日吉町を歩く
久留米市の日吉町という名称は「日吉神社」が存在することに由来します。日吉神社は近江坂本に本宮(日吉大社・山王宮)があります。知承年間の頃に現在の篠山神社がある小山に勧請されました。この社を、毛利秀包が久留米城を修築する際に現在の二の丸となる地に移転させました。江戸時代に入り、正保4(1647)年、二代藩主有馬忠頼が城郭を拡張するために現地(十軒屋敷)に移しています。当時は東久留米山王宮と呼ばれていましたが明治2年の神仏分離に際し「日吉神社」と改称され現在に至ります。日吉神社は東久留米の氏神として高い格式を誇ります。境内には夫婦の銀杏の巨木があります。子宝を願うための末社産霊社も存在します。日吉神社の名物として宝恵駕籠があります。多くの大人たちが子どもたちを駕籠に乗せて町を練り歩く行事です。
日吉神社北はマンション等が建っていますが、ここは江戸時代に祇園寺の「御旅所」と呼ばれていました。祇園寺は城内(現在の法務局裏)に唯一存在した寺です(それ以外の寺社は城外に強制移転させられました)。京の祇園寺(現在の八坂神社)から勧請されました。祇園寺から出発した御輿が御旅所まで神幸する祇園会は江戸時代の久留米で一番賑わった祭でした。御旅所の北にあるのが「順光寺」です。山号は福永山。浄土真宗です。もとは田中吉政の時代に柳川に創られましたが、正保3(1646)年に藩主から十軒屋敷の現在地に寺地を賜り創建されています。本堂は大正7年に改築された堂々たるものです。山門の扉には有馬藩の三ッ巴の家紋が付されています。
順光寺寺内の墓地に明治時代の代表的洋画家である青木繁の墓があります(入って左側奥です)。現在でこそ「海の幸」「わだつみのいろこの宮」等で天才としての評価が確立している青木繁ですが生前は極めて不遇な人生でした。僅か28歳で亡くなっています。なお青木繁旧居は荘島町のムーンスター(月星)近くに現存します。関心がある方は是非とも訪れてみて下さい。
以上3つは久留米城下にあって城を東側からの攻撃から守る防衛ラインを形成していました。現在17寺が連なっている「寺町」と同様の戦略的意義がある場所であったと言えます。日吉神社が(一般的に南向きや東向きが多い神社の中では珍しく)西向きになっているのは上記防衛ラインの一端として西の市中を守護する意味合いを持たされていたからだと思われます。
左折して横断歩道を渡ります。楠病院(大正15年設立)前に「國武合名会社」という商標が掲げられたレトロな倉庫があります。久留米絣の販売で財をなした国武喜次郎が運営した会社です。
少し先に旧本社家屋があります。本社・倉庫とも建築は大正時代。倉庫はドイツ式のレンガ積です。現在、倉庫は前述の楠病院の倉庫として・店舗はカフェとして活用されています。
左折します。右の角地に大正時代からの老舗「松尾ハム」がありました。この店はドイツ兵俘虜収容所の記憶を残す貴重な存在だったのですが数年前に廃業されています。左手にある日吉小学校は明治16年に開設された長い歴史を誇る小学校です。明治22年の久留米市政施行以後は「久留米市立日吉小学校」として存在感を有しています。その日吉小学校前に赤煉瓦の塀に囲まれた広い駐車場があります。ここに昭和20年の敗戦まで赤煉瓦のカトリック久留米教会が在りました。
久留米のカトリック宣教は毛利秀包が領主だった時代(1587~1600)に遡ります。秀包は黒田如水の仲介により大友宗麟の7女・マセンチア引地を妻とし洗礼を受けました。秀包は宣教師を保護し信者のため教会堂を建立しました。領主秀包の庇護により久留米地方のキリシタンは約7000人に達していたようです。が関ヶ原の戦いで西軍についた毛利は城を追われ、徳川幕府の全禁制によりキリシタンは潜伏時代を迎えます。長崎における「信徒発見」から13年後の1878年、ミシェル・ソーレ神父が久留米に赴任し宣教を再開しました。ソーレ神父没後の大正10年12月、この赤煉瓦の教会堂が建立されます。が、昭和20年8月11日、米軍の空襲によって焼失しました。
次の角を右折します。3分ほど歩くと「ルーテル教会」があります。明治34年、ウィンテル牧師と米村常吉が佐賀より久留米に来任しプロテスタントの伝道を開始しました。大正7年11月9日にこの建物が献堂されました。設計は建築家として名高いウィリアム・メレル・ヴォーリスです。久留米空襲でも焼失しませんでした。平成31年3月18日、文化財審議会により築100年になる教会建物とレンガ塀が国の登録有形文化財に指定されました。
ルーテル教会では、平成23年10月に「久留米まち旅博覧会」でパイプオルガンによるバッハの演奏会が開かれて以降、しばしば同様の演奏会が開かれています。
道を戻って郵便局横から明治通りに出ます。目前に巨大な公共施設「久留米シティプラザ」が現れます。その西側部分はもと久留米井筒屋という百貨店でした。
久留米井筒屋は昭和12年に創られた旭屋デパートの後身。西鉄久留米駅横の米城ビルに開設された岩田屋とともに商都久留米の顔でしたが平成21年に閉店しました。東側部分は旧六角堂広場でありイベント等で親しまれていました。両者を再開発し誕生したのがシティプラザです。
シティプラザを右に見ながら西鉄方面に戻るとクリーム色の尖塔の建物が見えます。「カトリック久留米教会」です。明治通りに面している教会は街中で存在感を有しています。敷地内(入って左奥)には赤煉瓦時代の「天主堂」の扁額が現在も残されています。
昔、この場所に「斯道院」という診療所がありました。敗戦後「聖マリア病院」と名称を改め津福本町に移転しています。他方、教会は螢川の憲兵隊跡地に一時的に移ります。 昭和23年に赴任した棚町神父は新教会堂建築の資金集めに奔走し、昭和30年5月に現在の聖堂が献堂されました。
このように日吉町内には神社・お寺・カトリック教会・プロテスタント教会という主たる宗教の重要な施設が全て揃っています。各々が固有の教義を持ち長い歴史を有しています。世界史的には宗教間の紛争が絶えませんけれども、ここ日吉町では仲良く共存しているように見えますね。(終)