面とペルソナ
社会学において「ペルソナ」はこう説明されます(「岩波小辞典社会学」)。
舞台俳優の付ける仮面の意味から転じて、対人関係での”役割”や自我に見られる”演技性”や”虚構性”を示す。パーソナリティの語源でもある。
他方、中村治朗判事は興味深い論考である「面とペルソナ」で次のように述べています(「裁判の客観性をめぐって」有斐閣)453頁)。
考えてみれば、私たちは社会生活を営む上でいろいろの役割を演じるが、その場合それぞれの役割に応じて別の面をつけて演技-行動している、ということもできる。私たちが裁判官として行動する場合にもしかりで、事実、原始社会においては、面がある超越的な権威を象徴し裁判官もその面をつけて裁判したといわれる。近代社会においては、さしずめ法という権威を象徴する無形の面を付けて裁判をしているということになろうか。私たちが裁判の場で、できるだけ自分の持っている個性や主観性を払拭しようと努力するのも、まさに面の象徴する法が行為主体として行動しているとの印象を一般に与えるための懸命の演技といえるかもしれない。(略) 私たちが裁判官としてする演技を出来るだけ完全なものとするための努力の一環として、技術面ばかりでなく、人格の面においても厳しい修練を期待され、また別の面を付けてする行動の場面でも、裁判官なるが故のある種の規律を求められるのは、そのためであろう。
主観性を払拭するための過度の自己規律にも問題があります。法律には裁判官により極端に結論が変わらないよう判断過程を統制する意義がありますが、事実認定にしろ法律解釈にしろ裁判官の個性や主観性はどうしても残ります。これらを隠蔽すべく統制を強めるより個性や主観性の存在を認めた上で豊かなものにしていくように努めるほうが合理的です。他方で近時は「権威を象徴する無形の面」を捨てさった素顔丸出しの弁護士が増えているようです。かかる時代状況では弁護士が「ガラスの仮面」を付ける意義が逆に再認識されるべきなのかもしれません。