5者のコラム 「学者」Vol.57

国旗国歌への敬意

 内田樹教授はブログでこう述べます。

私が日本国に対して抱いている「ほのかな敬意」は親日派の外国人が日本に対して抱いている「ほのかな敬意」に質的にはかなり近いのではないかと思う。(中略)そのような敬意を象徴的に表現することに抵抗を覚えるという方がいるとしても私はそれは仕方のないことだと思う。それは世界観の問題というより経験と経験の評価の差によるものだからだ。今この国の国民であることが、それ以外の国の国民であることより「かなりまし」であるということ・この国に生まれたことが「わりとラッキーだった」ということに気づくためにはそれなりの「場数」というものを踏まないといけない。(中略)国民国家における市民社会は常に「私と意見の違う人」「私の自己実現を阻む人」をメンバーとして含んでいる。その「不快な隣人」の異論を織り込んで集団の合意を形成しその「不快な隣人」の利益を含めて全体の利益をはかることが市民の義務である。国旗国歌に敬意を払うことを拒否する市民をなおフルメンバーの市民として受け容れ、その異論にていねいに耳を傾けることができるような成熟に達した市民社会だけがメンバー全員からの信認を得ることができる。

アメリカ連邦最高裁は「国旗の威信」より「市民の自由」を重視した判決を下しています(バーネット判決)。内田教授は「私はこの判決によって星条旗の威信はむしろ高まっただろうと思う。国旗国歌の良否について国民ひとりひとりの判断の自由を確保できるような国家だけが、その国旗国歌に対する真率な敬意の対象になりうるからである。」と評価しています。同感です。国旗国歌に対する敬意は「強制」により産み出されるものではないからです。私は50歳を超えて社会を俯瞰的に見る立場を経験するようになり、この社会をリードしてきた立派な方々の存在(それが誰であるかは見る人によって全く違いますが)に触れました。そういった先人(故人)の存在を意識することが社会や国家(その象徴たる国旗国歌)に対する敬意を生み出すような気がします。