歴史コラム(旅と鎮魂)
歴史散歩を書くため多くの場所に足を運び時間と労力を費やしてきました。「誰のために」「何のために」このような作業を続けているのか?判らなくなるときがあります。
内田樹先生はブログでこう述べておられます。
能におけるワキの多くは「旅の僧」である。彼は秩序の周縁である土地に日の暮れる頃に疲れきってたどり着く。彼はそこに何らかの「メッセージ」をもたらすためにやってきたわけではない。むしろ何かを「聴く」ためにやってきたのである。彼はその土地について断片的なことしか知らない。だから、その空白を埋める情報を土地の者に尋ねる。そして、その話を聴いているうちに眠りに落ち夢を見る。これが「存在しないもの」との伝統的な交渉の仕方なのである。西行は源平の戦いの後、国内を巡歴して死者たちのために鎮魂歌を歌った。その時代における最大の「祟り神」は崇徳上皇の怨霊であった。西行は崇徳上皇が葬られた白峯陵に詣でて一首を詠み上皇の霊はそれによって鎮まったと伝えられている。安田さんによると芭蕉の「奥の細道」もほとんど趣旨は同じ呪鎮の旅だそうである。芭蕉が鎮魂しようとしたのは源義経一行である。義経と弁慶もまたその供養の仕方を誤ると巨大な「祟り神」として王土に障りをなす可能性のある存在だった。だから「平家物語」から能楽(「鞍馬天狗」「橋弁慶」「船弁慶」「安宅」「正尊」「摂待」などなど)に至る無数の芸能によって慰撫されなくてはならなかったのである。芭蕉の旅はその最後の大きな試みであり、それを芭蕉は「西行のまねび」というかたちで実行した(というのが安田説)。
歴史散歩の中で幾度となく死者に触れてきました。私は意識しないまま死者のための鎮魂を続けてきたような気がします。私は死者の声に引かれて歴史散歩を始めたわけではありませんけど調べていくうちに当地の死者の声を聞いたような気がする時があります。「鎮魂の言葉」を捧げなければならない感覚があるのです。そのとき私も怨霊の声を聞く「旅の僧」になっていたのかもしれません。