預言者としての自分
本コラムを書き始めて最も困難を感じたのが「易者」でした。私は占いに全く興味がなかったからです。5者の1つとして存在するので仕方なく「占いの関連書籍を読んで雑学的な知識を蓄え弁護士業務を比喩的に語れば良いのだろう」と冷めた感じで執筆を開始しました。初期のコラムを読んでも占いそのものへの関心は感じることが出来ません(関心があったのは「メタ占い」です)。
しかしコラムを書き続ける中で私の中に「占いそのものの興味」が少しずつ沸き出してきました。ネタとして実際に占いをしてもらうことも何度か経験し、その中で私は占いが「面白い」と感じるようになっていました。弁護士業務を重ねる中でも「将来を予言すること」は人間存在の根幹にかかわる重要なものであると認識するようになりました。この認識は占いを斜に構えて観ていた私にとって衝撃的なことでした。古来、人間社会を導いて来たのは科学ではありません。占い(呪術宗教等)でした。このことは趣味の「歴史散歩」を続ける上でも感じることが多々ありました。暗闇の中を歩き続けてきた人間社会は占いを「導きの光」として灯し続けてきたのですね。
弁護士は「占い師」ではありません。弁護士が依拠する解決基準は法規範であって呪術でもなければ宗教でもない。しかし依頼者から観た場合に弁護士が将来を導く占い師に似た存在として感じられることは認めざるを得ない。それは客観的な見地ではなく主観的な(難しい言葉で言えば現象学的な)見地と言って良いかもしれません。依頼者から見える弁護士像を意識してみることはこの仕事を継続する上で大事なことだと私は思っています。依頼者にとって弁護士は未来を託す存在です。その行為規範が「過去」の事実認識にもとづく法だとしても依頼者にとっては「未来」こそが全てです。弁護士は<預言者としての自分>を意識すべきだと現在の私は考えています。