宮入博士と筑後川
ブリヂストン創業者・石橋正二郎氏の久留米市に対する貢献は膨大なものですが、目立たないものとして昭和32年(1957年)久留米市内の小中学校(21校)にプールを寄贈したことがあげられます。何故に石橋正二郎氏は高額の費用を負担してプールを寄贈したのか?このことを理解するためにはかって筑後川が「泳いではいけない川」であったことを想起する必要があります。
筑後川中流域は古くから風土病「ジストマ」(Schistosoma)が存在していました。病原体は「日本住血吸虫」と呼ばれます。東アジアに広く見られた寄生虫です(マラリア・フィラリアとともに世界3大寄生虫病と言われています)。病原体・感染経路・中間宿主・病理等を全て日本人が解明したので「日本」という名称がついているのです。この病気は甲府盆地と久留米市の筑後川右岸(宮の陣・小森野・長門石)小郡市・鳥栖市などに広範に発生していました(甲府盆地における発生状況について・ウィキペデイアを参照されたし)。この病気にかかると門脈系・肝臓系に機能障害が起こります。更に門脈の血流うっ血により腹水がたまり腹部が著しく膨張していました。桂田富士郎・岡山医専教授は明治37年に病原体を突き止めましたが、生存サイクルが判らなかったため根本的対策が出来ず、対症療法に終始するのが実情でした。日本住血吸虫の生存サイクルを解明したのは宮入慶之助・九州医科大学(現・九州大学医学部)教授です。宮入教授は「日本住血吸虫が卵からふ化して成長するためには中間宿主が絶対に必要である」と考え、大正2年に佐賀県基里村酒井(現鳥栖市酒井)で小巻貝を発見し、この小巻貝が日本住血吸虫の中間宿主であることを科学的に証明します。これはノーベル賞級の発見と評されています。基里には宮入博士の学勲碑が建てられました。中間宿主であるこの小巻貝から泳ぎだした日本住血吸虫セルカリアは、終宿主となる人間や哺乳類が水中に入ると皮膚を貫いて体内に侵入します。セルカリアはタンパク質を溶かす酵素を使って宿主の皮膚を溶かして侵入し、尾を切り捨て血流に乗り、体内を移動するそうです。米粒ほどの大きさの小巻貝は発見者の名を取り「宮入貝」と命名されて撲滅の目標となっていきます 。宮入博士の功績は、九州大学医学部の寄生虫病学教室前の通りが「宮入通り」と命名されていることからも伺うことが出来ます。
戦前(昭和10年頃)から久留米における宮入貝対策の必要性は認識されていましたが、戦時体制の中で住民の健康対策は後手後手に回っていました。戦後、昭和23年に久留米市が宮入貝の生息地調査を行ったところ、約400ヘクタールに広く分布していることが確認されました。この風土病の存在に関心を示した占領軍はアメリカ第8軍総合医学研究所寄生虫部長ハンター大佐を久留米に差し向け日本住血吸虫病の研究にあたらせました。これはアメリカ軍が、太平洋戦争時のレイテ進行に際し、日本住血吸虫病に悩まされたことが契機になっているそうです。ハンター博士は昭和23年5月に来久し最大の流行地である長門石を研究対象として選びました。博士は宮入貝撲滅のための新剤サントプライトの散布に尽力します。この結果、長門石の宮入貝の約98パーセントは死滅したと言われています。 長門石地区の宮入貝撲滅に功績のあったハンター博士の業績を称え、長門石小学校の正門前には同氏の銅像が置かれています。
昭和25年以降、サントプライトの薬効が証明され、同剤と同じ成分を持つPCP-Naが散布されるようになりました。がPCP-Naは毒性が強く魚類への悪影響が懸念されたため昭和45年使用が禁止され、昭和46年以降は別の殺貝剤が使用されるようになりました。並行的に小森野地区で灌漑・用水用の溝渠延べ1万6785メートルのコンクリート化工事が実施され宮入貝が急減しました。これを受けて長門石地区や宮の陣地区でも溝渠のコンクリート化が実施され同様の成果を挙げました。後に日本住血吸虫病予防施設整備は国の補助事業となり、昭和57年度までに久留米市内だけで総延長161キロメートルに及ぶ溝渠コンクリート化工事が為されることになりました。
水資源開発公団は、筑後川から福岡都市圏への導水を可能にするための筑後大堰建設を目的として、昭和41年7月から宮入貝の調査にかかりました。昭和42年から河川敷の整地や寄せ州除去に努め昭和53年には残存生息地を全部埋め立て、宮入貝が生息しやすい水たまりを作らないように徹底した平坦化が実施されました(現在、筑後川北岸は広範囲にわたってゴルフ場や公園になっていますが、これらは洪水対策としての引堤事業と上記整備事業の副産物です)。ところが昭和56年・57年と相次いで宮入貝が発見されたため、建設省(当時)は生息地の盛土を実施します。が、昭和58年5月、宮の陣荒瀬地区で更に2個の宮入貝が発見されたため、更なる盛り土が実施されました。以後宮入貝は新たに確認されていません。余談ながら、この周辺は筑後川本流だったところです。かつて筑後川は小森野の北を大きく迂回していました。現在の筑後川は筑後大橋の下を流れています。「小森野放水路」と言われていたもので、ここを掘り込んで直流化したもの。ショートカットにより水流が早くなりすぎないように筑後大橋下部には段差が設けられています。
最終確認地には「宮入貝供養碑」が建立され、碑文に「人間社会を守るため人為的に絶滅に至らされた宮入貝をここに供養する」と刻まれています。行政側が待ち望んだ宮入貝絶滅宣言が為されたのです。埋め立てられた場所は「リバーサイドパーク」という市民の憩いの場所となっています。
筑後川は日本住血吸虫病の存在が市民から忘れられるほど綺麗な川となりました。現在では筑後大堰で蓄えられた水が福岡都市圏に大量に導水されるようになっています。逆に言えば、国が宮入貝対策をここまで熱心に行ったのは筑後川から福岡都市圏への大量導水を可能にするためだったとも言えます(現在、福岡都市圏の上水道に使う水の約3分の1は筑後川導水によるものです)。
筑後地域からジストマの恐怖は消滅しましたが世界的に感染地域は未だ広範に残っており現在でも多くの死亡者が存在します。宮入博士の研究成果は医科学的に承認されていますが現実に予防策を実施するためには殺貝剤の散布と河川改修が必要で莫大な財政支出を伴います。日本は世界で唯一、住血吸虫病を撲滅した国ですが、全ての国で多額の財政支出が可能である訳ではないのです。