従業員の男女関係と企業の対応
企業内における従業員の男女関係は極めて扱いが難しいものです。セクシャルハラスメントの法理が裁判所で認められるようになって以降、企業はこの問題に神経を尖らせています。以下は某女性が「企業には男女関係の本質を調査する義務がある」と主張し、その義務の不履行を問うた訴訟において私が被告企業側の代理人として反論したときのものです(大脇弁護士と共同)。
控訴人は本件がセクシャルハラスメントの事案であるところに「本質」があると主張し、かかる事件の「本質」を調査する義務が法人には存在するという。そして、かかる義務の不履行が損害賠償責任を基礎づけるというのである。しかし、従業員間のプライバシーに属する人間関係につき、その「本質」を調査する「義務」など企業には存在しない。むしろ、かかる「権利」が認められてはならない。その理由は以下のとおりである。
戦後の労働法学は企業内における労働者の人格的自由の確立に努力してきた。我が国では企業経営の効率化のため、会社が労働者の人格の内部にまで入り込み(冠婚葬祭・投票行動・退社後の行動把握等)労働基準法の定める最低限の労働条件の確保すら為されていないことが少なくなかったからである(その実態は多くの企業小説に描かれている)。かかる反省の上に立ち、我が国の企業社会でも「職務とプライバシーの峻別」が浸透してきた。この理は裁判所においても当然の法理として鮮明にされている(最判昭和52年12月13日)。しかし、従業員の個人関係に属する事柄でも職場が否応なく対応を迫られることがある。例えば同一職場の男女が結婚する場合、現在でも上司が仲人や祝辞を行うことは日常的に行われている。部下の申し出に対して上司が「職務とプライバシーの峻別」を理由に断ることは事実上かなり難しいと言えよう(例えば若い男女の書記官同士が結婚する場合、当該部の部長判事は出席して祝いを述べるのが通常であろう)。かように職場において男女に個人的な交際が始まった場合、上司側では難しい対応を迫られることになる。若い男女の人間関係は極めて微妙であり、第3者から容易に「本質」を議論できるようなものではないからである。最終的に交際がうまく行かなかった場合に人物評価が遡及的に悪くなることもある(人間は他人の評価を変える際に、当該人物が最初からそのような特徴を有していたかのように遡及的に記憶を再編成することがゲシュタルト心理学において認められている)。結婚が想定される年齢の男女間の交際に関し、法人・企業側は「援助・助長」も「圧迫・干渉」も出来ない。結果が悪く出た場合に、記憶の遡及的再編成の結果として「援助・助長」は裏返しの「圧迫・干渉」に容易に転化するからである。
もちろん、以上の規範は、職場における男女間の交際が外形的客観的に「違法性」を認識されるに至った場合にまで貫徹されるものではない。当職らは、当該男女の関係が職場環境を快適に保つという視点から見て座視できない場合に職場環境調整義務を観念することを否定しない。そして「当該男女の関係が職場環境を快適に保つという視点から見て座視できない場合」とは、当該男女の関係が職場に持ち込まれて一方当事者の他方当事者への嫌がらせや当該男女間の問題に起因した欠勤等、当事者を含む職場の人的物的な環境に現実の悪影響を与える場合を指すものと考える。しかし当該男女の関係が現実に職場環境に悪影響を与えていない場合はかかる「本質調査義務」は観念できないと考える。これを越えて従業員間の人間関係(特に恋愛等のプライバシーに属する人間関係)につき、その「本質」を調査する「権利」が措定されれば、著しい人権侵害を生じる。いわんや「義務」など想定されてはならない。仮にかかる「権利」を措定するとしたら、それは従業員間の人間関係の悪化が職場に現実の悪影響を与えて広義の「企業秩序」を乱すような場合であろう。一般に企業秩序は企業の存立と事業の円滑な運営の維持のために必要不可欠のものであり、企業にはこれを維持する権限がある。したがって、企業秩序を乱す行為があった場合には、その内容・態様・程度等を明らかにして、乱された企業秩序の回復に必要な業務上の指示・命令を発し又は違反者に対し制裁として懲戒処分を行うため、事実関係の調査を行うことが出来ると解されている(冨士重工業事件・最判昭和52年12月13日、国鉄札幌運転区事件・最判昭和54年10月30日)。上記判決当時と現代とは時代背景が異なるので、上述の「企業秩序」に職場環境を人的・物的にとらえた抽象的な意味での従業員の利益も包含される可能性があることは否定しない。そして物的環境(例えばポスターの内容等)については相当広範な調査権が認められるであろう。しかし、人的環境については、かかる人間関係の悪化が職場に現実の悪影響を与えて、現に「企業秩序」を乱している場合と解しないと、上述のとおり著しい人権侵害を生じることになる。かかる「権利」は従業員の職場外で為された職務遂行に関係のない所為であっても、企業秩序に直接の関連を有すると客観的に認められる場合には、広く企業秩序の維持確保のために規制対象とすることが許される場合もあるが(国鉄中国支社事件・最判昭和49年2月28日、関西電力事件・最判昭和58年9月8日)あくまで「企業秩序に直接の関連を有するものと客観的に認められる場合」に限られる。かえって、個人の自由を不当に制約するような干渉については裁判所が企業の懲戒権限を違法と判断することも少なくない(イースタンエアポート事件東京地判昭和55年12月15日、東谷山事件福岡小倉地決平成9年12月25日)。
*地裁に引き続き、高裁も原告の請求を棄却しました。