歴史散歩 Vol.79

三池港周辺3

 今回は三池港の直近にある三川坑の歴史を概説します。大労働争議と炭塵爆発事故で著名です。
(参考文献:石炭産業科学館「三池炭坑の歴史と技術」、九州産業考古学会「筑後の近代化遺産」(弦書房)、高木尚雄「地底の声」(弦書房)、三池炭鉱労働組合「みいけ闘いの軌跡」等)
* 本稿はNHKアーカイブスから多大な恩恵を受けました。大牟田市石炭産業科学館様からも展示資料の撮影を許可頂きました。記して謝意を申し上げます。

大牟田・荒尾一帯の地下に広がる炭層は東(山側)から西(海側)に向けて深くなっています。 坑口と関連施設は炭層が浅い東側から設けられました。江戸時代は東部に露頭抗が見受けられましたが坑道が深くなり七浦坑・宮浦坑などが開坑されました。(「三池炭鉱の歴史と技術」5頁)
 宮原坑や万田坑は明治大正時代に開坑し主に戦前期に操業した古い坑口。やぐらを組んでその横に機械室(巻き上げ機)を設置し、そこから頑丈なロープで垂直に地下の坑道に人員や物資を送り込み揚炭する坑口(竪坑)です。(石炭化学資料館の展示資料)   
 しかし、この方法では連続的揚炭が不可能です。しかも採掘が進むにつれ採炭現場が海底奥深い部分になってきたので、採炭効率化のため海岸近くに斜坑(炭層に向け斜めに掘り進む手法の坑口)を設けることが不可欠と認識されました。こうして設けられたのが三川坑です。 三川坑は三池港船渠(ドック)の東北に位置します。明治41年の三井港倶楽部開設にあたり三井は5万平方メートルの土地を買収していました。港倶楽部は北に正面を向けており当時この建物の西と北には広大な庭園が広がっていました。大正6年の三川町地図によると港倶楽部は敷地の中央に位置しており入口は北側(建物正面側)にありました。諏訪川沿いの小道から入った訪問者が南に向け庭園を入るようになっていました。三井鉱山は自己が所有するこの敷地の建物ギリギリまで西と北の土地を削り、約5万平方メートルのうち10分の1にあたる約5千平方メートルだけを港倶楽部の敷地に残し、残9割の土地に海側に開口する大斜坑2本と付属施設を開設しました。    
 三川坑は戦時増産体制が急がれた昭和12年に着工し同15年に操業が始まりました。(*昭和7年に団琢磨が白昼テロで殺される血盟団事件が発生し昭和12年には226事件が発生し昭和14年にはノモンハン事件が発生しています。時代状況を意識してください。)斜坑は掘り出した石炭や作業坑夫をベルトコンベアや人車で運搬出来るので大量採掘に適していました。第一斜坑は入気・揚炭・材料搬入に、第二斜坑は抗夫の入昇坑・入気・冷却水と圧縮空気の供給・排水に利用されました。第一斜坑と第二斜坑の延長は2012メートルです。傾斜11度50分で地底350メートルまで続き地底で四山坑と連絡していました。海上に設けられた排気竪坑により陰圧をかけられるため両斜坑には常に「内部に向けた空気の流れ」が創られていました(後の炭塵爆発事故で悲劇を生む要因となる)。

(斜坑2写真は高木尚雄「地底の声」より引用)
 三川坑にはホッパー(貯炭槽)が置かれており、三井三池に於ける石炭流通の要と位置づけられました。石炭は炭層毎に成分が異なります。発電用・原料用など用途別に選別する作業が不可欠です。そのため鉱底で選別されて第一斜坑のベルトコンベアで地上に運ばれた石炭がホッパーに貯蔵される仕組みになっていました。

三川坑は戦中も戦後復興期も、三井三池の(広く言えば日本の)中心的炭鉱として多大なる役割を果たしてきました。地底深くの劣悪な労働環境の中で働く坑夫たちも「自分らが日本の産業経済を支えている」という高い誇りを持っていました。

 三川坑は「三池争議」と「炭塵爆発」が起きた歴史的に特別な存在です。
(三池争議について)
 敗戦後、GHQの民主化政策により労働組合の結成が相次ぐ中で三池労組は昭和21年に誕生します。昭和28年、三井鉱山は経営合理化のため希望退職者を募集したものの、予定人員に達しなかったため指名解雇を通告しました。三池労組をはじめとする三鉱連はこれを拒否してストライキを実施し、会社は指名解雇を撤回します。この争議は「英雄なき113日間の闘い」と呼ばれており、三池争議の前史に位置付けられています。昭和30年代に入ると石炭から石油への転換が本格化し、経営の合理化を迫られた三井鉱山は三池労組との対決を決意します。昭和34年、合理化案の提示から交渉決裂・中労委斡旋拒否を経て、三池労組の組合員に対し退職を勧告します。これを拒否した1278人に対し解雇が通知されました。職場闘争に積極的な組合員を排除する姿勢の三井鉱山に対して、三池労組側は「英雄なき113日間の闘い」の成功体験から今回も勝てると考えたようです。昭和35年正月、三池労組はヘリコプターからバラまくという奇抜な方法で解雇状を会社に返上します。1月25日、三井鉱山は操業中の三川・四山・宮浦のロックアウトを実施し、三池労組は無期限ストで対抗します。スト期間中は収入が途絶える三池労組の労働者や家庭に対して労組の全国組織である総評はカンパを募って支援しました。他方三池炭鉱の操業停止で経済的に苦しい三井鉱山は経済界が支援します。こうして三池争議は一企業の枠を超えて「総資本対総労働」と呼ばれる戦後最大の労働争議に発展していきました。当初は「鉄の団結」を誇った三池労組でしたが強硬路線やスト中の生活苦から執行部に批判的な人々が増加し、昭和35年3月に批判派が分裂して新労(第2組合)を結成します。 新労は労使協調路線を掲げ、ロックアウト中の会社は新労組合員による操業再開を決定。3月28日、三川坑に入る新労とこれを阻止する三池労組が衝突し多数の負傷者が出ます。翌日には四山坑前でピケを張っていた三池労組と暴力団員が衝突して労組組員が殺される事件すら発生します。
 新労で操業を再開する会社の動きに対し三池労組は三川坑のホッパーを占拠して抵抗します(塹壕まで掘られた)。会社はホッパー以外の場所に貯炭し別ルートで搬出する方法を採りますが、安定操業のためにはホッパーを奪還しなければなりません。昭和35年7月初旬、三井鉱山が申請した三池労組に対するホッパー立入禁止・妨害排除の仮処分を福岡地裁が認めます。 労組は占拠を続行し総評は7月17日にホッパー前10万人規模の大集会を開催するなど三池労組と上部組織は徹底抗戦の姿勢を崩さず、警察による実力排除が現実に迫ってきました。7月20日未明、三池労組と全国の支援者計2万人と警官隊1万人がホッパー前で対峙しました。この膨大な人数が全面衝突すれば流血の事態は避けられません。(「みいけ闘いの軌跡」より・ホッパー前の集会)

 同年7月19日に発足した池田内閣は7月20日午前5時に迫った警察の実力行使を前に流血回避に向けて動きます。タイムリミット2時間前に中労委は労使双方に異例の「申し入れ」を提示。その内容は「一週間後に斡旋案を出すので労使はこれに従う・労組はピケを解除・会社は仮処分申請を取り下げる」。中労委への白紙委任と一時休戦の要求でした。これを総評と炭労のトップが受諾の意志を示したために警官隊は引き揚げ衝突はギリギリで回避されました。三井鉱山も申し入れを受諾。三池労組は指名解雇撤回の斡旋案が出ると考えていましたが、8月10日に出された斡旋案は「本日より1ヶ月の整理期間をおく。これを経過した者については会社は指名解雇を取り消し自発的に退職したものとする」というもの。自主退職の体裁を取りつつも実質的には指名解雇を認める内容ですが総評・炭労は受諾を決定します。上部組織の支援なしに争議継続は難しいため三池労組は斡旋案を受諾します。こうして三池争議は三池労組の実質的な「敗北」という形で終結しました。
 三池争議には各主体ごとに理念(言い分)がありました。三井鉱山は「エネルギー革命」という政府の方針に従って合理化を進めようとしましたし、第1組合は指名解雇を撤回させるため命がけの行動に出ました。第2組合は鉱員の日常生活を取り戻そうと努力しました。各当事者ごとの「正義」を追求する過程で起った激しい衝突、それが三池争議でありました。
三池争議の後、会社は遅れた生産を取り戻すべく合理化を進めました。人員を大幅に削減したのに生産目標は大幅に引き上げられました。それが坑内の労働安全衛生(保安体制)不備をもたらしたことは否めません(争議前後で人員は15,000人から10,000人に削減されたが、生産量は8,000トン/日から15,000トン/日に増大、生産コストの切り下げに伴って保安要員も減少した)。その結果、3年後に悲惨な大労災事故が発生することになります。

(炭塵爆発事故について)
 昭和38年11月9日午後3時12分、第一斜坑で大爆発が発生しました。

 一酸化炭素ガスは坑内に充満します。陰圧により地底深くまで広がりました。シフトの交代時間にあたり坑内には約1400人の労働者がいたためCOガスを吸って次々と倒れます。この事故は死者458人、CO中毒患者839人という戦後最悪の労働災害事故になりました。

事故後に現場に入った政府調査団は事故のプロセスをこう考えました。「斜坑内の炭車が脱線し連結リンクが破断して逸走。これが何らかの着火源を引き起こし坑内に堆積していた炭塵に着火して爆発した」というものです。しかし調査団長・山田穣九州大学名誉教授は着火原因を特定しないまま調査団の解散を宣言します。そして前述の内容と爆発防止策を取り纏めただけの中間報告書を提出して調査を終了します。これを受けて三池炭鉱は操業を再開しました。
 調査団の一員である荒木忍九州工業大学教授ら数人は警察の鑑定人として究明作業を続け、逸走したトロッコが電気ケーブルを破損した際に発生したスパークが着火原因であると突き止めました。荒木鑑定書を受け取った福岡地検は、業務上過失致死傷と鉱山保安法違反の訴因による三井鉱山関係者の起訴を目指したようです。ところが荒木鑑定書の完成後、山田教授は別の説を唱える上申書を提出しました。「堆積していたのは炭塵ではなく爆発性のない砂塵だ」という三井鉱山に有利な内容でした。更に三井鉱山弁護団は「爆発したのは炭塵ではなく揚炭ベルト上の石炭に混じる微粉炭だ」と主張する上申書を提出します(搬送中の石炭の爆発だから「不可抗力」と主張)。上申書提出後、起訴に積極的だった福岡地検の担当検事全員が人事異動で転勤させられます。かかる経過を経て、昭和41年福岡地検は三井鉱山関係者の不起訴を決定し、刑事事件の捜査は終了しました。
 三川坑事故では839人が一酸化炭素(CO)中毒に罹りました。重症患者は寝たきりになりました。軽症とされた患者も頭痛、けいれん・記憶力低下・人格変化等といった後遺症に苦しみます。しかしながら当時の医学ではCO中毒は「予後良好説」(いずれ回復する)が定説だったためCO患者の治療は十分ではありませんでした。神経障害は表面的には健康にみえますし労組が医療現場に口出しした反感から一部医師達が「組合原性疾患」(組合が病状を大げさに言わせている)との表現でニセ患者だと示唆したため患者と家族は社会的に孤立します。労災補償の打ち切りを受け昭和42年にCO法が成立するも、患者と家族の困窮を改善するには不十分な内容でした。昭和47年、一部の患者・家族が三井鉱山を相手に損害賠償と事故責任を問う民事訴訟(いわゆる家族訴訟)を起こします。が、会社との直接交渉を重視する三池労組は原告団の行動を「物とり主義」と批判し冷遇します(この感覚が私には理解できません)。しかし翌年、三池労組も患者と遺族による大原告団を組織して訴訟(いわゆるマンモス訴訟)を起こします。昭和60年福岡地裁はマンモス訴訟の原告被告双方に和解を打診。裁判の長期化で疲弊した原告団はこれを受け入れますが、一部原告は拒否して分裂します。事故から30年経った平成5年に福岡地裁は家族訴訟とマンモス訴訟和解拒否派の両裁判について「炭塵爆発説」を認定して三井鉱山の賠償責任を認め患者と(マンモス訴訟)遺族への賠償を命じる判決を下します。マンモス訴訟は原告被告とも控訴せずに判決が確定。他方、患者家族への賠償は棄却されたため、家族訴訟原告は控訴。平成8年福岡高裁は家族訴訟原告の控訴を棄却。平成10年最高裁も上告棄却。事故から34年(提訴から25年)を経て長い長い裁判が終わりました。
 平成9年3月30日に三池炭鉱は閉山。官営化以来120年余り続いた歴史が終了。新労と職組は解散し、数年遅れて三池労組も解散しました。炭塵爆発事故を契機に開設された大牟田労災病院は平成17年度末で廃止、CO患者の治療は社会保険吉野病院に引き継がれました。平成20年3月現在、CO患者26人が入院し25人が通院しています(08/3/19西日本新聞)。
 平成21年、三井鉱山は社名を「日本コークス工業」に変更しました。三池炭鉱が過去のものとなる中、CO患者の多くは亡くなり、残る方々は後遺障害に苦しむ生活が続いています。坑内で吸った炭塵が原因で塵肺(じんぱい)を患った方も少なくありません。
 炭塵爆発事故でCO中毒となり平成26年に亡くなった方(享年89歳)について、平成27年3月31日大牟田労働基準監督署は労災保険における遺族補償年金支給決定通知を妻に出しました(15/4/15毎日新聞)。事故から51年後に「労災による死亡」との国家的認定が為されるのは極めて異例のことです。患者さん方にとって炭塵爆発事故は現在に続いています。

大労働争議、中労委斡旋、炭塵爆発事故、長い闘病生活と法廷闘争。苦難に満ちた三井三池の「影」の歴史の象徴。それが三川坑です。

*平成27年5月4日、三池炭鉱の一部の旧坑口(宮原坑や万田坑など)は「世界遺産」に登録されました。これに三川坑は含まれていません。が、昭和の主力坑・三川坑に歴史的価値が認められないわけでは全くありません。三井三池の「光」と「影」を最も象徴しているのが旧三井港倶楽部と三川坑なのです。

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