アパッチ族
昭和20年代の大阪砲兵工廠跡。大阪城東側は陸軍の兵器工場地帯だった(青線内)。戦後、残された大量のくず鉄を盗み、売り捌き、生計を立てている人々が「アパッチ族」と呼ばれた。(下図は久留米シティプラザで観劇した「てなもんや三文オペラ」パンフレットから引用)
以下はFB友である向原弁護士(大阪出身)との議論。
M アパッチの話は母から聞いています。戦後、鉄屑は儲かったそうです。大阪城ホールの辺りが旧大阪砲兵工廠で(ホールが出来たのは昭和50年代後半)よく不発弾が出るイメージが強かったです。昭和20年8月14日の京橋大空襲は砲兵工廠をターゲットにしたものでした。アパッチは砲兵工廠の屑鉄を狙って夜な夜な取りに行ったそうですが(瓦礫といえども公有物ですから)泥棒には違いありません。鉄屑屋をしていた親族は40年前に鬼籍に入っており残った伯母さんも亡くなりましたから鉄屑の入手ルートなどは知る由もありませんが、なんだかんだとあったのだろうと思います。ちなみに「アパッチ」という名前は窃盗団がいた頃に流行った映画から取られたようです。
H 多くの作家が創作材料にしているんですね。私は読んでいませんけど、開高健が1959年(昭和34年)発表した小説「日本三文オペラ」は当時のアパッチ族の生活を描いたものです。小松左京も1964年(昭和39年)に発表した初めてのSF小説「日本アパッチ族」で当時まで残っていた跡地をイメージし社会と隔離した「追放区」として登場させています。実際にアパッチ族の一員であった在日朝鮮人作家の梁石日は1994年出版の自著「夜を賭けて」に当時の自身の経験を書いています。2009年9月に初演された生瀬勝久「ワルシャワの鼻」もアパッチ族を描いたものですね。
M 小松左京は読んでみようと思います。「ナニワ金融道」でもアパッチ族の話はネタになっていました(社長の金畑金三氏がアパッチ族に関わり、そこで知り合った朝鮮人の青年と親しくなり、その青年は「地上の楽園」北朝鮮帰国事業に乗せられて北朝鮮にわたり、その後は不明という話です)。作者がどういう思いでこのアパッチ族を取り上げたのだろうなと思いましたが、身近に聞いた話が物語に再現されると胸が詰まったものです。国とは何なのか?と思わしめるものでした。国が何かしてくれる発想がありえない・バカバカしい、一切信じない根底にはこういう話があるのだと思います。今の”おきれいな”価値観では到底その時代の評価をすることなど能わず、どういう経緯でアパッチに身を窶したのかに思いを馳せないと正当な評価はできないと思います。
H ホント、当時は「生き延びていくこと」がリアルに大変な時代でしたからねえ。たぶん生存の危機にさらされていない今の時代には実感できないことだと思うのです。
M そうだと想像します。祖父・祖母や戦後生まれた母などの話をきくと当時の「生き延びる」ことの大変さを垣間見ることができます。もちろん今も厳しいし、未来も不安が多いですが、普通にしていれば生きていけるのだから恵まれていると思います。