純までの霊が眠っています。旧宮司邸(御井寺跡)の前の参道を自動車道に出て少し下ると右脇に「妙音寺跡」という碑があります。そこから山の中に少し入ると墓所の案内が見えます。
歴代座主の墓の上方一段高いところに初代座主・隆慶上人の墓があります。
中世高良山において中心となったのが「旧宮司邸」と呼ばれている蓮台院御井寺。参道を登って突き当たり周囲が城壁のような石垣に囲まれているところです。現在も巨大な山門が残されており高良山参拝者に親しまれています。石段を登って山門をくぐると広いスペースがあることが判ります。この地は現代の入山者にとっては「紅葉の名所」という程度の認識かと思われますが、中世の長い間、筑後地方の広域に影響力を有した権力者「高良山座主」の居所であったのです。
かようにして高良山は神仏習合の典型的霊地として強い権威を振るってきました。高良山は広大な所領を有し、山中に多くの寺院や坊舎が建立され「26ヶ寺・360坊」とも言われる大勢力となっていました。現在、社務所になっている本殿北側には「本地堂」があり、高良の神の本地仏とされる十一面観音(高良神)釈迦如来(八幡神)阿弥陀如来(住吉神)が祀られていました(これらは現在福聚寺の本地堂に移されています・秘仏)。おそらく参道脇の平坦になっているところは昔ほぼ全てが寺院や坊舎の跡だったと考えて良いでしょう。
南北朝時代は征西将軍懐良親王や菊池武光が毘沙門岳(現つつじ公園)に征西府を置き、戦国時代は大友宗麟が布陣しました。武将らは中世権力たる高良山座主に高い敬意を払い、座主を「実力で排除しよう」などと考える者は出現しませんでした。
以上が中世高良山の全体的構図です。これらをふまえて「毛利秀包による高良山攻撃」の事実と意味について考えます。
戦国末期(天正10年頃)において九州は島津(薩摩)大友(豊後)龍造寺(肥前)3すくみの形勢になっていました(俗に「九州三国史」と表現されます)。天正12年3月、竜造寺隆信が島原の陣で島津に討ち取られると、隆信に従っていた筑後の諸将は動揺しました。これを押さえるため隆信の子・政家は久留米に進出し(西軍)久留米城主麟圭が加勢します。他方、大友側の戸次道雪・高橋紹運が高良山を降り(東軍)高良山座主良寛が加勢します(良寛は麟圭の兄です)。両者は筒川の湿地帯(現在の久留米中央公園から文化センター・久留米市場辺り)で対峙。両者の衝突は「筒川の戦い」と呼ばれています(注:現在の筒川はほとんど暗渠になっています)。
久留米中央公園の南側に全体の説明図が挙げられていますので貼り付けます。この湿地帯は南側の石橋文化センター・久留米市場なども含む広大なものでした。
この説明図の右脇において筒川が地表に現れています。意識して観てください。
筒川は石橋文化ホールと石橋文化センター・久留米市美術館を挟む駐車場(白枠線)の下を流れています(暗渠)。この周辺は筒川の遊水地だったのです。
久留米市場の南側にも筒川が地表から確認できるところがあります。架かっている橋に銘板があります。市場は筒川を跨いで作られていることが判ります。
湯の坂(久留米温泉向い)にある了徳寺(浄土真宗)には「戦いの中で麟圭が門扉を持って敵側の矢を防いだ」との伝承がある「戸剥門(矢受門)」が残されています(*この「戸剥門」は改築されているので、天正時代のものではありません)。
天正15(1587)年4月、大友の支援要請を受け豊臣秀吉は島津を降伏させるため九州に乗り込みます。このときに秀吉は高良山吉見岳に陣を張ります。
この地は筑前・筑後・肥前を一望できる要所で「国見」をするのに絶好です。
この吉見岳における謁見の際、座主良寛に不手際があったため、良寛は秀吉から領地を没収されます。秀吉は良寛の弟・麟圭を高良山座主とします。島津が降伏した後、秀吉は筑前箱崎に帰着するや九州の諸大名の配置を決定します。この結果、久留米城は(小早川隆景の養子となった)毛利秀包に与えられました。これは朝鮮半島への出兵を狙う秀吉が博多を兵站基地とし、その後背地である筑前筑後をその足場と考えていたため、最も信頼を寄せる毛利一族によって統治させるべきだと考えていたからです(天正16年1月5日付秀吉の小早川隆景宛書状には「九州さえ堅固に支配しておれば唐国まで思うとおりに出来る」とあります)。同年7月、21歳の秀包は久留米城に入り統治を始めますが、キリシタンとなっていた秀包は大友宗麟の娘・引地と秀吉の媒介により婚姻しています。不和であった大友と毛利の融和を図る秀吉の意図がありました。
かように新しく久留米に入城してきた新領主・秀包の最初の課題は従前その地域を治めていた「在地権力」を排除することでした。中世において筑後には大勢力が生まれず、大友・龍造寺・島津という三大勢力の狭間で中小の国人国衆が割拠していました(2014年8月11日「蒲池の姫君」参照)。秀包が統治することになった久留米には①鎌倉時代以来の歴史と筑後在国司の家格を誇る草野家清と②高良玉垂宮の権威を背景に権力を振るう座主がいました。秀包が円滑に統治を進めるためには①②を排除することが不可欠でした。①について、草野家清は前述の吉見岳謁見の際に出頭しなかったため秀吉家臣(蜂須賀家政ら)によって殺害されました(中世草野氏の滅亡)。そして②が本稿の課題となる高良山座主の処遇です。もともと久留米城は(良寛弟)鱗圭の居城でした。兄・良寛が大友支配下にあったのに対し弟・鱗圭は龍造寺の庇護下にありました。この時点から久留米城主と高良山座主との間には緊張関係が生じていたのです。座主が麟圭になり久留米城主が秀包になっても「久留米城主vs高良山座主」の構図に変化はありません。両者の中間にある筒川周辺の湿地帯は依然として天然の要害となっていました。しかも座主麟圭は剛勇を誇り、1000名もの兵力を有していたので新城主・秀包も容易に高良山を落とすことが出来なかったのです。
単純な軍事力によっては強大な高良山勢力を屈服させることが出来なかったので、秀包は一計を案じ謀略による麟圭殺害を図ります。謀略は2段階にわたります。まず麟圭の妻の妹(八女の黒木家の次女、黒木家滅亡後に麟圭に引き取られていた)を家臣林次郎兵衛に娶らせて高良山側を油断させます。このため麟圭とその子らは気安く久留米城に入るようになっていたのです。その上で天正19年(1591)5月13日、秀包は麟圭に対して「友好の宴を催す」という名目で麟圭を城に呼びます。そして大量の酒食により酩酊させた麟圭を城東(柳原)において殺害するのです。引き連れていた家臣8名も追われる中で殺害されました。
現在の西鉄久留米駅の直ぐ前にニッセイビルがあります。ビルの裏の路地に久留米市文化財保護課による「八ツ墓」の説明版が設置されています。上記8名を祀ったものとされます。当時この地は、久留米城と高良山の中間地点にある、寂しい場所であったようです。
なお、八ツ墓そのものは供養のために寺町の医王寺に移設されています。
以上が「毛利秀包による高良山攻撃」の経過です。この事件の後、秀包は麟圭の末子「秀虎丸」(当時11歳)を招き高良山座主としました。かつての権力者「高良山座主」が子供になり、政治権力である久留米城主に屈服したのです。秀包はかような状態の高良山に対して1000石の領地寄進を改めて行いました。高良山は以前の「自分の力で支配していた」中世的権力では全くなくなりました。在地領主など中間搾取者を無くし新大名を通じて生産者である農民を直接支配するという「秀吉の政治原則」に忠実に従うものになったのです。秀包は目的を達成するために手段を選びませんでした。「友好の宴を催す」という大義名分で引き寄せ殺害するという手法は「竜造寺による蒲池殺害」「黒田による宇都宮殺害」など珍しくないやり方でした。目的のためには卑劣な手段も取るのが当時のリアリズムだったのです。
毛利秀包による高良山攻撃の意義を考える補助線として「信長による比叡山攻撃」の意味を考えてみましょう。信長が比叡山を焼き討ちした意味について諸説ありますが「宗教に名を借りた中世的権威を否定すること」が本質だったと思われます。武力を背景に強訴などで自分たちの要求を通そうとする比叡山に幻滅した信長は堕落した中世的権威の象徴である寺社勢力を焼き討ちし本来のあるべき姿(今風に言えば政教分離)を実現したかったのではないかと考えられます。政治家は現世権力としてリアリズムにもとづいた政治を行い、宗教者は神仏を護って信者を規範的に救済することが信長の理想でした。信長が比叡山焼き討ち後に天台宗禁教令を出した事実はなく、天台宗末寺の信者に弾圧を加えた事実もありません。信長は宗派の存続や布教は認めていました(この神仏にはキリスト教の「神」も加えられており信長は自分の政治を阻害しない限り宗教に寛容でした)。信長は中世的権威をタテに好き勝手なふるまいを行っていた寺社に弾圧を行いましたが、それは「宗教による政治への介入」をやめさせるものでした。毛利秀包による高良山攻撃も同様に評価出来ます。それは「中世権力(神仏習合)が近世権力(キリスト教に親和性)により否定された出来事」とみることが出来るのです。大航海時代にヨーロッパで勃興したプロテスタント改革(キリスト教を合理化する運動)は中世的カトリック(神の代理人として実社会に不合理な権力をも行使)を否定することを主眼としました。日本の政治家が何処までこのことを意識していたのか判りませんが「堕落した宗教的権威を否定し合理性とリアリズムによって政治を行う」という普遍的な近世権力の範型は中央(京)のみならず地方社会(久留米)にも浸透していたのです。
これ以降、宗教が政治に直接的な影響を与えることは無くなりました。仏教は幕府による民衆支配の道具に堕します。そのために神職(特に平田派)に宗教の在り方に対する不満が高まりました。江戸時代末期の「尊王攘夷」運動は根底に仏教への不満を孕むものとなり「維新」が実現すると「廃仏毀釈」と呼ばれる現象が出現します。維新は宗教戦争の側面を伴っていたのです。明治新政府の神祇官が「神仏分離」を命じると、一部の神職や民衆が過激化し積極的な仏教破壊活動に及びました。「政治による宗教への介入」と表現することも出来ます。弥勒寺跡に残されている石仏には首を切られ後で修復されたものが存在します。
「神仏分離」により高良山から仏教的要素は排除されました。かようにして今の高良山の姿があります。名称は明治4年に高良玉垂神社となりました(「高良大社」となったのは昭和22年のこと)。高良山に存在した多くの仏教施設は破却され宝物は麓の「御井寺」や「福聚寺」などに移されました。この「御井寺」はかつて座主が君臨した蓮台院とは異なり「廃仏毀釈」が過ぎ去った後、明治11年に麓の参道脇(宝蔵寺跡)に再興されたものです。
以上のような歴史をふまえ高良山に登り所縁の場所を観れば昔の痕跡が残っていることが判ると思います。今回の歴史散歩を読んで興味を覚えられた方は、別の目で高良山に登り、あるいは街中の所縁の場所を歩いてみてください。 (終)
* 久留米城と高良山を繋ぐ古道は西鉄久留米駅北を通り、国道三号線を斜めに横切って、覚蓮寺前の坂を下り、市場の南側を通り、湯の坂(了徳寺の前)を上がるルートでした。 下図左側の赤丸が覚連寺・右側の赤丸が了徳寺、中央の青で塗ったラインが筒川です。南北の広大な湿地帯が筒川の遊水地でした。
(*昭和3年久留米市地図・着色は樋口によるもの)
古い時代において「坂」とは必ずしも物理的な傾斜地を指すものではなく、何かと何かとの「境」を意味する場所のことであったとするならば(2018年1月2日「鳥辺野歴史散歩」)筒川を挟んで対峙する2つの坂には強い規範的意味が付与されていたと想像されます。地形を意識して考察すると「久留米城VS高良山」の対立において覚連寺と了徳寺の場所は「寺」というより「出城(出丸)」のような位置づけだったのではないか?だからこそ了徳寺には「戸剥門(矢受門)」という戦闘的な名称の伝承が残されているのではないか?そうだとすると対峙する覚連寺にも強い規範的意味が付与されていたとみるのが自然。覚連寺の直ぐ北に旧西野中村の共同墓地(島山墓地)があります(カトリック久留米教会の墓地も存在する)。 この周辺は江戸のデイープノース・大阪のデイープサウス・京の四条河原と同様の意義を有していたのではないか?了徳寺前にある「久留米温泉」では現在でも旅芸人さんの演芸大会がよく開かれています。本人たちは全く意識していないと思われますが、上記「土地の記憶」が今もなお受け継がれているという見立てもできると私は考えます。
* 伊藤正敏「寺社勢力の中世」ちくま新書は、中世において現世権力(朝廷公家や武家)の他に無縁所を司る寺社勢力が極めて強い力を有していたことをコンパクトにまとめる良書。お勧めです、