5者のコラム 「学者」Vol.125

「朝日嫌い」という現象

橘玲「朝日ぎらい」(朝日新書)を読了。以下の記述は白眉です。

真理や真実がどこにもないのなら歴史とはそれぞれの民族が想像する「物語」で、唯一の正しい歴史を振りかざしそれを否定するのは知的ファシズム以外のなにものでもない。全ての文化が相対的なものであるならば、マイノリティの文化が尊重されるのと同様に、抑圧されたマジョリテイの文化も尊重されるべきだ。権力によって「真実」とされてきた歴史の細部を読み替え再編修してオルタナティブな(もう1つの)歴史を作る歴史修正主義は、ポストモダンの代表的な思想家ジャック・ラカンの「ディコンストラクション(脱構築)」の一形態だろう。

本書に正確な題名をつけるとすれば「いわゆる『朝日ぎらい』という現象を、哲学・社会学的見地から分析した書」ということになろうか。これを(ベストセラー井上章一「京都ぎらい」にあやかり)単純に「朝日ぎらい」と題名をつけ、しかも朝日新聞出版から出しているところに肝がある。本書はもちろん朝日の擁護本ではないが、単純なヘイト本でもない。「朝日ぎらい」という現象を正面から論じるためには「知的座標軸」の設定が必要である。本書は現代の政治潮流の源泉を社会主義の溶解・ポストモダンという哲学の流れ・ロールズに代表される正義論にまで遡って分析しており読み応えがある。現在の潮流の中で批判的合理性を表現するためには相当の「スタイル」を磨かないといけないと痛感させられる。朝日新聞は歴史を誇る日本を代表する新聞だ(夏目漱石が在籍したこともある)。その権威に対し「ねたみ」が生じることも故無きことではない。朝日の「自分こそが正義という論調」に反発が生じることも判る。が、長期的視点で日本の政治を見渡したときに今の朝日叩きに私は同調しない。唯一の正しい歴史観を振りかざし政治を否定する趣味は私にはないが現在の政治を無批判的に肯定するほど私は愚かではないつもりである。

役者

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