不合理な遺言と死者の葬送
本年12月3日、サザンクス筑後にて劇団飛ぶ劇場の「死者そ会ギ」(脚本と演出・泊篤志)を観劇しました。舞台だからこそ現出可能な脚本と演出、それに答える素晴らしい演技に感動しました。基本プロットは「葬式不要と遺言した父親が亡くなり、残された娘が困惑し悩む中、10年以上前に亡くなっていた母親が『自分の好きなように葬送して良い』というメッセージを伝えるため現世に舞い戻ってくる」というものです。以下、制作者藤原さんのブログから引用します。
お葬式というのは亡くなった本人と遺族両方のものです。ただ実務が発生する点と悲しみに区切りをつけるという意味において、遺族の比重が大きいのではないかと未だ生きている私は思っています。そもそもお葬式というフォーマットを作ったのが生きている人間なのですから。フォーマットがフォーマットとして定着するには理由があります。ゼロから構築するのは大変な労力だからです。お葬式というフォーマットに乗っかることで限られた時間の中で故人と向き合うことに集中できるのです。めんどうだ・大変だ、と言いつつもゼロから作り上げる労力に比べればたいしたことありません。お葬式という概念のない世界であれば話はまた別ですが、この登場人物たちは、お葬式というものを知った上で、お葬式ではない方法で弔えと言われているのです。自分の親から同様の遺言をのこされたらと思うとゾッとします。新しいイベントを企画して実施しろと言われているようなものです。
死者には葬送の脚本を書く権利があります。が、実際に演技をするのは舞台上の役者です。思慮の浅い遺言は遺族を苦しめてしまいます。変な遺言をするくらいなら遺言など無いほうが良い。これを私は法律家として断言します。どのように葬送するかは遺族が(故人の書いた脚本をそれなりに尊重しつつも)「舞台上で」自由に決めれば良い。私はそう考えています。