筑後における南北朝時代2
前回は大原合戦の全般的解説をしましたので今回は大原合戦に所縁のある筑後地方の歴史の痕跡を散歩します(広範囲なのでバスハイクです)。久留米から小郡に北上、それから国道3号線を通って奥八女(矢部と黒木)に向かいます。最後に大刀洗に帰ることにします。
*本稿の作成には久留米郷土研究会・樋口一成会長に多大な御援助をいただきました。
筑後川北岸にある「宮の陣」は合戦の際に宮方が陣をおいたところから名付けられた地名。その宮瀬地区に宮の陣神社があり「将軍梅」と名付けられた梅の古木があります。この木は大原合戦に際し懐良親王が手植えしたものという言い伝えがあります。宮の陣神社は後征西将軍良成親王の霊を祀る祠(明治18年建立)をもとにしています。暴風雨で祠が倒壊したために社地を変更し将軍梅のある現在地に社殿が建立され、この際に征西将軍懐良親王を祭神とするようになりました。
宮の陣神社の東隣に遍万寺があります。多くの戦死者が出たことにより無情を感じた菊池武光の弟・武邦が出家し、名を正西と改めて敵味方なく戦死者の冥福を祈るために建てたと言われています。正西は一日一百万遍の念仏を唱えたので当初は一百万遍寺と言われましたが縮めて「遍万寺」と称するようになりました。御本尊は懐良親王の持仏であったと言われる阿弥陀如来です。
宮の陣には「五万騎塚」なる史跡公園もあります。将兵数は根拠に怪しい部分もありますが多くの将兵がこの地に集い命を落としたことは間違いない事実。後世の人々はその霊を弔うため広大な塚をもうけて語り継いできました。高速道路工事で塚は縮小されています。
久留米から小郡に向かいます。激戦地である小郡市福童の大中臣神社に「将軍藤」と言われる藤の木があります。合戦で深手を負った懐良親王が大中臣神社に傷の回復を祈願したところ、その加護で全快したことに感謝して、懐良親王が奉納した藤の木だと言い伝えられています。枝面積は204平方メートルにおよび、昭和45年に県の天然記念物に指定されています。
小郡市HPによれば市役所から西鉄小郡駅前あたりまでの地名「前伏」は大原合戦の際に小弐軍が前衛の兵を配置していたところとされます。この南の地名「高見下」は小弐軍の物見があった場所とされます。下の写真は東町公園(小郡市役所横・東側)に設置されている説明板です。
公園内には「大原合戦の碑」(600周年・650年周年の碑)が設けられています。
小郡市を後にして国道3号線をバスで南下。八女市から東へ左折します。八女市から国道442号線で黒木町に入る際はトンネルや切通しや矢部川沿いの狭い道を通ります。現在でこそ国道が整備されて車で簡単に行けるようになりましたが、奥八女は一昔前まで簡単には足を踏み入れることが出来ない秘境でした。方言も強固に残っており中には室町時代の古語も含まれているそうです。
奥八女は「勤皇」に篤い調一族が本拠とした地域であり、北朝が優勢な世となっても頑固に南朝の元号を使用し続けたところです。それを示す「天授の塔」が黒木町の学びの館(旧隈本邸)に残されています(天授とは1375年から1380年までの南朝の元号です)。この塔は天授2年3月に作成されました。凝灰岩製で高さ15・5センチ、幅15・7センチです。
懐良親王は1375年(天授1・永和1)に征西将軍の地位を甥の良成親王に譲ります。良成親王は「後征西将軍宮」と呼ばれました。懐良親王は1383年(弘和3・永徳3)頃に亡くなりますが、その墓所は確定されていません。八代説(吾心寺)久留米説(千光寺)星野説(大円寺)など様々です。郷土史家によれば星野説が有力のようです。これに対して良成親王の墓所は明確です。矢部村の大仙公園です。御側川を車で上流に遡ること10分程の場所にあります。「御側川」という名称は親王の御側(おそば)という趣旨で名付けられたものです。
御側川の脇から歩いて登る参道があります。南朝を正義(正統)とする皇国史観が高揚した昭和5年に村人の労働奉仕により改修されており、川石が敷き詰められた立派なものです。
聖と俗の結界を表象する立派な橋も設けられています。
参道を上り切ると大杣公園が広がっています。城郭のような気配があります。
石段の上に墓所があります。石碑はありません(いわゆる饅頭塚)。いつも扉が閉じられていますが、この日は奇跡的に開かれていました(理由は末尾に補記)。
五条頼元は、1336年(延元1・建武3)懐良親王が8歳の頃、吉野から九州に向け出発したとき後醍醐天皇の命を受け補佐のために随行した公家です。良成親王が亡くなった時、忠臣であった頼元は亡骸をここに葬り、その子孫がこの地を静かに守り続けてきました。五条家当主は現在も宮内庁陵墓守部を拝命されており、八女に留まりながらその任務を遂行されています。命日である10月8日に墓前に於いて大杣公園祭が行われます。墓と対面するように石碑が設置されています。大正6年に五条氏(現当主の祖父)により揮毫されたものです。
石碑右奥に「三水の井」と名付けられた井戸があります。良成親王が使用した井戸だと伝えられています。「八女教学の祖」江崎済の揮毫になる説明版があります。
矢部から少し戻ります。黒木町大淵に「五条邸」が存在します。五条頼元の子孫である現当主が居住しておられる家屋です。この家屋で秋分の日に「御旗祭り」が開かれています。後醍醐天皇から五条頼元に下賜された御旗と頼元が身に付けたという甲冑が披露されます。この甲冑は公家自ら武器を取って闘う戦闘的な王権至上主義を象徴しています。御旗には「金鳥」(きんう・太陽に住むという想像上の鳥)が描かれ、その上に「八幡大菩薩」の文字が記されています。
神道の八幡神と仏教の菩薩が習合した「八幡大菩薩」は武家(特に源氏)が帰依しましたが幕府調伏のため自ら真言密教の加持祈祷を行った後醍醐天皇も帰依しています。南朝の天皇家のイメージは呪術的かつ戦闘的なものです。戦いの神・応神天皇を神霊とする大分の宇佐宮とこれを本宮とする八幡宮は戦闘的特質を濃厚に持っています。鎮護国家・敵国降伏を祈願するため宇佐宮から勧請されたのが石清水八幡宮(京都)鶴岡八幡宮(鎌倉)などです(島田裕己「なぜ八幡神社が日本で一番多いのか」玄冬社新書)。宇佐宮は派手な朱色の二棟づくり本殿形式で、神宮寺たる弥勒寺もあり典型的な神仏習合の風景がありました(中野幡能「宇佐宮」吉川弘文館、司馬遼太郎「街道をゆく№34」朝日文庫、畑中章宏「廃仏毀釈」ちくま新書など参照)。これに対し伊勢神宮の社殿は原始的で簡素な白木造りです。現在の天皇家のイメージは自然神的な伊勢神宮を本宮とする北朝系の静かなものです。武家との棲み分けを行い、形式的な任命権だけにとどめて現実の政権運営には関わらないことを特徴とします。このような現在の静かな天皇制イメージに比較すると、呪術的かつ戦闘的な南朝系の天皇制は日本国憲法下の現在の市民には馴染みにくいものと感じられることでしょう。
大淵から南側に入ったところに「剣持」という集落があります。直木賞作家:安部龍太郎さんの出身地として著名です。道沿いに看板が設置されています。
剣持の中心部には南北朝時代からの所縁が記された説明板があります。橋本右京貞原が、後征西将軍良成親王の補佐役として遣わされた公家であることが説明されています。日本全体が北朝で固まる中、この地の方々は山奥で「ゲリラ戦」を戦い続けたのですね。2019年8月4日、安部さんの講演が小郡市で行われました。同月10日付「西日本新聞」から導入の小話を紹介。
私の母方の祖父は懐良親王の太刀持ちだった。600年間、山の中で南朝を奉じ生きてきた人たち・いわば反社会勢力の血が私には流れている。『太平記』を読むと爺さんの話を聞いているようだ。
「黒木の大藤」として著名な素戔嗚神社の藤は樹齢600年以上です。この藤の樹は「良成親王の手植えによるもの」だという地元の伝承があります。国の天然記念物です。
黒木から大刀洗に帰ります。前回紹介した「太刀洗伝承地」の南側600メートルほど南にある大刀洗公園(川のほとり)に菊池武光の銅像があります。昭和12年に作製されたものです。皇国史観が最も高揚していた昭和初期、南朝を正統とする軍国主義日本は大原合戦の英雄である菊池武光を視覚化することを必要としました。この像は大戦末期にグラマン戦闘機の機銃掃射を受けました。台座と銅像馬の腹の部分に機銃掃射の跡が残されています(近隣に「軍事目標」として陸軍の大刀洗飛行場があったので攻撃されたものです「大刀洗飛行場1」参照)。
戦前の「戦闘的な天皇制のイメージ」は昭和初期に突然現れたものではありません。それは呪術にたけた後醍醐天皇が後世の日本社会に対して仕掛けた時限爆弾のようなもの。それが500年以上も経て昭和初期の皇国史観において爆発したのだと私は考えています。(終)
* 本文の「自然神的な伊勢神宮」という表現は今のイメージで述べたもの(八幡宮の対比として言及したもの)歴史的な事実を規範的断定的に述べているものではありません。伊勢神宮も昔は神仏習合。仏教色のない伊勢神宮の印象は明治以降に政治的に形成されたものです。興味がある方は鵜飼秀徳「仏教抹殺・何故明治維新は寺院を破壊したのか」(文春新書)150頁以下を参照。
* 八女市「いわいの郷」で前川清一「九州の南北朝期の石造物について」を拝聴。石造物に用いられている元号を分析することで造営者が何時・誰を支持していたのかを理解することができる。第1期(九州征西府草創期・南北両調の元号が並存し始める1331年から懐良親王が菊池城に入る1348年まで)第2期(征西府発展期・大宰府に征西府が開かれる1348年から1361年からまで)第3期(征西府全盛期・征西府が開かれる1361年から懐良親王が良成親王へ将軍職を譲る1374年まで)第4期(征西府衰退期・南北両朝の元号を刻む最後の石造物が見られる1392年まで)。当初は北朝勢力が多かった九州も次第に南朝勢力が奪還し、第3期においては優勢を築いたものの、最後は北朝勢力に圧倒されてしまう経過が見て取れる。
* 2022年3月の日曜、私は「八女市文化遺産回遊マップ南北朝シリーズ③」を手に御側に出向きました。川近くの道から登る「御墓参道」を初めて登りました。墓所に赴いたところ、奇跡的な出遭いがありました。いつも閉じられている墓所の柵が開かれており白装束の男性がお墓を掃除されていました。話しかけるとその方は五条家の現当主だったのです。五条氏は今も静かに墓を守られておられる。私が黒木町の出身であることを告げるとお喜びになり10分ほどお話させていただきました。人が「歴史を背負って生きている」姿を目にして感動しました。