演劇の「アウラ」と映画化の可否
演劇とは何か?それはスペクタクル(見せ物)の実践であり観客のために特化された場所を必要とします。それは儀礼の1つであり宗教や政治の1つでもあり得ます。それは贋物です。にもかかわらず真実を表現します。それは幻想です。にもかかわらず技術を必要とします。セリフは言葉です。にもかかわらず身体的動作を必要とします。演劇とは観客のために用意された特権的な場なのです(アラン・ヴィアラ「演劇の歴史」文庫クセジュ9頁以下)。
ドイツの評論家ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」において演劇の有していたアウラ(1回限りの至高性)が映画という複製技術により破壊されてゆく意味を論じています。映画に原本とコピーの区別はありません。世界の人々に対し同じものを同時に鑑賞させることが可能です。制作には金がかかりますが大ヒットすれば大儲けすることも出来ます。これに対し演劇は効率が悪いものです。生の役者が少数の観客の前で1回限りの演技をするしかないからです。演劇は赤字になるのが普通です。経済の観点から言えば効率が低いものです。演劇とは観客が見つめる一瞬のため全ての力を注ぐ贅沢な見せ物です(「黒蜥蜴」公式パンフレット斉藤孝教授解説)。
弁護士が演じる法律劇場は映画化をすることが出来ません。事件は全てが濃厚な個性を持っているからです。個々の事件が有する濃厚な「アウラ」は抹消することが出来ません。かつて事件処理を定型化(映画化)して儲けていた法律事務所がありました。派手なテレビCMを仕掛けて全国から集客していました。過払いバブルで儲けていたその所長は自著で弁護士業務を「猿でもできる」と揶揄していました。かような言葉を吐く弁護士はその程度の知能しか持っていないのでしょうね(涙)。