歴史散歩 Vol.52

歴史コラム(日本の自然)

塩見鮮一郎「異形にされた人たち」(河出書房新社)に以下の記述があります。
 

幕末、勤王の志士は天皇を「玉」として担ぎ出した。徳川打倒の思想的根拠を天皇に求めたと言えよう。天皇を担ぎ出したことでイデオロギー主導型の明治維新が成功したのだから、ケチを付けるわけにはいくまい。幕末、文化としての天皇の影響が国学者などのインテリゲンチヤを中心にまだ強く残っていたのを知るだけである。成功に気をよくした明治政府の高官は天皇を玉のまま残した。主権は薩長出身者でしっかりと握っていながら、その執行者が天皇であるかのようなカラクリがそのまま続行された。言い換えれば天皇は政治のパフォーマンスを演じ続けなければならなかった。その役は近代の職業観念に合致するものではなかった。神道の衣装をまとった形而上の存在といったところだ。この天皇を人口の80パーセントを超す農民に説明するために観念化された「自然観」が宣伝された。その<自然>とは公家や女官や神官や僧侶が、和歌や連歌や俳句や物語や日記・随筆に詠いあげた文化なのだが、その文化をアプリオリに存在する自然へと転倒させた。文化観念を自然実態かのように転倒したまま、その自然に天皇をくるみこんで日本全体津々浦々に布教が始まった。学校と新聞がその武器になった。修身(道徳)と同様に国語・音楽・歴史はとくに重要な学科になった。

私たちは教育の中で日本の自然の美しさ・優しさ・繊細さをすり込まれます。それは海外生活をしたことの無い田舎の人に目の前のこの景色が日本が世界に誇るべき自然であると認識させ、人工物に囲まれた都会の人に大切なものとしての自然への郷愁を呼び起こします。これらは国語における詩歌の中で、音楽における唱歌の中で、あるいは地理・歴史の学習の中で巧妙にすり込まれます。これらが日本教(@山本七平)の中核部分として強力に機能しているのです。たしかに日本の自然はときに素晴らしい美しさを見せます。しかし日本の自然は世界一「過酷」とも言えます。火山の噴火・台風による暴風雨・大地震・桁外れの津波・大雨による水害・高い湿度・夏の猛暑・冬の豪雪など、他国から見れば常に脅威にさらされている厳しい自然です。日本に住む我々はこの厳しさを認識しなければなりません。私は明治以来続けられてきた「観念化された自然観の布教」はもう止めるべきだと感じます。文化としての自然ではなくリアルな自然に対峙すること、厳しい自然環境に対する「想像の共同体」(@ベネデイクト・アンダーソン)を構築することが日本の課題なのです。
 震災直後、このように私は感じましたが、数ヶ月過ぎると別の感じ方が生じています。国民の冷静な対応や復興への前向きな姿勢を観ていると、日本人は権力者がすりこもうとした自然環境の「優しさ・繊細さ」など信じていない・過酷な自然をあるがまま受け入れている・日本人のDNAには過酷な自然と共生する太古からの遺伝子が組み込まれている。私はそう感じるようになりました。

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