三池港周辺1
平成27年2月21日、私は「三川坑見学会」に参加しました。車で早めに家を出て正午前に大牟田に到着しました。三池港周辺を散策し、旧三井港倶楽部で昼食をとり、見学会に参加する充実した1日を過ごすことが出来ました。この日に得た知見を「三池港周辺の散歩」として4回で連載します。本稿作成に当たり大牟田市石炭産業科学館様に展示資料の撮影を許可いただくとともに貴重な御教示を得ることが出来ました。感謝申し上げます。(参考文献 九州産業考古学会筑後調査班編「筑後の近代化遺産」弦書房、大牟田荒尾炭鉱のまちファンクラブ編「三池炭鉱の歴史と技術」大牟田市石炭産業科学館、高木尚雄「地底の声・三池炭鉱写真誌」弦書房)。
三池炭鉱の歴史は江戸時代に遡りますが、近代的意味の三池炭鉱は明治6年に日本政府が炭鉱を買収して官営事業としたときに始まります。政府は外国人技師を雇い、レールの引かれた洋式軌道や蒸気動力による巻き上げ機・排水ポンプ等施設の近代化を図りました。この近代化路線をさらに推し進めたのが団琢磨です。団は安政5年(1858年)8月1日、筑前国福岡荒戸町(現在の福岡市中央区荒戸)で、福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男として生まれました。12歳の時、藩の勘定奉行団尚静の養子となり藩校修猷館で学んでいます。明治4(1871)年、金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学します。 団は明治11年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業して帰国します。共に渡米した金子は文系のハーバードへ進むものの2人の交友は続き、団は1882年に金子の妹芳子と結婚して義弟となりました。帰国後は大阪専門学校(旧制第三高等学校前身)助教授 、次いで東京大学理学部助教授となります。
明治17年、団は工部省鉱山局技師として三池炭鉱に赴任します。三池炭鉱が明治21年に政府から三井に売却されたため団はそのまま三井三池の事務長となります。三井は「団がいたからこそ三池炭鉱の採掘権を落札した」のです。団は明治26年に英国製蒸気ポンプ(デービーポンプ)を導入して排水技術を飛躍的に増大させました。さらに団は石炭を効率的に輸送すべく鉄道と船舶の結合を目指して変革を試みます。有明海は遠浅で干満の差が大きいため大型船が接岸できません。三池港の竣工以前は三池炭鉱で出炭された石炭は長崎県の口之津港まで小型船で運ばれ、大型船に積み替えるという大変な手間を強いられていました。かかる非効率な状況を憂いた団は驚嘆すべきアイデアで三池港の築港計画を立案します。当時の金額で400万円という高額の予算を要しましたが三井本社から了承されます。有明海の干満差は最大5・5メートル。干潮時にそのままの状態になっていれば船は座礁します。大型船が接岸するために干潮時も高い水位を保つ閘門が必要です。海岸を埋め立てて船渠(ドック)を築きます。出入口となる水路に閘門を設置します。満潮時に船を入れ干潮時は閘門を閉じて船渠内の水位を保つ仕組みになっています(「三池炭鉱の歴史と技術」39頁より引用)。
三池港の構築は6年がかりの大工事でした。明治35(1902)年に着工され、明治41(1908)年に竣工します。大牟田市石炭産業科学館ではプロセスを映像化して説明しています。築港工事は海水の侵入を防止するため海面119ヘクタール(福岡ドーム17個分)を潮止めするところから着手。重機が無かったので1000人以上もの人手を使い干潮時に一気に行われました。その中の17ヘクタールを11メートル掘り下げて船渠(ドック)部分とします。中央の水路に観音開きとなる鉄製の閘門を取り付けて水圧で開閉するようにしています。残りの102ヘクタールは埋め立てて港湾施設や貯炭場としドック外側に50ヘクタールの内港(大型船が待機する場所)をもうけています。
そこから西の有明海に向けて約1800メートルの防砂堤を2本築きました。最後に港に直結する鉄道を敷設し石炭船積機を設置しました。工事中の写真が残されていますのでご覧下さい。
完成した閘門部分の水路幅は約20m、通過可能な船の最大幅は18・5mです。
閘門を閉じると干潮時でも船渠は8.5mの水深が保たれ、1万トン級船舶が接岸できます。門扉の材質は木材(グリーンハートという南米産)と鋼材です。
閘門の設計・製作はイギリスのテムズ・シビル・エンジニアリング社が担当しました。閘門は水圧シリンダーで動きます。水路上の北側の島に水圧を作り出すポンプとその機械を収める小屋があります。(「筑後の近代化遺産」144・145頁より引用)
閘門の両側にはスルース ゲートという扉が上下移動するタイプの水門があります。大型船が入港した際の海水を逃がすために設置されました。支柱はレンガ造り。船渠側は水の抵抗を抑えるように三角状の水切りが付いていて先端と上部だけが石造です。右写真は水門の完成後、実際に船が閘門を通っている様子です。
三池港の完成により石炭は坑口から鉄道により港まで運ばれ、大型船に積みこんで遠隔地に出荷する円滑な輸送システムが完成しました。各坑口を結ぶ専用鉄道で運ばれた石炭は船渠隣の貯炭場に一旦貯められ石炭船積機(ダンクロ・ローダー)で船に積み込まれました。団琢磨と黒田恒馬が共同で設計したことに由来します。1時間で約300トンの積載能力をもつ優秀な機械でした。
現在の三池港を上空から映した写真です(大牟田市役所パンフレット)。
明治41年と大正7年の口之津港と三池港の貿易額が明らかになっています。口之津港は約5分の1に落ち込みました(352万3421円が70万3773円に)。これに対して三池港は39倍に膨張(45万2854円が1789万8002円に)しています(有明工業高等専門学校紀要第31号94・96頁参照)。団琢磨の目論みは見事に実現したのです。こうして大変な労力により構築された三池港ですが現在は寂れたままです。全盛期に岸壁に3基が並んでいたダンクロ・ローダーは平成16年に最後の1基が撤去されました。三池炭鉱専用鉄道本線から多数の側線が延びていた貯炭場はレールが撤去され道路と遊休地になっています。三井が莫大な金銭を投入して実現した夢の跡は今や写真と「石炭産業科学館」の模型でしか見ることが出来なくなってしまいました。
三池炭鉱の石炭は上海・香港などにも輸出されていたので三池港開港と同時に税関業務が必要となります。長崎税関三池税関支署は明治41年の三池港開港と同時に開庁し税関業務を担ってきました。現在、同支署は近代的な三池港合同庁舎ビルに入っていますが開港当時の庁舎が文化財として現存しています。明治時代の税関庁舎の現存例は、本件三池支署以外は、旧新潟税関(明治2年)旧長崎税関下り松派出所(明治31年)旧長崎税関口之津支署(明治32年)旧門司税関(明治45年)のみです。この建物は昭和40年まで実際に税関として使われ、その後は三井鉱山関連会社の事務所や倉庫として使われました。その後大牟田市の文化財に指定され、平成24年に復元工事が完了しました。裏に三池炭鉱専用鉄道レール跡が残っています。(「筑後の近代化遺産」146頁より引用)
団琢磨は三池港を造った当時のことをこう述べていました。
石炭山の永久などということはありはせぬ。なくなると、今この人たちが(集まって)市(街)となっているのが、また野になってしまう。これはどうも何か三池の住民の救済の法を考えておかぬと実に始末につかぬということになる。自分は一層この築港について集中した。築港をやれば築港のためにそこにまた産業を興すことが出来る。石炭がなくなっても他所の石炭を持ってきて事業をしてもよろしい。港があればその土地が1つの都会になるから、都会としてメンテーン(存続)するについて、築港をしておけば、何年保つかは知れぬけれども、いくらか百年の基礎になる。(石井正則「団琢磨の生涯」文芸春秋企画出版部100頁)
団は大正3(1914)年に三井理事長に就任します。日本工業倶楽部と日本経済連盟会(経団連の前身)の各初代理事長にも就任し、国家権力と密着した三井の象徴的存在となります。そのため団は急進的右翼から憎悪をあびることになりました。
昭和7(1932)年3月5日午前11時頃、団は三井本館前で血盟団員からピストルで射殺されます(享年73歳)。この白昼テロは後の515事件(昭和7年)・226事件(昭和12年)と連なる軍国主義時代の先駆けとなります。(続)
* 明治6年の官営化後しばらく三井鉱山は囚人を坑内労働に充てていました。明治15年時点で全労働者3103人に対し囚徒坑夫は2144人に達しており実に69%を占めていました。明治16年に三池集治監(現三池工業高校)が設けられて囚人労働はさらに推進されました。明治21年の払下げ後も三井は安価な労働力確保のため政府に囚人使役の継続を要請し認可を得ました。囚人労働が廃止されたのは昭和5年12月のことです。外国人労働者(朝鮮人・中国人・俘虜を含む)の使役もなされました。海岸の近く(現在の新港町)に国内最大の俘虜収容所がありアメリカ人やオーストラリア人など約1700人が収容され三河坑の坑内労働に従事させられました。戦後の軍事裁判において当時の所長は俘虜虐待などの罪で死刑判決を受けています。三井三池の「影」の面と言えます。
* 明治31年台風を契機として明治32年から行われた与論島から口之津への集団移住は明治40年の三池港開設であてをなくしました。そのため明治43年に口之津から三川への再移住が行われます。諏訪川の河口に位置する新港住宅に住んだ与論島出身者は地元民から差別されながら低賃金労働を余儀なくされました。これも三井三池の影の歴史です。
* 団の暗殺は岡村清「血盟団事件」(光人社NF文庫)326頁以下。団は満州事変調査のため来日したリットン卿と会った翌日に暗殺されています。事件当事者の思想や心情に関しては中島岳志「血盟団事件」(文春文庫)が詳細です。昭和初期の雰囲気や事後の回想が述べられています。