歴史散歩 Vol.150

ちょっと寄り道(阪急2)

2日目は西宮北口を経由して今津線で宝塚に出向き大劇場で歌劇を観劇しました。その後、西宮北口に戻り阪神本線で西宮に向かいました。 (参考文献)伊原薫「関西人はなぜ阪急を別格だと思うのか」交通新聞社新書、川島智生「宝塚:温泉リゾート都市の建築史」関西学院大学出版会、NHK「ブラタモリ16」角川書店、伊井春樹「小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか」ミネルヴァ書房、石坂安希「美しき宝塚の世界」立東社、有川浩「阪急電車」幻冬舎文庫など

2日目の朝。よく眠れた。シャワーを浴びバイキング形式の朝食を採る。新阪急ホテルをチェックアウトし梅田から阪急神戸線に乗り「西宮北口」で下車。友の家に荷物を預けさせてもらう。これで荷物が軽くなった。友と一緒に気分良く今津線に乗り宝塚へ向かう。
 阪急今津線は神戸線が開業した翌年(1921)現在の北線区間が開業した。当初は西宮と宝塚を結ぶ「西宝線」なる神戸からの宝塚アクセス改善の路線であった。今津までの全路線開通は1926年(阪神との接続は1928年)。全通した今津線は西宮北口構内で神戸線を横断していた。この「ダイヤモンドクロス」なる平面交差は西宮北口の名物だった。
 今津線は六甲山地東裾に沿って線路が引かれている。左手に山を感じながらの鉄旅となる。土曜日朝なのに乗客が多い。隣りの客はスマホ競馬サイトを熱心に見ている。「仁川」で多くの客が降車した。今日は阪神競馬場で競馬が開催される日なのだ。約15分の鉄旅を経て「宝塚」で下車。

今日は友に午前11時宝塚歌劇のチケットをとってもらっている。大劇場の門が開くのは午前10時だ。それまで相当に時間があるので少し周辺を散歩することにした。現在の宝塚中心部がある武庫川北岸は本来「寺内町」であった。中心は少し東側の豪摂寺(ブラタモリ16・92頁)。その後「宿場町」としての性格が強くなった。ここは両側から山が迫る扇状地で摂津から有馬方面に向かう時の交通の要衝だったからである。その後に武庫川右岸(南側)に源泉が発見され「旅館街」として繁栄した。これは従来の男性客を主眼に置いた遊興色の強い普通の温泉であった。ホテル「若水」の脇に石碑が残されているそうなので後で確認することにしよう。栄えていた武庫川右岸に比較して武庫川左岸(北側)は全くの寒村であった(当時の小浜村の中心はもっと東側にある)。この寒村に小林一三によって開設されたのが「宝塚新温泉」である。彼はこの地に「女性や子供も楽しめる」新しいタイプの娯楽施設を作り集客の手段とした。旅客需要は最初から存在するものではなく自ら作り出すものだというのが小林の信念だった。「供給が需要を作り出す」という経済学の「セーの法則」を彼は実践していたのである。「女性や子供も楽しめる」保養地という意味で宝塚は軽井沢と価値観を共有している。「洗練された文化」を志向することによって宝塚は(低俗的な)他の歓楽街と一線を画すことに成功した。ただし宝塚が軽井沢と決定的に違うのは(軽井沢が宣教師を中心とする外国人グループにより独自の避暑地文化を育んだのに対して)宝塚は小林一三という1人の教養人経営者の強烈な個性によって現在に至る高度な観光文化を築きあげたことによる。

宝塚歌劇団の歴史に触れることにしよう。宝塚に新施設「パラダイス」が開場したのは明治45(1912)年7月1日。売り物は屋内プールだった。日本で最初の屋内プールとされる。この屋内プールに関し小林は自叙伝で「大失敗」と書いた。盛夏の間でも冷水で日光が直射しない屋内であったから冷たくて5分間以上は遊泳が出来ない・屋内プールは温水でなければならないことを知らなかったとする。その結果、大金を費やしたプールがお荷物になった。どうするか?「プールの水を抜けば大スペースとなる・椅子を並べれば劇場の客席になる・隣接している脱衣場を改築して舞台にしよう!」舞台で何を上演したらいいか?三越で少年音楽隊が人気を呼んでいるのを知っていた。帝劇で歌劇も見ていた。そこで少女による歌劇上演を思い付いたというのが小林一三伝説。小林自身の話を基にこの伝説は流布している。伊井春樹「小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか」はこの伝説を検証。同書によるとプールが失敗したので劇場に転用したのではなくプールは劇場として使えるように設計された・むしろ劇場の客席に水を入れてプールにした。秋から冬に何を催したのか不明らしいが翌大正2年3月から5月は「婦人博覧会」が開催されたとある。博覧会期間に有楽座による「女優家庭劇」が上演された。夏に再びプールが開場。2年目もプールとして使用した。最初から「夏はプール・それ以外は劇場やイベント会場」の予定だった。3年目からはプールとして使われないが、それは宝塚少女歌劇が大人気でプールより公演させたほうが儲かるからである。何故「少女」の「唱歌隊」か?女子のほうが給料が安い・吹奏楽は楽器を揃えなければならないし指導も大変・唱歌隊は安くて済むからであるらしい。真相はどうであれ、その後の宝塚歌劇が日本を代表するエンターテイメントに成長したのは奇跡である。普通に考えれば、宝塚少女歌劇は「裏返しした歌舞伎」である。歌舞伎において女形が本当の女よりも「女性らしさ」を表現できるのと同様に宝塚では男役が本当の男よりも「男性らしさ」を表現できる。これは学生時代に歌舞伎をよく観劇したという小林一三の美意識が導いたものと言えよう(紀貫之「土佐日記」以来の伝統か?)。もちろん、ここでいう「男性らしさ」とはリアルな男の姿ではない。女性の思い描く理想の男性像としての「男」である。それはデフォルメ化された、人工的な「お約束」なのだ。宝塚歌劇団は現在も「学校制度」を維持している。演者は生徒的な立場であり、スタッフは先生的な立場である(だから生徒には卒業がある)。小林一三は少女歌劇が従来の花柳界や芸能界とは異なる存在だと強調した。宝塚は「高等なる音楽教育を施した良家の女性」で構成されることを厳守させたのだ。
 小林一三は宝塚少女歌劇の精神を「清く・正しく・美しく」と表現した。私はこの言葉をカントの「実践理性批判」「純粋理性批判」「判断力批判」に対応させたい。山口周「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」(光文社新書)なる本がある。「美意識」とは経営における「真・善・美」を判断するための認識のモードである。経営における認識モードを「理性」だけに依存するのは危険だ。リスクの中で正しい経営判断を行うには美意識が不可欠である。この意味で小林一三は徹底して美意識を鍛えた人だった。茶道を極め書画や芸術にも高い見識を示した。この「リーダーの卓越した美意識」が宝塚を、阪急グループ全体を成功に導いたのである。

午前10時、宝塚大劇場が開門。中に入る。宝塚グッズを売る店舗が並んでいる。私は今日の演目歌劇「応天の門:若き日の菅原道真の事」とカルナバル「Deep Sea」のガイドブックを購入した。友はレストランで昼食の予約を手際よくやってくれた。しばし武庫川河畔のテラスで休憩。午前10時半。大ホールが開く。早めに入って内部を見学。赤を基調とした室内装飾が素晴らしい。宝塚大劇場は大正13年(1924)に宝塚歌劇の専用劇場として竣工した。4000人という当時としては巨大な収容人数を誇った。小林が大劇場を志向したのは「良い芝居を安い料金で広く大衆に見せたい」という意思による。中小劇場では1人あたりの入場料金がどうしても割高になってしまう・これでは演劇が一部特権階級の娯楽になってしまうというのが小林の懸念であった(これは同時期に安元知之が影響を受けたロマン・ロランの理念であった。2015年8月21日「医師の劇団1」を参照)。大正14年からは各組が1カ月交代で12回の常時公演を行う現在のスタイルが確立した。昭和2(1927)年、欧米に視察に出かけていた演出家岸田辰爾が帰国し「吾が巴里よ(モンパリ)」が製作される。ラインダンスや大階段・幕なし16場のスピーディーな形式の劇は観客を魅了し日本初の「レビュー」として絶賛された。昭和5(1930)年、白井鐵造が製作したレビュー「パリゼット」が初演。主題歌「すみれの花咲くころ」は現代に繋がる宝塚の代表曲となった。
 白井は歌劇団のテーマソング「おお宝塚」も作詞している(作曲 H.Carlton、1930年)。

小さな湯の町宝塚に 生まれたその昔は 知る人もなき少女歌劇
それが今では 青い袴と共に 誰でも皆知ってる 
おお宝塚 T-A-K-A-R-A-Z-U-K-A おお宝塚 我が憧れの美の郷
幼き日の甘き夢の国 歌の思い出も懐かしき
おお宝塚 T-A-K-A-R-A-Z-U-K-A おお宝塚 我が憧れの美の郷

昭和6(1931)年、オーケストラピットと客席の間の「銀橋」が登場、宝塚名物となった。昭和13年に第1回ヨーロッパ公演を果たし26都市を、昭和14年にはアメリカ公演で9都市を巡演している。戦前の日本を軍国主義一色の如く誤解している人がいるが、こういう国際的文化活動を宝塚が担っていたことはもっと評価されるべきであろう。2代目大劇場が竣工したのは平成5年(1993)。客席どこからでもステージが見やすいよう配慮されている。最新技術を駆使した音響照明設備が凄い。私は客席最前列に出向きそこからのステージの見え方や客席の見え方をチェック。僅かにオーケストラピットが見える。小林さんがこだわった大劇場主義のおかげで生演奏で行われる歌劇を比較的安い料金で拝見できるのだ。心が躍る。私は1階18列47番。良い席だ。
 午前11時。歌劇「応天の門:若き日の菅原道真の事」が開幕。私は「応天の門」なる漫画を読んでいない。劇を見た限りでは「名探偵コナン」みたいな作品であるようだ(少年が真相を断言する:読んでないけど伝聞)。時代背景を脚色するために主人公を菅原道真・相手役を在原業平に仮託しているみたいである(仮名手本忠臣蔵が時代的に異なる室町時代初期に置き換えられて演じられたようなもの)。物語世界に入りやすいように様々な工夫が施されていた(しかし宝塚で「百鬼夜行」なる言葉に出くわすとは思わなかったバイ)。直に拝見するトップスター(菅原道真:月城かなと、在原業平:鳳月杏、昭姫:海乃美月)の輝きは素晴らしいものであった。
 休憩時間に入口脇のレストランで昼食。35分なので急いで口に入れるだけ。午後の公演の関係で仕方が無いのだろう。コアなヅカファンは昼食をとらない方も多いようである。
 第2部「Deep Sea」は宝塚伝統のレビューだ。100年以上の歴史を感じさせる舞台。世の中に宝塚歌劇にハマる人が多いことを納得。印象的なのがトップコンビによる「デュエットダンス」数十人が一列になり足を上げる「ラインダンス」大階段をスターが順番に降りてくる「パレード」。偉大なるマンネリとも揶揄されているが、第2部で安定的なレビューが行われるからこそ第1部で挑戦的演目をやっても受け入れられるのである。宝塚ならでは演出に感銘を受けた(これらを長年続けられているのは世界でも宝塚だけなのだという)。どの業界も「新規性と連続性の調和」は困難な課題であるが、宝塚歌劇は演目を上述した2部構成にすることでこれらを難なく両立しているのである。その反面、トップスターは第1部も第2部も出ずっぱりで本当に大変だと思う。宝塚歌劇団のトップに立つためには「容姿」と「才能」だけでなく「体力」が不可欠なのである。
 終演後「宝塚歌劇の殿堂」を拝見。創設100年を記念し平成26年4月にオープン。宝塚歌劇の発展に寄与した卒業生やスタッフの功績を顕彰している。時間の重みを感じ感銘を受けた。

大劇場を出て周りを散歩する。「花のみち」は武庫川が形成した自然堤防である。大劇場入口前の駐車場から北側は「宝塚ファミリーランド」だったところである。現在の宝塚は大人の女性が集まるハイソなイメージであるが少し前までの宝塚はむしろ子供が集まる庶民的な場所というイメージが強かったのだ。これらの子供向け娯楽施設が無くなったのは阪神大震災による被災が大きいが、同時に少子化の進展とUSJなるアメリカ型遊園地の関西進出が大きかったようである。
 右手に宝塚音楽学校がある。ここを卒業して宝塚歌劇団に採用されると団員は自動的に阪急社員となる。そのため団員は阪急電車に無料で乗ることが出来る。もっとも無料なので「座席に座ってはいけない」ルールがある(小林一三の厳命による)。電車を降りた団員はその場に留まり、去りゆく阪急電車にお辞儀をすることになっている(この光景は映画「阪急電車」でも生かされていた)。
 宝塚大橋を渡って武庫川対岸を歩く。今は平凡なマンション街であるが本来はここが明治以降発展した「温泉街としての宝塚」である。大震災以降、多くの旅館が廃業してマンションになっている。老舗旅館「若水」以外はほとんど壊滅状態といえるであろう(涙)。「若水」の西脇には前述した温泉時代の石碑が設けられている。古い温泉地としての宝塚を偲ばせる貴重な遺構である。

宝塚駅から今津線に乗って西宮北口方面に向かう。映画「阪急電車」にそって御案内。
「宝塚」開設時の所在自治体名称は小浜村だったから「小浜」駅でもおかしくなかった(「宝塚」は小浜村内の小字に過ぎなかった)。阪鶴鉄道(現JR)駅が先に「宝塚」を名乗ったため阪急線の駅名もこれに合わせたのだ。駅名が小浜とされていたなら今の宝塚歌劇団の興隆は無かったであろう。映画では時江と孫の亜美が宝塚ガーデンフィールズ(2013年閉園)へ犬を見に来た帰り当駅から電車に乗る。乗客が携帯電話に夢中になっているシーンやおばちゃん軍団の傍若無人ぶりが印象的であった。エンディングにおいて時江がおばちゃん軍団を説教するシーンが爽快。
「宝塚南口」武庫川を挟んだ宝塚大劇場の対岸。橋を渡って直ぐ。昔は駅前に「宝塚ホテル」があった(現在は大劇場横に移転している)。失恋した翔子が純白のドレスを着て元彼の披露宴に出席した後、そのままの姿でこの駅から電車に乗り、時江と亜美に出会うのであった。 
「逆瀬川」現在、当駅周辺は普通の住宅街だが昔は中州地区に地元資本による「中州楽園」が展開されていた。「宝塚会館」なるダンスホールもあった。これらが宝塚ホテルと連動してリゾート機能を果たしていたのである(川島116頁以下参照)。これらは現在全く痕跡を有していない。小林一三の如き美的カリスマがいないところではエンターテイメントは成功しないことが良く判る。映画では逆瀬川駅から小林駅までの間に傷心の翔子が時江の話に心癒されるシーンが印象的。時江の「会社はやめなさい・自分のためにね」という言葉に翔子は救われる。
「小林」遠方の者は「こばやし」と呼んでしまうが「おばやし」と読む。この周辺の(宝塚を含む)荘園の名前である。映画の主要ロケ地である。この界隈は下町情緒を残す懐かしさ漂うエリア。私らも電車を降りて駅の周辺を歩いてみた。何ということは無い普通の街並みだが、その「普通さ」が良い。翔子は時江に「この駅はいい駅だから」と言われて下車。花の水やり・ホームのツバメの巣・商店街・豚まん・スーパー・駅前の掲示板。ドレスを脱ぎ捨てた翔子は新しい1歩を小林から歩み始める。後半では小林に住み始めた翔子がいじめられっ子小学生(同じ名前の)翔子と出会い共感して翔子を元気付ける。カツヤと別れたミサと翔子が出会い友達になるシーンも印象的。
「仁川」前述した競馬の街だが映画では時江が孫の亜美に諭した「自分の意思で涙を止められる女になりなさい」の一言がミサの心を打ち別れる決心をする重要な場所である。
「甲東園」映画では圭一が乗り込んできた駅。悦子が憧れていた大学(関西学院)の最寄駅(西へ1・3キロ)として描かれた。関西学院は明治22年アメリカ人宣教師ウォルター・ラッセル・ランバス氏によって原田の森(現在の阪急王子公園駅付近)に設立された。規模拡大にあたり上ヶ原に移設され現在に至る。第4代院長ベーツ氏が残した”We have no fence”の言葉通り、誰もが気軽にキャンパスに足を運ぶことができる。名建築家ウイリアム・メレル・ヴォーリスが設計した美しいメインキャンパスが有名である。拝見したかったのだが時間がないのでパス。

「西宮北口」で下車。友の家の近くに「阪急西宮ガーデンズ」があった。西宮球場跡地を阪急が再開発して2008年にオープンさせたショッピングモールである。下調べで是非とも訪れたいと思っていた処だ。私は運が良い。喜び勇んで5階のギャラリーに出向く。ダイヤモンドクロスと西宮球場のジオラマが素晴らしい。ダイヤモンドクロスは前述した直角平面交差型の線路。1926年の今津線開通から57年間も存在した西宮北口の名物であった(現在は今津線が分断され存在しない)。西宮球場は1937年に開設(2002年に閉鎖)。私の脳裏には福本豊と山田久志を擁した頃のブレーブスの姿が焼き付いている。西鉄ライオンズファンにとって黄金期の阪急ブレーブスはあまりにも強かった。両者とも今は無い。時代の変遷を強く感じてしまった。友の家で荷物を受け取って今津線に乗る。終着駅「今津」にて阪神線に乗り換えて阪神西宮駅で降りた。若干歩いて今日の宿「西宮リブマックス」へ。荷物を置いて「エビスバル」で楽しい飲み会。何故ここが「エビスバル」なのか?もちろんビールがエビスというのが1番目の理由なのだが西宮ならではのもう1つの理由があった。その理由は翌日朝に考えよう。今日は本当に楽しかった。健康睡眠。(続)

* 福岡市の向原弁護士(大阪出身)から以下の情報をいただきました。感謝。
 箕面有馬電気軌道を語る上で外せないのが(宅地開発の他)宝塚の開発です。温泉を中心としたレジャー開発と宝塚歌劇がそのシンボルです。開発の名残はファミリーランド→ガーデンフィールズ→芸術文化センター等に変化してゆきました。私が子供の頃の宝塚といえばファミリーランドでしたが、これがなくなり寂しい気持ちになったものでした(宝塚はファミリーランドの楽しそうな観覧車などの乗り物が見える印象でした)。ファミリーランド閉園にあたって、園内の動物の売却に携わらせてもらったことがあります。昨年、別府の「ラクテンチ」遊園地に初めて行ったのですが見覚えのある珍しい形の観覧車を見かけました。この「ラクテンチ」の観覧車はフラワー観覧車(二重式観覧車)といい日本国内ではここにだけあるものなのだそうです。その場で調べてみたら宝塚から移設されたものでした。どうりで見覚えがあると思いました。子供のときにこれに乗ることはできなかったのですが、宝塚に入ると出迎えてくれる派手な観覧車でしたから印象に残っており、子供を乗せて自分の幼少期の願望を些かながら満たすことができて感慨深いものがありました。

* 関西学院大学が現在の上ヶ原に移ったのも小林一三の英断によるものなんですね。津金澤聡廣「宝塚戦略:小林一三の生活文化論」(吉川弘文館)に記述があります(14頁)。

* 私にとって宝塚は黒木瞳(本名:江上紹子)さんの記憶が鮮烈。江上さんは小・中・高校の2学年上です。江上さん父と私の父は友人で、江上さん父はたまに我が家に来ておられました。高校まで剣道や詩作などをして、本格的なバレエや発声訓練などをしていなかったはずの江上さんが宝塚音楽学校に合格されたのは本人の類稀な才能の故です。宝塚に入団後、錚々たる先輩方をゴボウ抜きしトップスター大地真央さんの相手役に抜擢されたのは奇跡という他はありません。

* 宝塚歌劇団の稽古場には「ブスの25箇条」という伝説の教えがあるそうです。宝塚が「心の中からの」美人を目指していることが良く判ります。
 1笑顔がない。2御礼を言わない。3おいしいと言わない。4目が輝いていない。5精気がない。 6いつも口がへの字の形をしている。7自信がない。8希望がない。9自分がブスであることを知らない。10声が小さくいじけている。 11自分が最も正しいと信じ込んでいる。12愚痴をこぼす。13人を恨む。14責任転嫁がうまい。15 いつも周囲が悪いと思っている。16他人に嫉妬する。17他人に尽くさない。18他人を信じない。19謙虚さが無く傲慢である。20人のアドバイスや忠告を受け入れない。21何でもないことに傷つく。22悲観的に物事を考える。23問題意識を持てない。24存在自体が周囲を暗くする。 25人生において仕事において意欲がない。

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