歴史散歩 Vol.149

ちょっと寄り道(阪急1)

3月初頭に阪急電車を主眼にして大阪から神戸まで2泊3日で歴史散歩しました。阪急電車に乗るのは初めてだったので新鮮な体験でした。1日目は阪急電車の拠点梅田駅と阪急電鉄本社がある池田駅を中心に歩き廻っています。(参考文献:旅と鉄道編集部「阪急電鉄のすべて」天・夢・人、野添梨麻「阪急線歴史散歩」鷹書房、「鉄道ザ・プロジェクト23阪急梅田駅」ディアゴステイーニ、伊原薫「関西人はなぜ阪急を別格だと思うのか」交通新聞社新書、天野太郎「阪急沿線デイープなふしぎ発見」実業之日本社、小林一三「逸翁自叙伝」講談社学術文庫、「宝塚を作った男:小林一三の生涯」宝島社、老川慶喜「日本の企業家:小林一三」PHPなど)

博多駅を出発した「のぞみ」は新神戸駅を出て六甲トンネルに入る。トンネルを抜けると左手に広大な平地が広がる。新幹線に乗るときは何時もトンネルを過ぎた辺りから新大阪駅まで退屈だったが今日は真逆だ。頭の中に長方形を描く。今自分は左辺ワキから阪急空間内部に入った。左が阪急今津線・左奥の角が宝塚・上辺が山本辺り、右辺上部が池田だ。そんなことを考えるうちに列車は新大阪駅に到着した。在来線に乗り換えJR大阪駅で降車する。改札口を抜けて出発。

JR線北側は「うめきた」「阪急村」なる愛称がある。再開発で街は激変している。梅田地下街は田舎人が迷うダンジョン(迷宮)らしい。なので私は左手ぺデストアリアンデッキに上がり阪急梅田駅に向かった。新阪急ホテルの入口が判らない。社員さんに聞くと1階のバス乗り場の先だ。チェックイン時刻前なのでクロークに荷物を預けて気分よく梅田駅へ。私が阪急の改札を抜けるのは初めてだ。マルーン色の阪急電車が並ぶ。阪急創始者の小林一三は欧州のターミナル駅を理想としたため阪急梅田駅も同形式で造られた。梅田は阪急路線の要として位置づけられ主要3路線が出ている。左が神戸線・中央が宝塚線・右が京都線である。10面9線の頭端式駅舎として日本最大。各ホームから電車が次々と出ていく姿は壮観である。3路線は十三駅まで並行し十三駅先で引き裂かれるように各々の目的地に分かれていく。1日約50万人の乗降者がある。西日本の大手私鉄で最も利用者数が多い。梅田駅は1910年に阪急の前身である箕面有馬電気軌道によって開設された。このときは東海道本線の南側(現在の阪急百貨店うめだ本店の場所)にある地上駅であった。その後、十三までの高架化の際に当駅も高架駅となったが(鉄道省大阪駅の高架化計画が既に立てられていたため)高架駅は鉄骨の仮建築として造られた。大阪駅高架工事が部分完成するとともに予定通り1934年に再び地上駅化された。電車の連結両数の増加に対応するため、ホームを北側に延長して対応したが、国鉄高架線が障害となって拡張が限界に達した。そこで1966年から1973年にかけて東海道本線北側への全面移転高架化が行われ現在の広大な阪急梅田駅が出来たのだ。

宝塚行急行電車に乗る。鮮やかな緑色(ゴールデンオリーブ)の座席・銀色に輝く窓枠・明るい照明。小林一三は上質の空間を提供することにこだわった。それが関西人に阪急を「別格」と思わせる力になった(@伊原)。宝塚本線は「阪急らしさ」が最も残る古い路線だ。箕面有馬電気軌道時代の記憶を引きずっている。箕面有馬電気軌道株式会社は明治40(1907)年に設立され、明治43(1910)年3月10日に営業を開始した。古い路線なのでカーブが多かった。山間地に直線的に鉄道路線を引くには高度の技術と多額の資金を必要としたので、当初の路線は地形に沿って曲線的に路線が引かれたからだ。それが後にネックになる。カーブが多い区間で速度を上げるには限界があるからである。「十三」駅までの電車並走は重厚な風景。鉄橋を渡る。下を流れるのは新淀川。この淀川は昔のままではない。旧中津川の付け替えによる河川改修の歴史を刻んでいる。なお、十三は日本初の駅ナカコンビニ「アズナス」発祥の地として著名であった(現在はローソン)。
 今日は用事があるので宝塚線をじっくり味わうことは出来ないが「山本」には心が躍った。山本は園芸の町。宝塚市は埼玉県川口市・福岡県久留米市とともに「日本3大花卉生産地」として著名である。宝塚市の中でも園芸生産はここ山本に集中している。宗教的色彩の強い3駅「中山観音」「売布神社」「清荒神」を通り過ぎる。小説「阪急電車」の物語りの起点が宝塚市中央図書館である。清荒神駅の目前にある。著者・有川浩氏によれば「家内安全・快癒祈願・学業成就に安産祈願、なんでもござれである」。こういった特色を有しているところも阪急宝塚線の魅力である。
 「宝塚駅」で下車。駅付属の書店にて(歴史散歩の準備として)地元でしか入手できない書籍と地図を購入。1階のラーメン店「すすき野」で味噌ラーメンを食べる。普通に美味い。時間が無いので直ぐに梅田行き上り電車に乗車する。本当は山本で降りたかったけど我慢する。

「池田」で下車。池田は阪急にとって極めて重要な駅だ。当初、箕面有馬電気軌道の敷設において最も期待されていた街が池田であった。小林一三はこの地を愛し、自宅を構えて会社の本店もここに置いた。現在も阪急電鉄の本社所在地は池田市栄町1番1号である(池田駅)。
 駅を出て南側に数百メートル歩くと池田簡易裁判所がある。裁判所の隣りはカップヌードル記念館(旧安藤百福発明記念館)。裁判所の用件を済ますと私は直ぐカップヌードル記念館に入り展示物を拝見した。訪問の記念にカップヌードル型のミニカー(トミカ)を購入して嬉々。池田は企業城下町たる側面がある。日清食品の創業地であり阪急の他にダイハツも本社を置いている。
 池田駅方面に戻る。線路高架沿いに左折すると呉服(くれは)神社の巨大な鳥居がある。その先に阪急(当時は箕面有馬電気軌道)が開発した分譲地(室町)がある。呉服神社の南西側に広がっている。室町は阪急が開始した「日本で最初の私鉄分譲地」として有名である。「私鉄沿線沿いに広い住宅地を分譲しこれを住宅ローンとセットで売り出す」という画期的アイデアは現在に続く鉄道会社の伝統的営業手法となった。小林一三の元銀行マンという経歴が生かされた。
 小林の工夫はそれにとどまらない。室町では全戸に電気や水道が供給された。当時としては先進的な取り組みだった。さらに住民同士のコミュニテイを造り(従来の長屋とは異なる)快適な住環境を作り上げた。宅地分譲のプロモーションに当たっては小林自ら「如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか」なるパンフレットを作成し訴えた。

美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!出生率10人に対して死亡率11人強に当たる大阪の衛生状態に注意する諸君は忽然として都会生活の心細きを感じ給ふべし。同時に田園趣味に富める楽しき郊外生活を懐うの念や切なるべし。

小林は(経営者であると同時に)最強の広告宣伝マンなのであった。

池田駅を通り抜けて反対側の栄町商店街(一番街)に入る。10分ほど歩くとアーケードを抜け旧能勢街道スジに出る。左に芝居小屋(池田呉服座)と古い建物(旧加島銀行)が目立つ。落語ミュージアムもある。これらは池田が古くから豊かな街だったことを示している。
 道を戻り山方向に歩くと池田城址がある。池田城は標高約50メートル程の高台に位置する。五月山の南麓の東西に延びる尾根を利用し、西側に崖、北側に杉ヶ谷川を取り入れ、東と南に堀(最大幅25・7メートル深さ6・5メートル)と土塁を配置し防御効果を高めた。畿内で屈指の規模を誇った城郭。池田城は室町時代から戦国時代に掛けて旧豊島(池田・豊中・箕面の周辺)で勢力を誇った池田氏の居城である。永禄11年(1568年)池田勝正は織田信長に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。が勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城は(信長に謀反した)荒木村重の有岡城が落城した翌天正8年(1580年)信長の命により廃城となった。発掘調査から遺構が復元されている。模擬施設が作られているけれども再現度は低そうである。この建物は(学術性の無い)天守閣風の「展望台」と認識した方が良いであろう。そもそも池田城跡公園は平成11年度に完成した極めて新しい施設なのだ。
 東側への橋を渡る。下方の堀は自然のものではなく主郭の守りを固めるために人為的に形成されたものである。南北方向に150メートル以上続く。都市の中でこれだけの堀が残る戦国時代の城跡は非常に貴重である。東へ歩く。閑静な住宅街だが、ここは主郭に準じる城の中心部であった(さらに城は東側に拡大し最終的には三重の堀が開削されている)。逸翁美術館付近の道路の折れは防御力を高める工夫である。美術館では「絵画で女子会」の企画展示が行われていた。私はあまり関心がないので足早に見学を終える。4月15日からの展示「阪急昭和モダン図鑑」(6月18日まで)のほうが興味をそそる。7月からは「はっけん!小林一三と宝塚」である。今年が小林一三生誕150年にあたるので企画された展示だ。私はこれらを観たかった。ちょっと残念。

美術館を出て池田回生病院を回り込むと小林一三旧宅(雅俗山荘)がある。高級住宅地の一角に、立派な塀に囲まれた凄い門構えの邸宅である(昭和12年建築)。鉄筋コンクリート造2階建洋館。屋根をいぶし銀日本瓦にしているので洋館的な印象は薄い。建物改装中であり足場が組まれていた。建物全体像は拝見できなかったが建物内部は見学可能。和洋が溶け込んでおり感銘を受ける。最初に玄関手前の建物で小林一三の業績を表現した映像を拝見する。奥のギャラリーでは部門ごとに小林の業績が顕彰されている。自宅に入る。1階の応接室は天井が高く迫力がある。レストランは事前予約制なので入口だけ拝見した。2階に展示されている小林一三の交流関係図が凄い。
 「宝塚を作った男:小林一三の生涯」(宝島社)は小林の業績を次の5点に集約している。
1 阪急電車創設と沿線都市開発
  大阪と神戸・宝塚・京都を結ぶ「関西の私鉄鉄道網」を築き上げた。沿線に私鉄主導高級宅地を造り住宅ローンとセットで売り出すという「現在に繋がる営業手法」を生み出した。
2 宝塚歌劇団の創立
  世界に冠たる「女性だけの歌劇団」を世に産み出し、今日の興隆に導いた。
3 東京に進出・東宝株式会社を設立
  浅草拠点の松竹に対抗して東京日比谷に進出。「東宝」を立ち上げ大エンタメ企業に育てた。
4 高校野球・プロ野球への貢献
  「全国中等学校優勝野球大会」を創設(豊中)。現在の全国高等学校野球選手権大会の先駆けとなる(大正13年から甲子園球場に移る)。西宮球場を作り「阪急ブレーブス」を創設。
5 ターミナルビル(阪急百貨店)の建設
  私鉄の起点駅に百貨店を併設し集客の柱にする「新規ビジネスモデル」を創出した。
 これらを認識しながら多くの展示物を拝見する。深い感銘を受ける。とても1人の人間が一代で為せる業績とは思われない。雅俗山荘を出る。「小林一三さんもこうして池田駅まで歩いて通ったのであろうか?」と想像しながら池田駅に戻る。上り阪急電車に乗車。梅田に帰還。

新阪急ホテルのクロークから荷物を受け取りチェックインして少し部屋でくつろいだ。それからホテルを出て「阪急村」を散歩。梅田駅と阪急百貨店をつなぐ旧国鉄ガード下には庶民向けの居酒屋がたくさん並んでいる。近くに国内屈指の高級ブランド百貨店があるというのに脇には昼間から飲んだくれているオヤジの楽園がある。この極端な対比こそ大阪らしい。左に回ると阪急百貨店。日本で初めての駅付設型百貨店である。それまでの百貨店は呉服店を発祥とするものであった(典型が三越)。これに対し小林一三は鉄道需要を開拓するための駅付設型百貨店なるビジネスモデルを日本で最初に提示した。もともとは1920年(大正9年)11月1日に5階建ての阪急梅田ビル1階に白木屋を招致し営業させたのが始まりである。駅ビルを地上8階地下2階に改築して大幅に拡張し1929年(昭和4年)4月15日に鉄道会社直営=電鉄系百貨店として開業した。小林には「文化的な生活を確立するための消費」を提示し顧客を誘引するビジョンがあった。文化を提案しながら鉄道需要の喚起に結びつけているところが凄すぎる。小林を師と仰ぐ東急の五島慶太は渋谷を拠点にして同様の戦略を展開した(ちょっと寄り道「渋谷」参照)。福岡人である私は建て替えられる新博多駅のメインテナントが「阪急」と発表されたとき「なぜ阪急が?」と思ったのだった。もちろん今では納得。西鉄天神駅の「岩田屋⇒三越」(東京)に加えてJR博多駅の「井筒屋⇒阪急」(大阪)という流れに「福岡資本が中央資本に圧倒される」生々しさを感じたのは私だけではないだろう。
 JR線北側に向かう。主立ったビルの看板は(当然のことながら)阪急関連が多い。さすが阪急村!奥には梅田芸術劇場も見える。JR大阪駅から環状線に乗り天満橋で下車。
 夜は天満橋筋商店街の脇のワインバルで長年の友と飲み会だ。20年以上の付き合いである。私の好みを知っている彼は防寒対策された気楽なバルを準備してくれた。彼は昨年4月から西宮北口に住み阪急線で梅田に通勤している。今日も仕事だが土日を付き合ってくれる。2時間以上も楽しい話に花が咲いた。環状線で大阪駅に帰り新阪急ホテルで就寝。1日目はこれで終了。<続>

* 小林一三には「反官思想」があった。その生涯を通じて自由主義経済を信奉し、官に対する反発精神を持っていた。武士の影響力が相対的に弱い甲州に生まれ育ち、福沢諭吉の慶応義塾に学んだことも大きい。小林は鉄道院としばしば対立した。阪急に鉄道院・鉄道省からの天下りを一切受け入れず、梅田駅でも阪急路線が国鉄路線の上を行くことにこだわった。東京電燈の経営に当たり電力の国有化にも反対した。「役人にとってはその事業の発展は自分の所得と直接関係が無い・これに対して民間事業化にあってはその事業が発展すればそれだけ自分の利益が増える」という素朴民営化論であった。一貫しているのは政府よりも自分のほうがうまく経営できるという自信である。だからこそ「官(=政府)」との対抗意識を強めた(稲吉晃「港町巡礼」(吉田書店)204頁以下)。

* 小林一三は戦前国政に関与したので昭和21年3月に公職追放となる。この間に東宝争議が起こった。当初GHQは労働運動に寛大だった。そのために労働組合は3年後に約720万人となり、あらゆる産業でストライキが各地で頻発。映画演劇も例外ではなく東宝でも昭和21年から3次にわたる労働争議が起こる。同年結成された東宝労働組合は戦闘的で、結果として組合の経営参加などの要求が通り、作品企画にも反映されるようになる。これは映画が戦時中国民の戦意高揚に加担したという反省による。第2次争議では活発化する労働運動になじまず大河内伝次郎・長谷川一夫など大スターが脱退。その後も第3次東宝争議が続く。経営不振に陥った東宝は組合に対し1400人もの人員整理を通告。経営赤字とレッドパージの「2つの赤」を追放する目的があった。昭和23年6月、会社側が東宝砧(きぬた)撮影所閉鎖を宣言すると監督・俳優・演出家・裏方ら労働組合員が8月バリケードをはって籠城。空け渡しを要求する会社案を組合側は受け入れず。この第3次東宝争議は組合側が共産党員主要幹部20人の退社や組合の経営事項発言禁止事項などを受け入れ幕を閉じた。小林は公職追放の間も映画事業の夢を持ち続けていた。昭和26年8月、5年間の公職追放が解除されるや、解除翌日に小林は東宝相談役に就任。即断即決の彼は宝塚映画製作所を設立する。同年10月に東宝社長に就任し映画視察のためにアメリカ・イギリス・フランス・イタリアを外遊する。3年後の昭和29年に生まれた映画が黒澤明監督「七人の侍」と円谷英二特撮監督「ゴジラ」。「七人の侍」は国際映画祭で銀獅子賞を受賞。「ゴジラ」は大ヒットし東宝の人気キャラクターとなった。小林一三は昭和32年1月25日池田市の自邸で逝去。享年84歳であった。

* 福岡の向原弁護士から以下の情報を頂きました。感謝。
 阪急はブランディングが上手な会社だと思います。鉄道事業に関しては地上インフラがプリミティヴです。待避線が少ない・曲線半径が小さい・高架化率が低い・駅が古い・電車も古い。電車に使われる技術にさしたる特徴はない。1番人目につく梅田はピカピカにし・電車をピカピカにしあとは沿線のイメージを高めることで「最高級の電車」なるイメージづくりに成功しています。小林翁の戦略だと思っています。個人的には、このプリミティヴさが好きです。塚口・西宮北口・夙川・石橋の急曲線は見ものです。このような急曲線は路面電車的な匂いを残したものであり悪く言えば「電車の設備投資にカネをかけない」良く言えば「歴史の匂いを保存している」ところで、1番阪急らしさを感じるところです。京都線系統にこうしたところはありません(淡路駅や桂駅の分岐はそこまで急でなく高速鉄道そのものです)。出自が「新京阪電鉄」という超高速鉄道を目指す鉄道だったためです。神宝線とは明らかに匂いが違います(千里線だけは「北大阪電鉄」という鉄道が作った路線なので規格が低く異色)。ブランド化した「阪急」には実はそういうプリミティヴさが残っていることに着目していただけると違った角度で楽しんでいただけるかな?と思います。

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