歴史散歩 Vol.179

大石堰と五庄屋物語

筑後川の堰のうち山田堰以外は全て久留米藩のもの。久留米藩にとって筑後川からの取水がいかに重要なものであったかが判ります。堰にまつわる先人の苦労を象徴する物語として語り継がれているのが「五庄屋物語」です。五庄屋物語は筑後川左岸(南側)を潤している大石長野水道をつくるに際し献身的な貢献をした5人の庄屋が「神」として水神社に祀られた訳を教えてくれます。
 以下「久留米市史第2巻」735頁以下などを基礎にしてご紹介します。*本稿は改訂版です。

寛文3年(1663年)干ばつで生葉郡包末村(現吉井町)以西の農作物は全滅の状態となり導水の必要性が叫ばれました。そこで近隣の五庄屋(夏梅村の栗林次兵衛・清宗村の本松平右衛門・高田村の山下助左衛門・今竹村の重富平左衛門・菅村の猪山作之丞)は筑後川本流からの取水を計画し藩に請願しました。藩は莫大な費用がかかるので容易に許可しませんでした。導水が通過するだけの他の村からの反対も大きいものでした。藩が土木技術者・丹羽頼母を派遣し調査した結果、同年12月に「藩営事業」として行うことが決定されるも、藩は「計画通りに導水できなかったときは5人の庄屋全員を磔の刑にする」と表明します。5人の庄屋は「成功せず徒労に帰したならば誅罰を加えて世の見せしめにされたい」と答えました。工事に際しては5人の磔台が立てられます。このことが「庄屋を磔にしてはならない」との農民の水道工事に対する強い団結を生み出したのだとされています。
 工事は4期に渡ります。初期の導水成功により近隣地域から配水の請願がなされ追加工事が必要となったからです。仕上げとして延宝2年(1674年)に大石堰が築造されました。筑後川本流をせき止める大工事でしたが見事に成功し寛文4年(1664年)に77町歩だった灌漑面積は貞亨4年(1687年)に1425町歩に増大しました。工事の成功により五庄屋は地域の恩人となり「神」として祀られるようになりました。大石堰脇に水神社が建立され顕彰碑が建てられています。

 現在の大石堰は水流に直角に作られたコンクリート製の普通の堰ですが、これは昭和28年の筑後川大水害で破壊された古い堰を新規に作り替えたものです。

 江戸時代の大石堰は山田堰と同様「斜め堰」でした。旧大石堰は筑後川が右にカーブするところに斜めのラインを形成して水流を左(南)側の水門に導く構造でした。



 大石堰から取水された水は用水路を通って隈ノ上川に流れこむようになっていました。隈ノ上川に堰を設け(長野堰)ここから再び用水路を通して以西を流れるように設計されました(これが「大石・長野水道」名称の由来)。が、この構造では水流が隈ノ上川の状態により左右されてしまい安定的流量確保に支障が出ます。そこで昭和28年の大水害後、長野堰に大規模な改良が加えられ「隈ノ上川の下を水路が通る」水流の立体交差が設けられました(サイフォンの原理による)。
 現在のサイフォンは以前訪れた時とかなり様子が違っています。これは近時の隈ノ上川拡張にともなって改修工事を受けたものです(浮羽の郷土史家佐藤先生の御教示による)。

 立体交差する部分の上に設けられているのが長野水神社です。



 サイフォンを出た水流は西に向かい、原鶴温泉南にある「角間の天秤」なる分水路で複数に分かれます(大きくは2つですが他に細い分線が複数あります)。分水のために各水路の幅や角度が絶妙に調節されています。南に向かう水路は「南新川」と呼ばれ、吉井の町の中で毛細血管のように枝分かれしています。この水が白壁の街:吉井の発展を支えました。 


 


 
 「五庄屋物語」は戦前の修身の教科書にも取り上げられました。5人の庄屋は200年以上経って大日本帝国の「神」とされたのです。現代の目から見れば大石長野水道の価値が多大であることに議論の余地はありません。後世の地域住民は5庄屋の命をかけた決断と農民の献身的な労働の恩恵を被っています。が当時の農民に現実に生じたのは益々強化される年貢米徴収と用水施設の維持管理費の自己負担による生活の困窮化でした(「筑後川農業水利誌」198頁)。これを背景に(増税を直接的契機に)後年この地域に農民一揆(享保一揆1728年・宝暦一揆1754年)が起こったのです。
 大石堰築造から304年後の昭和53年(1978年)に提起された筑後大堰訴訟の最終準備書面で原告住民側はこう主張しました。「この五庄屋物語の『修身』の美談は幕藩体制下の現地の農民にとっては決して『成功物語』ではなく、むしろ逆に生活を圧迫し、生活を困窮させ、ついには一揆まで起こさざるを得なくなる物語だったのである。この『水資源開発』による利益を一手に受けることができたのは有馬藩であった。有馬藩はなるべく経費を使わずに農民の『自発的労働』によって荒畑の美田化による多額の租税収入を上げることに成功したのである。」筑後川を巡る政治は「筑後大堰」問題の他にも、下筌ダム建設に際しての「蜂の巣城闘争」を引き起こしています。筑後川は「公共工事とは誰のために何のために行われるのか」という根本問題を我々に投げかけています。

前の記事

中世高良山の終焉