久留米版徒然草 Vol.144

終わった人(演劇)

中井貴一・キムラ緑子の朗読劇「終わった人」を観劇。一晩おいて感想を。朗読劇を拝見するのは3回目。1回目は10年以上前だ。題名も役者も覚えていない。正直に言って「つまらなかった」。2回目は昨年の「すぐ死ぬんだから」。泉ピン子さんと村田雄浩さんの掛け合いが素晴らしく、引き込まれた。原作を読んで内容を頭に入れていたから役者の声の演技に集中しやすかった。「面白かった」。3回目の昨夜も予習して臨んだ。「感動した」。予習をしていない人にも内容は伝わったと思う。朗読劇は普通の演劇とは違う。役者さんは台本を手に持って読むのだから大振りなアクションはない。大道具は中央にあるボックスだけで、これをテーブルや車や演説台に見立てる。照明や暗幕や効果音で場面変化が感じられる。何よりも凄いのは中井さんとキムラさんの声と小ぶりな演技で演じ分けられている数名の登場人物の感情や性格が客に伝わることだ。観劇後に感じたのは「この朗読という形式こそ高齢者が良く生きる見本ではないか?」ということである。歳を取ると若い頃のように2時間のセリフを頭に入れて動き回るのは無理だ。加えて芝居を成り立たせるためのコストはかけられない(この舞台を多人数で立派な大道具でやるならチケットは数万円になるだろう)。でも朗読劇なら?小コストでも可能だ。でも条件が要る。それは役者の経験と観客の努力。朗読劇は台本を持ちながらセリフを言う。下手な役者がやったら絶対に無理だ。2時間も客を引き付けられない。昨日も2人の熟練の技があるからこそ演劇が成り立つのである。熟練を支えているのは2人の「役者人生(時間)」だが、それだけではダメで観客にも努力が要る。観客の「内容を理解する意思」と「役者へのリスペクト」が朗読劇を支えるのである。こういった朗読劇の在り方は高齢者がコストをかけず余生を楽しむためのヒントになると思う。(2023・9・10久留米シティプラザ)

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