なぜ論理的でなければならないのか?
野矢茂樹教授は「哲学者のいる風景」でこう述べています。
全知全能の神がいたとしよう。彼らのコミュニケーションはどのようなものになるだろうか。(略)神様は「だから」とか「なぜなら」なんて言わない。完璧な調和のもとにいる彼らには対立がないから「しかし」なんて言う必要はないし「ただしね」と神が神に向かって補足説明している光景も変である。人間同士でも「あ・うん」のコミュニケーションが成り立っている仲間内であれば神々と同じことが言える。(略)全てお見通しではなく、完璧な調和のもとにいるわけでもないから、論理が必要なのだ。仲間内の言葉しか話せないと「よそ者」とコミュニケーションがとれない。なにごとかを外部に向けて発信しようとするならば言葉をきちんとつなげて差し出さねばならない。それが出来ないと「よそ者」は話にならない者となり「うざい」と言われることになる。論理的でない人は仲間内の言葉しか話せない。仲間内の言葉しか話せないと「よそ者」を単純に切り捨てて排除することになる。それが危険なことだということは改めて言うまでもないだろう。
法曹は論理的であることを求められます。何故でしょうか?第1に法律実務は全知全能の神との対話ではなく生きた人間同士の対話だからです。完璧な調和など最初から存在しません。第2に法律実務は「あ・うん」のコミュニケーションが成り立つ仲間内の対話ではなく鋭く利害が対立する人間同士で行われるからです。よそ者にも通じる話であることが求められます。論理に従っていれば調和のもとにいなくても相手の論筋が理解できます。論理に従っていれば「よそ者」にも理解できるのです。実務における論理とは良きコミュニケーションのための道具なのです。