歴史散歩 Vol.123

ちょっと寄り道(伏見)

仕事のため京都に行く機会がありました。延泊して伏見を歩き回ってみました。散歩気分を共有いただくために歩いた順番で以下の記述を行います。(参考文献・村山修一「神仏習合の聖地」法蔵館、中村陽「日本の神様・稲荷大神」戎光祥出版、島田裕己「二十二社」幻冬舎新書、十菱駿武他「しらべる戦争遺跡の事典」柏書房、同志社大学京都観学研究会「大学的京都ガイド・こだわりの歩き方」昭和堂、「京都・秀吉の時代」ユニプラン、NHK「ブラタモリ№7」角川書店)

京阪電車に乗り「伏見稲荷」駅で降りる。外国人が選ぶ日本の人気№1観光地とされるのが伏見稲荷大社だ。日本中に末社がある稲荷神社の総本宮。大鳥居をくぐった先にある楼門は天正17年(1589)に豊臣秀吉が寄進したものと伝わる。境内の総面積は27万坪に及ぶ。東山連峰の最南端に位置する稲荷山は標高232メートル。もともと3基の大型円墳が設けられた幽境の地だったらしい(穀物神という意味付けは2次的なものである)。稲荷社が政治と結びつくのは平安京造営にあたり大量の木材が必要とされてからだ。特に東寺の建築に際し東山の伐採が始まったところ天皇の体調が悪化したのが祟りであるとして稲荷明神の神階を上げたことが発端である(正一位)。稲荷祭礼の御旅所(本宮を出た神輿が仮に安置される場所)は今も東寺の東北に設けられている(イオンモール西)。これは弘法大師空海が紀州で稲荷神と出会っていたという信仰による。稲荷神は密教のダキニ天と習合し、醍醐寺の当山派山伏の手で庶民化され、祇園系修験者により陰陽道色の強い信仰になった。呪術性の強い稲荷信仰が「穀物信仰」や「狐神信仰」をまとい庶民への感銘力を増していく過程が面白い。稲荷神は今も仕事・結婚・出産などに御利益があると信じられているが現在の信仰形態は明治初期の神仏分離政策により仏教的要素が完全に排除された結果の姿だ。神仏分離は稲荷の本質である呪術的(密教的)側面を見えなくさせた。稲荷山を覆う赤い鳥居は「千本鳥居」と呼ばれている。千本という名称だが実際にある鳥居は1万本を超える。この千本鳥居、昔からあると誤解している人が多いが、昔の稲荷山には無かった(江戸地代の地図に描かれていない)。稲荷大社には愛染寺という名の神宮寺が存在した(東寺の末寺)。愛染寺の排除に伴い、これを信仰していた人々が新たな信仰対象として設置していったのが千本鳥居なのだ。正式に稲荷山を参拝することを「お山」という。稲荷神に捧げる供物を購入して祭壇に捧げ、和ろうそくに火を灯し、稲荷祝詞・稲荷経文・稲荷心経を唱えながら瞑想状態に自己を誘導してゆく(中村38頁)。本物の稲荷信仰はちょっと怖い。足早に大社を後にし土産物屋店頭でソフトクリームを食べクールダウン。

京阪電車に乗り「藤森」駅で降りる。この辺りはかつて陸軍第十六師団関連施設が広がっていたところだ(藤森駅は昔は「師団前」駅と称されていた)。藤森駅を降り琵琶湖疎水にかかる橋を渡ると聖母女学院がある。第十六師団司令部はここに置かれていた。ルネサンス風煉瓦造りの重厚な作りの建物である(明治41年竣工)。是非とも内部を見学したかったが当日は学校の重要な行事が行われていて、物見遊山の観光客は守衛さんから見学を許可されなかった。残念。
 当時、第十六師団を形成するために国は大規模な道路を建設した。「師団街道」という。JR京都駅東の鴨川を渡る塩小路橋から南下する(当時としては)広い道路である。鴨川と琵琶湖疎水の間を通り抜け、藤森まで続いている。師団街道の西側に設置されていたのが京都兵器支廠(警察学校・龍谷大学)京都練兵場(西浦町)砲兵連隊(藤森中学校・科学センター)など。他方、師団街道の東側には京阪電車と琵琶湖疎水があったため、軍は西側と東側を結ぶために両者を一緒に飛び越す橋を3つも架けた。北から「第一軍道」「第二軍道」「第三軍道」と名付けられている。東部に設けられたのが師団司令部(聖母女学院)と騎兵連隊(深草中)衛戍病院(国立病院)歩兵第九連隊(京都教育大学)である。憲兵隊は現在、伏見税務署になっている。工兵隊は架橋渡河の訓練に急流を必要とするため宇治川沿いに置かれた(江戸時代の奉行所)。京都でも第十六師団のことを知らない人が増えているらしい(久留米も第十八師団のことを知らない人が多いから同じようなものか?)。

京阪電車に乗り「伏見桃山」駅で降りる。大手筋という名の華やかな商店街があり右手に「明治天皇陵」の標識がある。これが旅の最大の目的である伏見城址だ。あいにく雨だったがへこたれず傘をさして歩き始める。町名を記した標識が独特だ。桃山福島太夫町、桃山毛利長門町、羽柴長吉町、桃山町松平筑前、桃山町島津など。いずれも伏見城下町に立ち並んでいた大名屋敷の名前に由来する。豊臣秀吉が天下人として君臨した桃山時代において伏見は日本の首都であった。そのため地方支配を委ねられた豊臣恩顧の大名は伏見に屋敷を設けたのである(この首都のあり方は信長の安土城下町に始まり家康の江戸でも踏襲されている)。街路に現れた秀吉の強固な意思を知る為には次の標語が最も優れている。「直線を観たら」「秀吉と思え」(NHK「ブラタモリ№7」角川書店39頁)。伏見城下町に残る直線道路は自然地形ではなく秀吉による大規模な造成工事の名残なのだ。東に歩くと左手に御香宮神社がある。門や社殿が立派。伏見城の遺構とされる。ここは戊辰戦争の際に官軍(薩摩藩が主力)が陣を置き、奉行所に陣を置いた幕府軍(会津藩が主力)と対峙したところ。鳥羽伏見の戦いの発端となった所だ。江戸幕府は大政奉還により政権を喪失したが実質的覇権は未だ存在していた。軍事政権である江戸幕府は鳥羽伏見の敗戦により実質的にも崩壊したのだ。
 大手筋の坂道はゆるやかにカーブを描いて登ってゆく。秀吉が贅を尽くして築城した伏見城の姿を頭に描きながら歩く。道の脇に巨石が無造作に置かれている。ノミの跡が明瞭に残るかつての伏見城石垣だ。伏見城は後に徳川政権から徹底的に破却されているので残された石垣は意外と少ない。観光客は誰もいない。雨の中をひたすら登ってゆくと宮内庁の建物とフェンスが見えてくる。フェンスの遙か向こう側に饅頭型の巨大な土盛りが見える。これが明治天皇陵。その背後に存在する山こそ伏見城の本丸があった場所である。ここが権力の中心だった時代は「桃山時代」と言われている。江戸時代になって破却された伏見城に無数の桃の木が植栽されたことに起因する。「桃山時代」に桃山は存在しなかったのである。「江戸時代」は江戸で始まったと誤解する人が多いが、家康・秀忠・家光が征夷大将軍として宣下を受けたのは伏見城においてである。御三家の始祖も伏見城で生まれた。象徴的に言えば、この頃まで徳川政権は「伏見幕府」だったのである。家康は関ヶ原合戦の戦後処理を終えた慶長6年3月に拠点を大阪から伏見に移していた。2回の「大坂の陣」で豊臣が滅ぼされるまで日本には伏見城(徳川・将軍型公儀)と大阪城(豊臣・関白型公儀)の二重公儀体制が存続した。家康は関ヶ原合戦を「豊臣体制の護持」という名目で戦った。その立場でしか戦後処理を出来なかった。ゆえに家康は西軍の要であった毛利と島津を潰せなかった(そのツケが260年後に出現したのだ)。家康は関ヶ原2年半後に征夷大将軍を拝命した。関白という当時の最高権力者に就くのは秀頼だという共通了解があったからである。この際に家康は本姓を豊臣から源に改姓している。吾妻鏡を愛読書にしていた家康は「蘇った源頼朝」の印象を獲得したのである。その上で家康は有力大名に松平姓を授与し関白型公儀から将軍型公儀への組み替えを進めた。有力大名に江戸城の手伝普請をさせる代わりに江戸屋敷を与え・五街道を整備し・外国に国書を送った。大戦を想定し比較的短期間のうちに大阪城包囲網を完成させている(伏見城・姫路城・今治城・甘崎城・下津井城・彦根城・丹波笹山城・名古屋城・伊勢亀山城・津城・伊賀上野城)。家康はかかる「気の遠くなるような政治的配慮」を施した後「大阪の陣」をおこして豊臣家を抹殺した。家康にとって伏見城は「豊臣体制に対抗するための拠点」であり、それ以外の意義は存在しなかった。ゆえに大阪夏の陣により豊臣が滅ぼされた後、徳川政権は豊臣時代の記憶を抹消するために伏見城を完全に破却したのだ。
 何故に明治天皇陵は伏見城址に作られたのか?日本政府にとって大日本帝国の神・明治天皇は日本史上最大の権力者・豊臣秀吉をも超越しなければならなかった。京都への遷都を果たした桓武天皇の傍に葬られることも期待された。明治天皇自身も窮屈だった東京ではなく生まれ育った京都に葬られることを希望したのであろう。神のような権威を誇った4人(桓武天皇・豊臣秀吉・徳川家康・明治天皇)をイメージしながら自分がその前に1人で雨の中にたたずんでいることを不思議に思う。

伏見城址を後にして坂を下りる。大手筋の商店街を通り抜け左に折れて通称「龍馬通り」を歩いて行く。運河の辺に寺田屋が復元されている。私は坂本龍馬に興味がないので短時間で見学を終える。月桂冠大倉記念館の脇から十石舟が出航している。この舟に乗るのが今回の旅の目玉の1つ。伏見港公園の三栖閘門資料館まで約10分の船旅。少し前まで物資運送の主力は舟だった。小さい力で大量の物資を運搬できる舟ほど便利なものは無かった。だからこそ昔の人は大変な労力を費やして運河を構築したのだ。舟から眺める伏見の街は美しい。横浜や神戸や柳川もそうだが、水で生きている街は舟で回らないと生きた街の風情をつかめない。三栖閘門資料館ではパナマ運河と同様の閘門の開閉の仕組みを見学することが出来る。豊富な展示資料により伏見が京都と大阪奈良を結ぶ外港として重要な役割を果たしてきたことも理解できる。だからこそ秀吉は伏見を権力の基盤として選択し発展させたのだ。江戸時代に開削された高瀬川と明治時代に開削された琵琶湖疎水。これらは伏見の水運が京都の発展に於いていかに重要であったかを物語る。十石舟が通る濠川は伏見城下町の西の防御のため開削されたものだ(南は宇治川・東は伏見城内郭)。濠川と両運河(高瀬川と琵琶湖疎水)との合流地点を十石舟から確認できるところが素晴らしい。

中書島に向かう。途中に柳町や新地という地名が見られる。かつてこの周辺が色街だった名残である。「新地湯」という銭湯のファザードが見事だ。中書島駅から帰り京阪電車に乗る。伏見桃山駅を通り過ぎる。後ろを振り返ると閉鎖された遊園地の模擬天守が朽ち果てようとしている。前方には仏教と神道が共存していた伏見稲荷の鳥居が見える。「京都への遷都」を実現した桓武天皇と「京都からの遷都」を実現した明治天皇は秀吉が栄華を築いた伏見桃山に於いて寄り添うように眠っている。他方、豊臣を滅ぼすことによって公儀を独占した徳川の幕府は伏見で始まり伏見で終焉を迎えた。京都伏見は日本史の大きな流れが交錯する面白い街なのだ。(終)

前の記事

筑後のうどん

次の記事

ちょっと寄り道(奈良1)