歴史散歩 Vol.48

大刀洗飛行場2

私は原地蔵で理容店を営んでいる伊藤月路と言います。今日は私の話を聞いてくださるそうで嬉しく思います。
私は昭和10年に大刀洗飛行場前で生まれました。父は三潴の出身ですが、大正12年に大刀洗に飛行場が出来るということで営門前の原地蔵商店街に理容店を開業したのです。
当時、大刀洗駅から原地蔵交差点を通り飛行場営門に至る道は大変な賑わいでした。父の床屋の左隣には旅館が、右隣には歯医者がありました。通りには桜並木があり春ともなれば満開の桜でそれはそれは美しいものでした。大刀洗駅の乗降客はとても多く、夕方ともなれば行き交う人で道路を横切ることも難しいほどでした。
営門と現在の大刀洗平和記念館の中程に原神社というお宮さんがあります。ここは神社ですが祀られているのはお地蔵さんです。その霊験が高いということで、この地区を原地蔵と呼ぶようになったのです。お宮さんは森の中で大刀洗飛行場(南方)を向いて建っています。お地蔵様は空に飛び立つ若者たちの無事を祈り続けておられたのではないでしょうか。この神社には絵馬が7枚かけられています。絵も文字も薄くなってしまい良く読めないものが多いのですが、一番大きく立派な絵馬には「安政4年黒田二四騎」と記されています。
飛行場は軍事施設なので通常は中を見ることは出来ません。年に1回だけ一般公開が行われていました。その時は飛行機の見学が許され、大講堂では演芸会が催されました。私が7歳の時(昭和17年)、お店のお客さんから「演芸会で踊るようになったので月ちゃんに子役になって欲しい。」と頼まれたことがありました。それで私は子役として出演したのです。演目は「忠治の子守歌」です。私は2等賞を頂きました。今も忘れることが出来ません。♪ねーんねーころりーと 寝顔のぞきゃ 夢でなくかよ目に涙 捨てた故郷が恋しじゃないか 男忠治の子守歌 ♪私の子役が可愛かったそうで、客席の兵隊さんから拍手喝采を受けました。兵隊さん達は厳しい訓練の合間にこのような演芸会でひとときを過ごし、楽しい思い出として心に刻んで戦場に旅立って行かれたのだと思います。小さかったので当時は判らなかったのですが「月ちゃん。明日は片道切符でゆくんだよ」と兵隊さん達から言われたことがありました。皆さんは「ああ特幹の大刀洗」を涙ながらに歌われておられました。その意味が判ったのはだいぶ後のことです。

昭和20年3月27日、私は三輪小学校の終業式でした。天気は晴天です。運動場では校長先生のお話がなされていました。その途中でキラキラ光る大きな飛行機が大編隊を組んで私たちの頭上を越えていきました。警戒警報から直ぐに空襲警報に変わり、私たちは先生の指示で集団下校をすることになりました。そのとたん、爆弾の雨が飛行場一体を襲いました。山隈・野町・原地蔵のみんなは柿の木原の溝に身を伏せました。爆風で自分の体が上に放り出され、そのたびにどーんと下に落とされて生きた心地がありませんでした。南に4キロ離れた我が家の方向を見て、父・母・姉のことが心配で泣き出しました。2級年下の棚町八重ちゃんも泣いていました。引率の北島先生が私と八重ちゃんに「帰って家が無くなっていたら先生の所にきなさい。先生の家は栗田のお寺だから。」と言って下さいました。64年経った今でもその優しい言葉を忘れることが出来ません。B29の大編隊が去った後、私は4キロの道のりを歩いて帰りました。悲しくて悲しくてたまりませんでした。両親と姉は無事でしたが、家はメチャメチャになっていました。兵隊さんも心配して来てくれました。棚町八重ちゃんのご両親はこの爆撃で亡くなりました。何故私たちがこんな目に遭わなければならないのかと戦争を恨みました。
 4月の終わり頃、隣で旅館を経営されていた方から「今、私は夜須の曽根田の公民館で世話になっています、公民館は2階建てだから伊藤さんもこちらにこられませんか」とお誘いがありましたので、私も曽根田のほうへ疎開をさせていただきました。口で言い表せないほどの情けを頂き感謝の気持ちでいっぱいでございました。小学校は三並小学校になりました。「兎追いし・かの山」と歌われた風景そのものでした。私は4年生のクラスに編入となりましたが「こんな田舎の学校でお友達が出来るだろうか」と心配になりました。教室に入り担任の先生が「大刀洗の空襲で疎開されてきた伊藤月路さんです」と言われて直ぐに、どこからともなく「月ちゃん」という声がしてびっくりしました。山隈から親戚を頼って疎開していた藤井開作君でした。あまりの嬉しさに「開作さん」と大声で叫びました。落ち着いて席を見渡すと原地蔵から疎開してきた池田貢恵さんもおられました。私はとても心強く思いました。
 戦後、疎開先から原地蔵に帰り、隣近所の方々と再会を喜びあいました。皆が一生懸命に助け合って生きてきました。家を建てるときも、建築資材がないので、飛行隊の兵舎の焼け残りの柱板・瓦・トタンなどを拾い集めて掘っ立て小屋を作りました。12月になると屋根の隙間から家の中にまで雪が降ってきてとても寒かったことを思い出します。食糧難で、カボチャやサツマイモ・こうりゃんのご飯です。おいしくありませんでしたが、食べれるだけでも良い方でした。

 大刀洗の飛行場は閉鎖され、廻りにあった航空廠や飛行学校も無くなりました。原地蔵の多くのお店がなくなり、商売をしているのは父の跡を継いだ私の理容店くらいになりました。大刀洗駅も無人となり乗降客も少なくなりました。昔、東洋一の大飛行場と言われた面影は無くなりました。飛行場跡に工場団地ができ、中でもキリンビールの工場が際だっております。そんな中、大刀洗で青春を過ごした方が原地蔵を訪れて下さるようになりました。
 山梨県の松木さん(当時20歳)は空襲の当日、盲腸で入院中だったので爆撃を免れたそうです。元気だったら死んでいたかもしれないと思い出しておられました。仙台の長沼さん(当時19歳)は余りの懐かしさに第4連隊兵門に抱きつかれ「あの日の営門だ」と叫ばれ男泣きされました。両名は手紙を下さりますので、私は返事に「あなた様の若き懐かしき日の大刀洗飛行場の空より・ご健康とお幸せを心よりお祈りいたします」と書いております。

昔、大刀洗に大飛行場があったことを覚えている人も少なくなりました。そんな中で淵上宗重さんが独力で記念館を運営され、貴重な品々を大事に保管されてきたことは立派なことでした。私どもは本当に尊敬しております。おかげ様で、淵上さんの収集品が基礎となりまして、平成21年10月に筑前町立大刀洗平和記念館ができました。記念館開設と同時にたくさんの方々がここ大刀洗に足を運んでくださるようになり、私どもの苦労を一生懸命に聞いてくださるようになりました。記念館では親友・竹中圭子さんらが朗読の会(「虹の会」と言います)を開いておられます。竹中さんは空爆によって子供達32名が一瞬にして命を落とした「頓田の森」の悲劇を切々と語りかけておられます。私の話も記念館の資料としてビデオにとってもらい訪問者に見てもらうことが出来るようになっています。自分の人生を多くの人に聞いていただくことは嬉しいことです。私は原地蔵に生まれて良かったと思っています。どうか皆様も「大刀洗平和記念館」に是非足をお運び下さい。(終)

*現在の大刀洗平和祈念館。飛行機の格納庫がモチーフ。

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