ルーテル教会2
久留米ルーテル教会が営む「日善幼稚園」のスクールバスは子どもたちを幼稚園に降ろすと蛍川町の某会社倉庫に停められています。弁護士になって直ぐの頃、縁あって私もここに車を停めており「何故、幼稚園バスがここに停まっているのだろう?」と不思議に思っていました。2回にわたり、この地に所縁のある2人に焦点をあてます。今回は久留米の弁護士会の大先輩である坪池隆先生についてお話しいたします。
坪池先生は明治21(1888)年に久留米藩武士の家系に生まれました。18歳の時(明治39年)久留米ルーテル教会で米村牧師より洗礼を受けておられます。武士の出である坪池先生は当初はキリスト教に批判的で少年時代は教会に対し加害行為を行ったこともあるようです。受洗された事情はよく判りませんが「パウロの改心」のような出来事があったのでしょう。教会では青年会である「磔友会」の幹事を長く勤められ、教会の執事や日善幼稚園園長としての職務など長きにわたり中心的役割を果たされました。教会創始25周年と50周年の各行事では特に力を尽くされました。先生は久留米高等小学校を卒業した後、裁判所に廷吏として勤務しながら法律の勉学を続けました。ご子息・坪池誠氏(ルーテル教会牧師)によると苦学を強いられた原因は祖父(隆氏父)が友人の願いを断り切れず多額の債務の連帯保証人になったためです。責任を1人で負わされる羽目になり一家は食べるだけの貧乏生活が続きました。2人の兄が病弱であったために先生は3男ながら家督を継ぐことになり借金返済を背負わなければならなくなったのです。裁判所に勤務し家族を支えながら法律の勉強を続け遂に司法科試験に合格し市内で弁護士として開業します。
義務教育しか受けられなかった父にとって弁護士への道は容易ではなかった。1つ1つ必要な資格試験の合格を積み重ねて最終の国家試験を受けるために血のにじむような独学の苦労にあわせて貧しい家計の中心となって生きてゆくために人一番の年月が必要であった。
坪池先生の実務法曹の仕事として銘記されるべきは戦時下に治安維持法違反の容疑者として逮捕された教会(ホーリネス系教会・セブンスデーアドベンチスト系教会・日本基督教団朝鮮人教会)の牧師さんの裁判に、弁護人として奉仕した活動があげられます。「80年誌」によると、ホーリネス系教会が弾圧された理由は「千年王国」の主張が国体を否定する内容であること、セブンスデーアドベンチスト系教会が弾圧された理由は「終末論」の内容が天皇統治を否定する内容であることでした。日本基督教団朝鮮人教会弾圧の理由も同様のものであったとのことです。坪池先生はこれらの治安維持法違反の事件について、久留米の他、別府・宮崎・熊本・八幡・戸畑・門司など遠方の事件も引き受けておられました。坪池先生はキリスト者としての信条にもとづき、聖書を引きながら、教義の内容は純粋な信仰の次元に止まるものであり政治的な内容を含むものではないことを真摯に弁論されていたのです。誠氏によると裁判の様子は以下のとおりです(396頁)。
警察官に腕を取られながら、足取りも重そうに入廷された吉間磯吉牧師(当時宮崎ホーリネス教会)の深あみ傘をぬがされたお姿のあまりにも酷い青ざめたやつれを見て私の胸は痛んだ。これより1年前に軍と政府の強制指導で開かれた九州地区牧師錬成会で共に枕を並べて薄くて固い1枚の布団に2人一緒に着の身着のままで寝た頃の元気な面影は全く失われていた。若い検事の論告は長く鋭くその響きは冷酷であった。『この聖戦の大義を完遂するために戦闘員・非戦闘員の別なく全国民が打って一丸となり精魂を傾けている国民総動員令下にあって日本人としての自覚を捨てた被告人が戦争協力を否定するばかりか、国民の戦意を喪失させる危険思想を宣伝していることは許し難い非国民的犯罪行為である』とヨハネ黙示録やダニエル書をはじめ聖書を論告に結びつけて引用しながら被告人を有罪と決めつけた。(略)父の弁論は法律の知識に裏付けられ進められているようであった。治安維持法の立法精神・意味・その解釈と取り扱いを巡っての弁論であった。だが、それにもまして聖書の御言葉について論じられていた。父は検事を上回る聖書からの引用句を駆使し、その本来の意味するところを諄々と説き明かしていた。それは法廷での弁論でありながら同時の説教というべきものであった。(略)父の弁論は、さらに言えば、弁護以上の信仰告白であると感じられた。検事の鋭い周到に準備された論告を跳ね返し粉砕せずにはおかない父の熱心は弁論の進行につれて弁護士としての弁論の常識からはみ出しているように思えた。
誠氏の言う「深あみ傘をぬがされたお姿のあまりにも酷い青ざめたやつれ」は治安維持法違反を捜査する憲兵隊の過酷な拷問によるものでした。憲兵隊は突然に身柄拘束され過酷な拷問を受ける機関でした。坪池先生も自分が治安維持法違反の容疑を掛けられ身柄拘束されるか判らない状況下で弁論を続けていたのです。憲兵隊は恐怖の対象だったに違いありません。現在「日善幼稚園」のスクールバスが停められているこの蛍川町の倉庫こそ久留米憲兵隊が置かれていた場所です。
坪池先生は昭和15年・16年に久留米弁護士会(現・福岡県弁護士会筑後部会)部会長を歴任されました(「福岡県弁護士会史(下)456頁」)。坪池先生は私の大先輩ということになります。「代言人は正業に戻れ」という酷い言葉が弁護士に投げつけられていた時代です。この時代に弁護士会という組織を率いることは何と難儀なことであったでしょう(前列左から3人目)。
戦後、日本国憲法が施行され司法制度は全面的に改められました。司法省が解体され最高裁判所が司法行政を行うようになり検察庁は独立の官庁となりました(「久留米の法曹ゾーン」参照)。違憲立法審査権が憲法上明記され治安維持法のような人権侵害立法は廃止されました。弁護士法も改正され各弁護士会に自治権が与えられるようになりました。かかる成果は坪池先生のような地方における弁護士の地道な努力が実を結んだ面もあることを多くの市民の方々に知っていただきたいと私は願います(昭和24年の写真・最前列左から4人目)。
坪池先生は誠氏を神学校に送り出すときこう語ったそうです(399頁)。
私は今、1人息子であるお前を神に捧げる。これからは世の美徳とされる親孝行を只今限り、きっぱりと捨てて欲しい。私たちが常に神に祈り願うことは、ただキリストの福音にふさわしく、全生涯をキリストと教会のために生きてほしいことだけである。
その生涯を「キリスト教信仰」と「地域の法律業務」に捧げられた坪池隆先生は昭和46年(1971年)11月、天に召されました。享年83歳でした。