自然法の最小限の内容
ブログ「とある法学徒の社会探訪」の記述。
「国家は様々な価値観に対して寛容であるべきである。」これは現在のほぼ一致した観念だと思われます。しかし、これが具体的な個人による論争の場面になると大きな問題を惹起します。簡単に言えば「お前はもっと他人の意見に寛容になるべきだ」ということが既に「寛容になれない」あるいは「寛容的である必要はない」という価値観に対する「不寛容」になっているのです。寛容であることをギリギリまで突き詰めると他人の思想やそれに基づいた言動を批判することができなくなります。もちろん、それ自体に特段の問題があるわけではないのです。ただ、この「完全なる寛容」ともいうべきものは、ともすれば、社会関係を無秩序なものへとしてしまう危険も内包しています。価値観の多様化が認められた現在といえども実は「最低限の共通了解・共通認識」というものが否定されているわけではありません。その典型例が「他害禁止の原則」です。仮に「完全なる寛容」を前提とすると、「他害の肯定」(言い換えれば、自然的闘争の是認)という価値観に対しても寛容であるべきであり、その価値観に基づいた他者への加害を肯定しなければならなくなります。しかし、このような考え方は現在少なくとも主流ではありません。
日本国憲法は思想信条の自由・価値相対主義・幸福追求権などを基礎的価値観としています。しかしながら「自由」という概念には自己破壊的な契機があります。社会はどこかでこの契機にストップをかけなければなりません。「他者に寛容であれ」という命題にはどこかしら「不寛容な」要素が含まれています。それは社会が必要とする<自然法の最小限の内容>なのでしょう。