ポテトキング3
前回は牛島謹爾の経済的成功を取り上げましたので今回は牛嶋謹爾の政治的努力を描写します。
*本稿は久留米高専中畑義明教授の講演会から得た知見を基礎としています(当然ながら文責は私)。中畑先生には有用な知見を教示いただいたことにつき謝意を申し上げます。(山田義雄「花は一色にあらず」、篠原正一「久留米人物記」、久留米市「先人の面影」他)
まず謹爾が生きた時代的背景を考えてみましょう。カルフォルニアは1848年にアメリカがメキシコから割譲して得た土地です。1849年にゴールドラッシュが起こり一攫千金を夢見る者が大量に集まっていました。その中には低賃金労働者としてアイルランド人と中国人の移民が多く含まれています。しかし1863年に始まった大陸横断鉄道の建設が69年に完成すると、解雇された中国人が市民の排斥運動を受けてチャイナタウンを形成していました。日本政府は、当時は独立国であったハワイへの移民を1883年から開始していました。しかし1893年にアメリカがハワイを併合したため、ハワイからカルフォルニアへの流入者が急速に増えました。謹爾が渡米した1888年前後は、かような激動の時代であったのです。そんな状況の中で、1905年、サンフランシスコにおいて「アジア人排斥同盟」が設立されています。カルフォルニアで排日の機運が強くなった背景には、日本人移民がアメリカ人の職を奪っているという経済的不満と地震など天災による社会不安が強かった模様です。また、日本人が日清・日露と戦いを繰り返す中で謙虚さを失い、傲慢になっていったことも大きいと言えます。1906年4月18日、サンフランシスコ周辺に大地震が起こります。日本政府はサンフランシスコに災害見舞金を送ります。他方、謹爾はポテトを船いっぱいに詰め込んで赤十字に無償で提供しました。謹爾にとっては(八女で江崎済先生から叩きこまれた人道にもとづく)当然の行動であったかもしれませんが、この人道的行為は後にカルフォルニアの排日運動と戦うときの謹爾の大いなる助けになりました。が、カルフォルニア白人議員にとって排日は政治力を産む追い風でした。サンフランシスコ議会は日本人学童を一般公立小学校から隔離することを決議します。日本政府は事態収拾のため移民を自主的に制限することとし、アメリカ政府と”労働者移民については旅券を発行しない”との「日米紳士協約」(1908年)が結ばれました。
高まるカルフォルニアの排日気運の中、謹爾は日系移民を代表して強いリーダーシップを発揮します。1908年、謹爾が38歳のときに、在米日本人会(Japanese Association of America)が設立され、謹爾はその初代会長に選出されました。左は会長に選出された頃の牛島謹爾の著名な写真です。
1909年、謹爾はBerkeleyに3階建の家を購入します。高額所得者や文化人が多く住む高級住宅街に豪邸を持ったのです。地域白人住民は眉をひそめ同胞の日本人たちからも嫉妬と羨望の視線が彼に注がれました。
何故、謹爾は高級住宅街に豪邸を持ったのでしょうか?昔の日本人移民のイメージは、アメリカ社会になじもうとせず、日本人だけで集まり身内の話をしているという極めて閉鎖的なものでした。謹爾はかかる悪習を絶つべく自己変革を試みたのです。庭園内に年中絶えることなく花を咲かせ、茶室もつくりました。そこで多くのパーティーを開き、白人の有力者を多数呼び寄せました。一流のコックに腕をふるわせて、可能な限りのもてなしをしました。こういった振る舞いが白人社会で極めて重要なものであることを謹爾は理解していたのです(これらは親友日比翁助の師である福沢諭吉の教えるところでした)。遡って、謹爾は1900年(明治33年)に一時帰国して見合いをしています。見合い相手として謹爾が望んだのは①英語が出来て交際上手、②クリスチャン、③多少の美人というものでした。これは当時の見合い条件としては革命的なもので、謹爾が将来のアメリカ社会における自分の立ち位置を深く理解していた証左といえます(結婚した相手・下村四女子はこの条件を満たす素晴らしい女性でした)。結婚披露宴には、親友日比翁助の他、船上で知り合った三好退蔵(大審院長)も出席し祝辞を述べたようです。
ここで謹爾と渋沢栄一の関係について言及しておきます。謹爾はカルフォルニアのポテト生産者として有名でしたが、合衆国東部や日本ではほとんど知名度はありませんでした。かかる謹爾が日米両国政府に大きな影響力を持つ渋沢栄一と知り合ったのは大きな力となりました。渋沢は国際親善(民間外交)に大きな力を持っていましたし、漢学にも多大の素養をもっていたので、両者は心からの親友となったのです。1913年、カルフォルニア議会は外国人土地法(AlienLandLaw)を通過させました。アメリカ市民権を持たない外国人の土地所有または3年以上の借地を禁止するものです。「アメリカ市民権を持たない外国人」とは日本人のみを指すものではありません。法案にJapaneseの文字は見られません。しかし、中国人移民の数が減少し日系移民の経済的活躍が目立ちはじめた当時、これが日本人を狙い打ちしたものであることは誰の目にも明らかでした(この法律は別名「排日土地法」と呼ばれています)。謹爾は日系移民たちにアメリカ人の考えを理解させるとともにアメリカ市民たちに日系移民の立場を判ってもらうよう説得を続けました。盟友渋沢栄一の力を借りてアメリカ人の有力議員や日本政府にも必死の働きかけをしました。
1914年、第1次世界大戦が始まります。カルフォルニアの世論は戦況に気を取られ排日運動は一瞬勢いを失います。しかし終戦と同時に戦地から帰ってきた職のない軍人たちが町にあふれ、再び「アメリカ人の職を奪っている日本人」の構図が浮かび上がります。日本で勢力を強める軍部への警戒・戦時に日本が中国に押し付けた無茶な要求(対華21ヶ条の要求)への反発がカルフォルニアの日系人に向けられました。高まっていく日系人への憎悪の中で票を獲得したい白人政治家たちはますます排日を明確にした動きを示します。この背景には当時の世界的「インフルエンザ」流行による社会不安もありました。(*世界で3000万人以上が死亡したパンデミック。俗に「スペイン風邪」と通称されたもののスペインが発祥地ではない:第1次大戦の当事者国でなかったスペインでは情報統制がなされなかったので報道が最初になされたことにもとづく。)
1920年7月12・13・14日、謹爾はサンフランシスコ公聴会に出頭を求められ、排日派の議員から難しい質問をあびせられます。針のむしろのような議場で、謹爾はつとめて冷静に次のような趣旨を述べたようです。「私はアメリカ社会のおかげで経済的に成功したことを認識しています。私はアメリカ社会を尊敬し馴染もうと努力してきました。私はアメリカに感謝しており、その感謝の表れとして地元の大学に寄付をしました。サンフランシスコ大地震後の際にはポテトを無償で提供しました。」謹爾の堂々たる答弁に対して、排日派の議員は一番嫌な質問を浴びせかけてきました。「もしアメリカが日本と戦争になったら日系人は日本と戦うのか?」謹爾は苦悩の中でこう応えます。「私は日本人であり日本社会を愛しています。しかし私はアメリカ市民でありアメリカ社会を愛しています。両国が戦争をするという事態は私がもっとも恐れるものです。しかしながら不幸にして両国に戦争が生じたら日系人はアメリカ市民として戦うでありましょう。」(この質問と答弁は後に「陸軍442日系人部隊」として現実化します)
排日土地法の施行は謹爾名義の農業活動を不可能とするものでした。事後、謹爾は「帰化不能の外国人」として不動産の所有を認められなくなりました。もちろん謹爾は打てる手は先に打っていました。アメリカ生まれの子供達はアメリカ国籍者です。その名義で土地を所有することに何らの支障もありません。謹爾は多くの財産を子供達に譲渡していました。しかし、自分を閉め出そうとするアメリカ社会の姿に謹爾は深い絶望感を抱いたに違いありません。
他方、1924年(大正13)に帝国ホテルで催された汎太平洋倶楽部の例会で盟友・渋沢栄一は以下の講演をしています(温厚な渋沢にしては激烈な内容)。「日本からの移民も、カリフォルニアその他太平洋の各州においてアメリカの人々にも喜ばれ、広い荒野を開墾したのは所謂天の配剤よろしきを得ていると喜びつつあったのであります。しかし、それは束の間の事であって、そこにはしなくも大いに憂うべき問題が起こりました。それはカリフォルニアの排日運動であり学童を差別待遇しようとすることが起こったのであります。実に私は意外の感に打たれました。(略)数年後になると「排日土地法」が制定され、その目的はまったく日本移民を妨げるためであり、しかもそれは白人の勝手な都合であることが判りました。政治家が排日を叫ぶことによって衆愚の票を集めようとしているのであります。これを見て私はアメリカ人も全てが仁者ばかりでないと考えざるをえなくなりました。(略)その後アメリカは紳士協約があるにもかかわらず土地法・借地法など、ますます峻厳に改悪してきました。ワシントン会議の時は移民問題を解決してもらいたいと思いましたが、太平洋問題を論ずる目的のこの会議にも取り上げてもらえませんでした。私はことは重大と思い、国民の使節として渡米し百方手を尽くしてみたのですが、アメリカ政府はその問題を協議するための委員会を作ることにも賛成しませんでした。このごろになると絶対的な排日法が連邦議会を通ったそうであります。永い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏も無いのかという愚痴も出したくなるのであります。」
失意の謹爾は1926年3月、日本に一時帰国することとしました。3月16日にサンフランシスコから出航予定でした。しかし9日にロサンゼルスに急用が生じます。謹爾は仕事を済ませ娘が嫁いでいる堀領事の自宅に立ち寄り、定宿のアレキサンダーホテルに泊まります。翌朝、秘書が起こしに来ると謹爾は意識を失っておりハリウッドの病院に運び込まれます。脳溢血でした。謹爾はそのまま入院しますが、肺炎を併発して3月27日に死去します。享年63歳でした。
ストックトンの大学SanJoaquinDeltaCollege には謹爾の名を冠したTheShimaCenter というビルがあり、謹爾の業績をたたえるギャラリーが設置されています。サンマテオ郡コルマの日本人共同墓地には謹爾の記念碑があります。渋沢栄一の手による 「奮い立てよ 若き人々よ 祖国のために」 の銘が刻まれています。
文部省は高等小学校修身書巻1で謹爾をとりあげ「進取の気象」と題しています。日本国内では知られていなかった謹爾が修身の教科書に採用されたのは渋沢栄一の力が大きかったのではと私は想像しています。
カルフォルニアの排日運動を「黄渦論」と直結するのは正しくないようです。現代においてもアメリカは成功した外国企業を排斥するため(表面上は別の体裁を採りながら)経済活動の桎梏となるシステム変更を唐突に行うことがあります。カルフォルニアにおける排日運動は謹爾のような経済的成功者を標的にした”経済戦争”という意味合いが強かったのではないかと考えられます。両国間に政治的な意味の「戦争」が始まるのは1941年ですが経済的・文化的意味の「戦争」はその遙か前に始まっていたのかもしれません。(終)
* アメリカの排日移民法を題材にした文献は多数あります。入手しやすいものとして蓑原俊洋「アメリカの排日運動と日米関係」(朝日新聞出版)を挙げます。同書は「排日移民法は直接に太平洋戦争につながったのではなく、多元的・重層的である日米戦争を勃発させた要因のひとつに過ぎなかった」としつつも「太平洋戦争への長い道のりで排日移民法の成立が日米間の溝を深める契機になった事実も否めない、つまり同法成立は日本軍部による現状打破的な行為に間接的につながり、その限りでは太平洋戦争が勃発した諸要因の一部分をなした」(300頁)という見方を提示。「排日移民法の成立によって日本人の目にはアメリカの理想主義が偽善的に映り、同国のイメージが傷つけられたのは紛れも無い事実であった。加えて当時の多くの親米派知識人がその信念の礎となる部分をアメリカ理想主義への共感においていたからこそ、その反動として彼らの失望が大きかったのみならず、日本の世論に与える影響力も決定的に弱くなった。これこそが日米関係における排日移民法成立の真の意義ではなかろうか。」(302頁)
戦後の日本にとって日米関係は外交の礎です。その過去・現在・未来を考えることは全ての日本人にとって大切な意味を有します。極端な被害者意識や極端な加害者意識に偏ることなく、バランスを取りながら太平洋戦争に至る歴史を振り返ることは大切なことです。その際にポテトキングこと牛島謹璽の生涯はとても大切な何かを物語ってくれるはずです。
* 久留米市文化財収蔵館ニュース第17号(2021年3月31日)。
同館は牛嶋が糸島市の豪農へ嫁いだ妹へ贈呈した写真アルバムを購入。59葉の写真が貼られたアルバムは「わが愛する阿妹に寄す」と記され、日比翁助・渋沢栄一・東郷平八郎などと一緒に写っている写真が貼付。大正11(1922)年に交通事故で負傷した姿の写真まである。