5者のコラム 「易者」Vol.56

愛せない場合には通り過ぎる

鈴木淳史「占いの力」(洋泉社新書y)に次の記述があります。

そもそも性格なんてものがあるとするならば、それは極めて相対的なものなのではないのか。(略)性格というとなにやら特定の性質として個人に備わっているように思えてしまう。それは観察する側にとって都合の良い錯覚なのだ。そうすれば観察する側はつねに姿を隠し被観察者のことだけを語るという優越感に浸れる。しかし、そういう環境は具体的に作り出せるものなのだろうか。結局のところ性格は他人との関係性の産物に過ぎないのではないのか。しかし、関係性みたいな相対的でボンヤリしたものより、絶対的に「あいつはこういうヤツ」みたいなキッチリした定義を人間は求めたがるものである。

弁護士の対応によって依頼者の姿は様々に変化するのが普通です。良い依頼者と言うと、もともと最初から備わっている性質のように思えてしまうのですが、それは弁護士側にとって都合の良い錯覚です。かような想定をすれば観察する弁護士側は常に姿を隠し、依頼者のことだけを語る優越感に浸れるからです。ある依頼者が「良い」か否かは弁護士との関係性の産物に過ぎません。関係性を超越したアプリオリに良い依頼者や良い弁護士は存在しません。だからこそ弁護士は依頼者との良い関係を維持する必要があります。良い関係を形成することが無理な相談者は受任すべきではありません。依頼者からみても良い関係を形成することが無理だと感じる弁護士には委任すべきではありません。お互いに「愛せない場合には通り過ぎる」(@ニーチェ)しかないと私は思っています。