歴史散歩 Vol.160

ちょっと寄り道(秋田1)

昨年8月に仕事で秋田に出向く用件がありました。初めて赴く街だったので新鮮な気持ちで散歩できました。二泊三日ゆえ3回でまとめます。1日目は市内中心部をじっくり回りました。
(参考文献:西村幸夫「県都物語」有斐閣、「秋田のトリセツ」昭文社、渡部景一「久保田城ものがたり」無明社、同「秋田市歴史地図」無明社、「秋田県の歴史」山川出版社、「春山君の夏休み・秋田市400年物語」秋田魁新報社、秋田市「あきた羽州街道・時を超えた散歩道」など)

福岡空港8時10分発日本航空304便は9時55分羽田空港に着陸した。約1時間のトランジットを経て羽田を11時10分に離陸した163便は12時過ぎ頃に秋田空港に接近。まず秋田空港について触れる。秋田空港は秋田駅の南東約14キロメートルの山中に存在する。この地に空港ができたのは1981年。意外と新しい。では昔の秋田空港は何処に?秋田駅から僅か約5キロメートル程西側(海岸沿い)にあった。福岡空港(博多駅から約6キロ)よりも利便性の高いところにあった訳である。しかし、この地は西が日本海で東が河川という三角州であった。海岸線近くに位置していたので特に冬は強い横風の影響を受けやすかった。おまけに滑走路南に山があり近々就航が予定された大型ジェット旅客機の離着陸が難しかった。そのため空港は現在の遠い山中に移転したのである。空から滑走路を眺めているうちに163便は12時15分秋田空港に着地した。私は日本のほとんどの都道府県に赴いているが例外は秋田と高知だった。なので秋田は是非とも訪れたい所であった。今回その願望が叶うのだ。ワクワクしながら到着ロビーに降り立った。

リムジンバスに乗り秋田市中央に向かう。当初は秋田駅西口で降りる予定であったが、バス終点が「県庁・市役所前」と判ったので終点まで乗ることにした。私の中にまず市役所へ出向きたい願望があったからだ。バスは秋田駅西口で私以外の客を下ろした。広小路を通る。右手に現れる城址に胸が高まる。竿燈大通りを通って「県庁・市役所前」で降車。直ぐ前は県庁で通りを挟んだ西側が裁判所(秋田地方裁判所・仙高等等裁判所秋田支部)。現代的な新庁舎が工事中。訴訟実務は隣りの仮庁舎で行われている。道を渡った北側に秋田市役所がある。木材が多用された立派な建物。文化財保護課(正式名称は忘却)に立ち寄り「何か街歩きの参考になるものはないでしょうか?」と伺う。普通そんなことを問う市民がいないからであろうか職員さんは戸惑われたが渡部景一「秋田市歴史地図」の中でよく使われる頁をコピーしてくださった。感謝。この本は後で購入することにしよう。
 市役所前からバスに乗って川反停留所で下車。目前にあるのが今日から2日間宿泊する「ダイワロイネットホテル」だ。チェックイン時刻前なのでフロントに荷物を預け散歩を開始。川反からバスに乗って秋田駅西口に向かう。秋田市中心部は「中央通り」(駅方向への一方通行)で駅へ向かい「広小路」(大町方向への一方通行)で駅から離れるようになる「反時計廻りの形で」車が流れるように都市計画されている。それゆえバスは突き当たった空き地(旧県庁跡)で大きく右に曲がり、直ぐに北都銀行本店(旧市役所跡)前で左折して中央通りに入っていく。「買い物広場」をスキップし秋田駅西口でバスを下車。駅前ビル6階にジュンク堂書店がある。秋田に関する若干の書籍を購入した。近くのスタバで30分ほど読み込み気持ちを新たに広小路に向かって歩き出す。

5分ほど歩くと右手に広大な千秋公園(久保田城址)が広がる。久保田城は慶長7年(1602)に水戸から出羽国への国替えとなった佐竹氏20万5800石の居城であり、複数の廓を備えた平山城であった。築城は慶長8年5月に開始され翌年8月に初代藩主佐竹義宣が入城する。これにともない旧居城であった湊城(土崎)は破却された。湊城から居を移した後も久保田城の普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃とされる。久保田城の最大の特徴は石垣がなく堀と土塁を巡らした城であることだ。天守閣を造らなかったことも目立つ。これは(大幅な石高減少を伴う)国替えによる財政事情や江戸時代初期に課された幕府への軍役奉仕(手伝い普請)の負担によるものとされる。佐竹氏独自の事情として「徳川幕府への遠慮」も原因と言われている。もともと佐竹氏は水戸54万石の大大名であった。その佐竹氏が、関ケ原の2年後に、突然に出羽国への国替えを命じられたのは「石田三成との密接な関係が発覚したことによるもの」と推測されている。秀吉の死後に生じた石田グループと加藤福島グループの対立の中で、佐竹は伏見から大阪に駆け付け石田の宇喜多邸への避難を手助けしたとされる。家康は慎重にこの事実関係を見極め、佐竹を危険分子として関東北部の要衝から排除したのだ(水戸に徳川家を配置するため佐竹を追い出すという目的もあっただろう)。佐竹氏の行動を後世の視線で「愚か」と評価する向きもある。しかしながら関が原合戦当時、結果はどう転ぶか判らなかったのだ。西軍が勝っていたら佐竹の行動は後世「見事」と評価されていたかもしれない。ここ秋田で日本史の大きな流れを感じることになろうとは思わなかった。
 中土橋通りを経由し城に向かう。東堀の蓮の花が見事。そのためか昨年オープンした秋田芸術劇場には「ミルハス」なる愛称が付けられている。これは蓮を「見る」ことのほかにフランス語の「ミル」(1000)が掛けられた造語である。道は大きく右に曲がる。佐竹史料館は建て替えのために取り壊されていた(休館中)。残念。本丸に上って周囲を見渡す。満足して東側の門(黒門)から出る。正面にある「県立循環器・脳脊髄センター」一帯は昭和20年まで軍隊施設(衛戍病院と師団司令部)があり、その延長線上(南側)にある駅前の一等地(現在の西武・アゴラ広場などの周辺)は歩兵第17連隊が駐屯していた。当時の様子を現代の景観から想像するのは相当に難しい。 

城南側に連なる広小路は城下町一番の目抜き通りであった。昭和30年代に秋田県庁や秋田市役所などの官公庁が山王(現在の官庁街)に移転し、跡地は別の公共施設や大型店舗になった。検察庁は現県立美術館の地にあり、裁判所は現キャッスルホテルの地にあった。これら法曹関係施設も山王に移転している。昭和40年に秋田市電が廃止された後も広小路は繁華街として健在であった。しかし昭和50年台以降、自家用車の普及や郊外型スーパー進出などにより歩行者数が激減する。全国の多くの地方都市と同様に秋田も駅前大型店や商店の閉店が続出した。1998年に秋田赤十字病院が移転して跡地は2012年「エリアなかいち」となっている。西武百貨店は健在だが地場の老舗百貨店「木内」は既に閉店している。時代の流れを感じながら旭川にかかる二丁目橋を渡る。
 二丁目橋は秋田市街の核のような地点。城下町としての秋田は大きく内町(武家地)と外町(町人地)で区別されていた。両者を分けるのが旭川であった。内町と外町の道路は意図的に食い違う形で設置され直線的に接続されなかった。この構造は現代でも変更されていない。そのために現代の車社会になっても行き交う車は右折左折を繰り返す。二丁目橋の手前(東)は元の県庁所在地である。かつての県庁は武家地から町人地を見下ろす感じで立っていたことになる。これは明治時代以降、城の政治的機能が無くなり「町人地(商業地)こそが街の中心となったこと」を意識した公共庁舎の在り方だったのであろう。現在、旧県庁舎所在地は駐車場になっており、空虚な感じを受ける。外町の旭川沿いの一角(左手)に水汲み場の遺構がある。旭川が防衛ラインや物流インフラとしての機能のみならず生活用水の要としての機能を有していたことを物語る遺構である。旭川は久保田城建設の際に付け替えにより形成された。旭川付け替えにより①城の防御が強化され②水運が形成され③掘り起こした土砂で低湿地を埋め立て④武家地と町人地のゾーニングができたのである。

二丁目橋の次の路地は川反の飲食店街だ。夕食はここでいただくことにしよう。前の道は「竿灯大通り」と呼ばれる。秋田の夏の風物詩の舞台だ。公式ウェブサイトに次の説明がある。

竿燈まつりは、真夏の病魔や邪気を払う、ねぶり流し行事として宝暦年間にはその原型となるものが出来ていたという。現在残っているもっとも古い文献は、寛政元年(1789)津村淙庵の紀行文「雪の降る道」で、陰暦の7月6日に行われたねぶりながしが紹介されている。このときにはすでに秋田独自の風俗として伝えられており、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった竿燈の原型が記されている。元々、藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、笹竹や合歓木に願い事を書いた短冊を飾り町を練り歩き、最後に川に流すものであった。それが、宝暦年間の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて独自の行事に発展したものと言われている。

今は時季が過ぎているが、十文字に構えた長い竿に灯火を多く付けて・太鼓を打ちながら・多くの人が町を練り歩き・灯火が二丁三丁にも及ぶ。そんな風景を脳裏に思い浮かべながら竿燈大通りを横切る。道の反対側にある「ダイワロイネットホテル」に戻って少し休養。

再び散歩に出る。「日銀前」交差点を渡る。この周辺は江戸時代から昭和初期辺りまで秋田市街の商業的中心であった。だからこそ付近に金融機関が密集しているのだ。現在「赤れんが郷土館」と呼ばれている建物が見えてきた。旧秋田銀行本店である。この建物は明治45年(1912年)に建てられた。昭和20年にはアメリカ軍に接収され軍政部が設置されていた。昭和34年に秋田銀行大町出張所となり昭和44年まで現役の営業店舗だった。昭和56年「秋田銀行創業100周年」を記念して秋田市に寄贈され、修復工事を施されて昭和60年「秋田市立赤れんが郷土館」として開館した。平成6年に重要文化財に指定されている。れんが造り2階建ての建物はルネサンス様式。1階は白い磁器タイル・2階は赤い化粧れんがという珍しい外観。赤と白のコントラストが美しい。屋根は宮城県産の玄昌石・土台は男鹿石の切り石積みである。暖炉や階段、営業室のカウンターなどに国産の大理石がふんだんに使われている。約70か所ある窓には明治時代には貴重だった鉄製国産シャッター(防火用)が取り付けられている。敷地が軟弱な地盤だったため工期(建築時間)と工費(お金)の半分は基礎工事(耐震補強工事)に費やされたという。そのため男鹿沖地震(昭和14年)や日本海中部地震(昭和58年)にもヒビ1つ入らなかったという。満足して見学終了。

「赤れんが館通り」は江戸時代のメインストリート(羽州街道)であった。江戸時代において、現代のメインストリートである竿燈大通りは羽州街道の狭い横道に過ぎなかった(竿燈大通りは市街化の進展に伴って拡張を繰り返し現代に至っている)。羽州街道は日銀秋田支店前から「大町通り」と名を変えて北に向かい「ねぶり流し館」を過ぎたところで左に曲がり「通町」になっている。その様子は3日目朝に詳しく述べることになるだろう。川反商店街の居酒屋にて軽い夕食を取る。今日は長旅で疲れたけど楽しかった。ホテルに戻って健康睡眠。(続)

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