医師の劇団4
昭和2年1月19日安元知之は亡くなりました。ミツルに対して「あと10年の命だが」と断って求婚した知之ですが、予言より2年長く知之は生きました。短い命のなか知之は比類のない演劇活動を展開しました。その姿を、ミツル夫人は「10年で何十年分も生きなさった」と語っています(井上理恵「近代演劇の扉をあける」社会評論社218頁)。知之には「春光院知山道之居士」という戒名が付され、生前に自ら狐原墓地に建てた墓に納骨されました。雪の日に行われた葬送の列は大変なものだったと伝えられています。知之の死後、嫩葉会会員は「事後の嫩葉会をどうするか」の選択を迫られました。存続を望む声も強かったようですが、知之に代わる者がいなかったため、名誉あるその名を汚さないために昭和2年3月に嫩葉会は解散することになりました。かようにして嫩葉会は活動を停止し、事後の戦争・敗戦・高度成長等の社会の激変の中で嫩葉会はその存在すらも人々の記憶から忘れ去られてきました。嫩葉会を顕彰する動きはこれまでにも何度か見受けられました。しかし地元である浮羽においても定着することはなく、顕彰をしても、しばらくすると再び忘れ去られてしまう事態が繰り返えされてきました。
昭和35年5月21日自宅に知之の顕彰碑が設けられました。これはかつての嫩葉会会員と関係者が資金を出しあって設置が実現したものです(後述)。昭和45年3月、佐々木慈寛「嫩葉会小劇場てんまつ記(上・中・下)」が発行されました。佐々木氏は九州大学付属病院近くにある松源寺の住職で、歴史や演劇の研究者でもあられます。この「てんまつ記」は僅か100部しか発行されなかった貴重なものです。中村星湖氏の「故安元知之くんへ」と題する原稿が寄せられており、最後に「山春の、嫩葉は枯れじ、時・所・人は変わるも、真心しあらば」という素晴らしい1首が添えられています。昭和59年3月「演劇学」第25号(郡司正勝教授古希記念)に「農民演劇集団『嫩葉会』と安元知之」と題する論文が掲載されました。本論文は後に井上理恵「近代演劇の扉を開ける」社会評論社185頁以下に納められています。
平成13年3月、浮羽町教育委員会の樋口泰範氏は「嫩葉会の足跡を偲ぶ」を発行しました。「嫩葉会年鑑」の記述を基本としながらも、ミツル夫人・井手無一氏・娘である知恵氏・嫩葉会の元会員らの証言なども取り纏められている優れたものです。
その後、浮羽町教育委員会は脚本家・布勢博一氏に依頼をして安元知之と嫩葉会の活動を演劇化する脚本「あさきゆめみし」を完成させました。2幕・7場からなるこの作品は、安元知之の人生を<彼が夢みた演劇の形で>聴衆に訴えかけるものであり知之の鎮魂としてこれ以上のものは望み得ないものと言えます。
嫩葉会の痕跡は現在どうなっているのでしょうか?孫である安元知臣さんによると室内劇場が設けられた診療所と自宅は昭和初期に既に取り壊されたそうです。大正12年に特別公演会が行われた自宅裏の畑は、その痕跡すら判らなくなっています。自宅の横には前述した顕彰碑がもうけられています。碑文は知之を広く社会に紹介した評論家中村星湖氏がてがけています。知之の経歴や功績に触れた上で「しかし嫩葉は永久に伸びゆく」という名文で締められた素晴らしいものです。
野外劇場について説明します。大正14年6月の農村問題研究会例会で娯楽問題が話題になったとき知之が野天公会堂建設を提言しました。村では毎年11月23日に西見台で招魂祭を行うことになっていたので、この西見台の斜面を利用してギリシャ劇場に似た野天公会堂を設け、祭典終了後ここに農民が集合して共楽の場としようという提案でした。この提案が研究会で承認され、知之の夢は実現することになったのです(下の写真は西見台から眺める筑後平野)。用地は河北俊義氏(山春村村長)が提供し、知之が会堂の設計を行い、在郷軍人会および青年会の労働奉仕(5日間の動員・延べ331人)が行われました。完成した公会堂は約330平方メートル。約3分の1に弧を描く階段式の観客席を持ち、正面に本舞台、手前には若干低い半円形の前舞台がありました。社会格差の激しい当時において演者を観客が見下げる形式のこの公会堂は日本のどこにも無い画期的なものでした。河北家が所有する西見台は「道の駅うきは」が建築されることが決まった際に買収の対象となりました。しかし、現状を大きく変更しないことを望む、河北さんの願いを国は尊重しています。そのおかげで野外劇場は地下でその後も静かに眠り続けることが出来たのです。下記写真は従来から設置されていた「円形劇場由来」を示す看板です。
この地下の宝物が日の目を見るときが来ました。うきは市教育委員会文化財保護係による発掘調査の対象になったのです。平成27年7月18日、発掘状況説明会が行われました。西日本新聞で大々的に報道されたため、多くの関係者・市民・メディアが集まりました。
うきは市文化財保護係の職員さんによる発掘状況の報告が行われました。
報告後、この劇場に所縁のある安元知臣さん・河北宣正さんの挨拶が行われました。多くの皆様から温かい拍手が送られました。
平成27年10月24日、私がお声かけして「安元知之先生を語る会」を開催しました。出席していただいたのは安元知臣(知之の孫)・河北宣正(河北俊義氏の孫)・石山浩一郎(久留米の劇団主宰者・脚本演出を手がける)・佐藤好英(うきは歴史民俗資料館)・狩野啓子(久留米大学文学部教授)の各氏です。(敬称は略)
皆様から安元知之に対する尊敬と追慕の情が示されて、ほのぼのとした良い会になりました。私は天国にいる知之が心から喜んでくれているような気がしました。
最後に安元知之のお墓について紹介させていただきます。冒頭述べたように知之は生前に墓を自ら作成していました。ギリシャ神殿風に作られた墓は知之が大好きだった椿の木陰におかれており、知之はここで永遠の眠りについています。
平成28年1月19日、安元知之が亡くなって90年という節目の日。うきは市では知之の死後90年を記念した公的行事を検討しています。久留米市は文化を顕彰するために絵画部門に於ける「青木繁記念大賞」箏曲部門に於ける「賢順記念箏曲コンクール」を毎年開いています。知之の魂が語り継がれるよう「安元知之記念演劇祭」のようなものが出来ないか私は夢想しています。(完)
* 脱稿後、石山浩一郎先生から「何故、演劇だったのか?」という文をお寄せ頂きました。「うきは市の樋口教育長がお元気だった頃、東京の劇団「青年劇場」の演出家堀口始氏から樋口教育長の友人・布施博一氏が書いた「あさきゆめみし」を上演したいという話があった。「安元知之と嫩葉会」を知ったのは、それがきっかけだった。たまたま私の戯曲が青年劇場戯曲賞に選ばれた1988(昭和63)年であったと思う。青年劇場は、秋田雨雀・土方与志記念と銘打って創設されている。土方与志が、築地小劇場を拠点に新劇運動を興こしたのが1924(大正13)年だから、関東大震災の翌年の混乱の中で、新しい日本演劇の基盤がつくられたことになる。その同じ時期に嫩葉会は活動していた。今回、歴史を克明に掘り下げて調査研究し、核心をついた視点から判りやすい文章で説いてくれる郷土史家の樋口明男さんの誘いで「安元知之と嫩葉会」と再会することが出来、縁のある人々とも知り合うことになった。野外劇場の発掘も始まり「安元知之と嫩葉会」がふたたび脚光を浴びることで日本演劇史の貴重な遺産が発見され、同時に演劇がはたす文化的価値が再評価されるのは嬉しいことである。私には最初から疑問があった。なぜ「この時代」に・なぜ「この地」で・なぜ「演劇」であったのかである。これらは樋口さんの論文などで徐々に解明されていった。
不思議なことに、安元知之を知ることによって「この時代」はそう昔々ではなくなった。例えば関東大震災の前年に生まれた「かさこじぞう」の児童文学者・岩崎京子さんとは、今でも毎年会っている。93歳、九州にひとりで飛んでくる。明治40年代、「復活」の舞台で歌った松井須磨子の「カチーシャ」の歌は肉声が聞ける。シェークスピアや・イプセンや・トルストイや・ゴーリキーやチェーホフなども既に築地小劇場以前に上演されている。嫩葉会が取り上げた作品は安元知之にとってはそれほど新しいものではなかったであろう。
この時代より「この地」の農民にとってカルチャーショックは大きかったはずで、しかも見たことも聞いたこともないはずの演劇をやる側に立たされた。はまり込んだら、とことん熱中し演劇のない暮らしは考えられなかったであろう。ましてやテレビやラジオもない。ラジオ放送がはじまったのは大正14年。まだ村にはラジオはなかったはずだ。演劇は農民にとって黒船来襲のような文化的大事件であったと思う。以来、安元知之は現れず「この地に」演劇は根づいていない。安元知之が演劇をはじめたことが最もドラマチックな事件であった気がする。
なぜ「演劇」だったのかは、まだ考察の余地がある。江戸の歌舞伎や人形浄瑠璃、浮世草子もそうだが、近松門左衛門や井原西鶴らが作ったフィクションが、あっという間に実際あった事件と受け取られ噂として広がったといわれるが、嫩葉会の頃の演劇はそれ以上に唯一のリアルな情報であったはずだ。こんな生き方もあるのだ・こんな世界もあるのだ。舞台が虚構の枠を踏み砕いて人々の心に突き刺さる。やる人も・見る人も真っ白い心でいるからこそ、考え・悩み・喜び・涙する。おそらく安元知之は演劇というフィクションが持っているエネルギーを見抜いていたのではないだろうか。終演後、夜更けまでみんなで語り合う姿がなんとも人として神々しく美しいと思う。」(石山浩一郎)
* 平成29(2017)年1月29日、うきは市民センターにて「安元知之没後90年記念特別シンポジウム・わかば会と円形劇場・その歴史、そしてこれから」が開催されました。井上理恵先生(現在は桐朋学園芸術短期大学教授)による特別講演が行われるとともに赤司善彦(福岡県文化財保護課課長)をコーディネーターにして井上理恵(同)・菊池成朋(九州大学教授)佐藤好英(浮羽歴史民族資料館)田尻正範(山春自治協議会会長)生野里美(いきは市教育委員会)の各氏による活発なシンポジウムが開催されました。石山先生とともに参加しました。今後もこのような形で安元先生の顕彰がなされてゆくことを私は念願しています。
* 平成29年12月21日、うきは市が約2000万円をかけて復元整備した野外円形劇場の披露会が行われました。山春小学校の5年生18人による歌とダンスの後、うきは市民大学で演劇を学ぶメンバー6名による朗読劇が演じられ観客150人から喝采を浴びました。