久留米版徒然草 Vol.310

お経は何のためにあるのか

昔、チコちゃんで「葬儀のお経は何のためにあるのか」というお題が出されて良い解説が為されていた。お経は「生者」のためのものであって「死者」のためのものではない。葬儀とは故人に所縁のある生者が集まって経(仏の教え)を聞き「自分の生き方を見つめなおす」儀式である。
 古代の寺院には墓がない。「葬式仏教」の印象は江戸時代の「檀家制度」で形成されたもの。ただ一般民衆の葬式に向けた思いをバカにしてよいということでは全くない。「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という廻向文くらい「言うは易く行うは難い」言葉はない。廻向文は「死者の霊を成仏させ往生させる証」でなければならない。民衆が僧侶に求めているものは「いま死んで迷っている霊魂が地獄へ行って苦労しないように成仏をさせてほしい・安楽国に往生させて欲しいということ」である。葬儀とはそう願う「生者のためのもの」である。(以下FB友と議論)
1 妻の母が亡くなった時、妻の弟はまだ20歳くらい。お坊様が若い彼にいい聞かせるように「皆さんがしっかり生きてくださることが供養になります」とおっしゃっていたのを思い出しました。
2 ↑本物の僧侶ほど(葬儀の在り方を認識し)そういう面を強調されるのだと思います。
3 親族法のO先生から同じ話を聞いたものです。亡くなった人が「亡くなったという事実」を遺された人で確認し「どんな人だったかを偲ぶ儀式である」とお話して下さいました。それは『文化的遺伝子』とも言うべき形で遺族に継承される…のだと個人的には思っています。
4 江戸時代の「檀家制度」を引きずってますね。宗教的な理由ではなく「幕府統治の都合」だったことを、もう少し多くの人で考えたいと思います。少なくとも自分の家では。
5 ↑学校教育では歴史の表面的な部分しか教えませんからね。現在も政治と宗教の関係が大問題になっています。宗教に対する過度の無関心が引き起こしている面もあるんじゃないかと思います。
6 比叡山や本願寺にさんざん苦しめられた信長・秀吉・家康までの為政者が日本の仏教をすっかり骨抜きにして「葬式坊主」に専従させた寺院政策が未だに生きていますね(笑)
7 ↑同意です。信長秀吉が中世的な宗教権力にどれほど苦労したか・家康が既存宗教を幕藩体制に組み込むためにどれほど細心の注意を払ったかを脚本家にはもう少し描いてほしいもの。
8 アンドロイドによる葬儀なんて要らない。>人間社会は人工知能(AI)の時代を迎えている。AIは膨大な情報を処理し人間の思考を補助し時に代替する。既に法話や悩み相談のクオリテイは多くの現場の僧侶よりもAIの方が優れている。早晩、AIを搭載したアンドロイドが経を読み葬儀を執行する時代が来るであろう(鵜飼秀徳「欲望の仏教史」SB新書277頁)。
9 ナンマイダとかナンミョウホウレンゲキョウとか、多くの日本人がその意味を知らず。本来の仏教には無い(本来のサンスクリット語の仏教を突き詰めれば…そもそもブッダ自身は何も残していない)中国を経由して儒教の解釈が加わった中国ナイズされた仏教を輸入して、さらに日本的な解釈を加えたのが「日本仏教」だと思っています。司馬遼太郎さんは親鸞の評価は高いですけれど…小生も法然親鸞の宗教家としての力は認めますが本来の仏教教義から見るといかがなものでしょう。
10 ↑同感。日本人がサンスクリット語原典から直接に翻訳された仏典を読めるようになったのは中村元先生以降ですものね(最近では植木雅俊先生)。飛躍しますけど親鸞や日蓮への熱狂的信仰はキリスト教に近いように私は思っています(だからこそ強大な政治的パワーを持ち得たのです)。
11 ↑まさしく同意。宗教家として、法然以降の彼らは、ある意味立派ですねえ。

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