歴史散歩 Vol.177

ちょっと寄り道(田端)

3日目は神田駅から有楽町駅まで歩き、芥川龍之介を意識して田端を徘徊しました。
(参考文献)「山手線歴史散歩」鷹書房、舘野充彦「山手線29駅ぶらり路地裏散歩」学研、近藤富江「文豪の愛した東京山の手」JTB、木口直子「芥川龍之介家族のことば」春陽堂書店、高橋龍夫「芥川龍之介」ミネルヴァ書房、久留米市美術館「芥川龍之介と美の世界:2人の先達-夏目漱石・菅虎雄」図録、近藤富枝「田端文士村」中公文庫、新海誠「小説天気の子」角川文庫ほか)

朝5時「相鉄フレッサイン神田大手町」を抜け出し神田駅の東側を回る。ベルリン高架駅をモデルにした神田駅は高架下に駅機能を収めているので独立した駅舎がない。今はありふれている形だが昔は神田や有楽町などにしか見られない珍しいものだった。高架下を駅とするためには内部空間が必要。そのためアーチ構造ではなく多数の柱を立てて桁を渡す単純桁式構造が採用されている。
 東に歩く。「丸石ビルディング」は昭和6年に竣工したロマネスク建築。設計山下寿郎・施工竹中工務店。鉄骨鉄筋コンクリート造の地上6階地下1階。連続したアーチが美しい。入口脇にロマネスク風のライオンがいる。書籍やネット情報によれば玄関ホールはイタリア産大理石の重厚な壁面があり天井にヒマワリやショウブ等の石膏彫刻が飾られている。第二次大戦末の空襲で屋上に焼夷弾が直撃したが建物自体の被害は軽微であったため近隣被災者の避難所となった。被災者が地階で行った炊事の煙が階段室を通って玄関ホールに立ちこめ煤で汚れたためホールを白一色に塗りつぶしたという。
 山手線外側を南下して日本橋に到着。圧倒的存在感を示す三井本館と三越デパートが至近距離で並立している。南(銀座側)から見ると華やかな両ビルも北(神田側)から見ると地味に見えるのは何故か?日本橋は以前「東海道歴史散歩」の最終場面で触れた。今日は田端が主目標なので、日本橋を細かく紹介するのは割愛。日本橋手前を左折(南下)して緩やかな左カーブの道路を10分ほど歩くと「水天宮」に着く。道路脇に多くの「久留米つづじ」が植栽されている。本宮が久留米にあり、その縁で植栽されているのだが、どれだけの方々が判ってくださるのであろうか?
 帰路に付く。途中に「人形町」であることを示す標識があった。「元吉原」(浅草寺裏に移転される前の吉原・移転後の遊郭は「新吉原」とされた)の地を示す掲示板やモニュメントがある。1本内に入ると昔ながらの街並みが僅かに残っている。この地は第2次大戦末の空襲で焼け残ったのだ。
 小伝馬町に足を延ばす。「十思スクエア」は元小伝馬町牢屋敷。江戸外に設けられた「刑場」(小塚原と鈴ヶ森)と異なり「獄屋」(現代風に言えば「拘置所」)は街の真中に設けられていた。その最大のものが小伝馬町の牢屋敷であった。旧十思小学校は関東大震災の後に建設された復興小学校の1つである。RC造3階建て。角地を利用した正面玄関は曲線で構成され1階と3階にアーチ型の意匠が用いられている。日本橋小学校仮校舎や中央区出張所仮庁舎などに利用された後、平成12年に本施設が開設された。複数の福祉施設が入居している(なんと公衆浴場もある!)。体育館を取り壊した跡地に「十思スクエア別館」が校舎のデザインと符合するよう建てられている。
 歩いてホテルに戻る。朝食をいただきチェックアウト。リュックを背負って出発する。

神田駅から中央線内側を南下。日本橋川を跨ぐ橋がある。2018年3月23日、大手町プレイス北側に架設された「竜閑さくら橋」だ。大手町プレイスの再開発事業の一環として架けられた歩行者専用橋である。大手町と神田は日本橋川で分断されていた。川を渡るのに数百m離れた一般道まで迂回する必要があった。橋が開通したおかげで大手町と神田の間が往来しやすくなった。特異な名称は付近の川や橋の歴史に基づく。橋上からJRの車輛が通過する様子が良く見える。脇にある立派な鉄道橋は「外濠橋」。菊の御紋に似た模様は「動輪マーク」。プレートに「大正七年」と刻印がある。
 少し歩くと「東京駅」に着く。官設鉄道「新橋駅」と私鉄日本鉄道「上野駅」を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会で「中央停車場」の建設が可決された。施工は大林組が担当。1908年(明治41年)から工事が本格化し1914年(大正3年)12月20日に開業した。駅の正面は繁華街のある東側(八重洲側)ではなく陸軍練兵場跡地たる西側(丸の内側)とされた。「皇居の正面」と対峙させ中央駅としての権威を示すものであった。プラットホームはレンガ積高架式4面8線で新橋駅まで複々線の高架橋が設置された。駅舎は辰野金吾と葛西萬司が設計。3階建て総面積9,545㎡・長さ330 mの規模を誇る。南北にドーム状屋根を設置。中央玄関は皇室専用とされた。開業年1914年は第一次世界大戦が開戦。「青島の戦い」(主力は久留米の第18師団)を指揮した陸軍司令官:神尾光臣中将が凱旋した。式典では大隈重信首相が演説した。1929年(昭和4年)12月16日、八重洲口が開設した。1945年(昭和20年)5月25日、山の手空襲で丸の内降車口に焼夷弾が着弾し火災を引き起こした。鉄骨造の屋根は焼け落ち内装も失われた。年末から1947年(昭和22年)にかけ修復工事。3階内外壁は取り除かれ2階建てに変更。中央のドームは木造小屋組で元の形に復原し南北両ドームは丸型から台形に変更された。八重洲口に1954年(昭和29年)10月14日に鉄道会館ビルが建てられ「大丸」が開業する。1964年(昭和39年)10月1日東海道新幹線が開業し、1972年(昭和47年)7月15日には総武地下ホーム、1990年(平成2年)3月10日には京葉地下ホームが営業を開始。1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が乗り入れた。名実ともに「日本の鉄道網の中心」となった。2000年(平成12年)駅舎を創建当初の姿に復原する方針を策定。500億円とされた工事費用は東京駅の容積率を丸の内地区(三菱地所)高層ビル群へ移転(売却)することで賄った。復原工事は2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成した。長い長い時間をかけて現在の東京駅の景観が現れたのだ。
 左にレンガ造りの高架を見ながら歩き「有楽町駅」に。本駅は新橋駅(旧烏森駅)から東京駅に東海道線が延伸された1910年(明治43年)6月25日に開業した。高架下に駅機能を詰め込むスタイルで独立した駅舎が存在しない。銀座や日比谷が近くなので文化的な香りに包まれている。方々に昔のレンガ積みが残る。京浜東北線に乗り「上野駅」にて下車。1階の旧停車場へ向かう。上野はターミナル駅時代の面影を残す。行き止まり形式のホーム「寝台特急カシオペア」など上野が始発・終着となる列車が使用していた地平ホーム(13~17番線)こそ上野駅の原点。ゆえに石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみのなかにそを聴きにゆく」の歌碑はここに設けられている。

山手線に乗り「田端駅」で下車。開業明治29年。私鉄である日本鉄道本線の駅であった。かつては常磐線・東北線・高崎線も通っていた。東京有数のターミナル駅であった。現在も田端運転所や尾久車両センターがあるため「鉄道の聖地」とも呼ばれており鉄道ファンが多く訪れる場所だ。細かく言うと山手線は「品川から田端まで」の路線である(山手を通るから「山手線」なのだ)。では山手線の「下町」部分(①田端から東京②東京から品川)は何線であるか?回答を示すと①は東北本線で②は東海道線である。鉄道発達史において品川駅と田端駅が如何に重要な駅かが判る。
 南口から出札。南口は昔のままの素朴な造り(昭和3年築)。映画「天気の子」の重要シーンが田端駅南口を出て直ぐの坂道であった。南口は山手線で唯一の「無人改札」。断層崖の途中に形成されており道路に出るには若干上る。ヒロイン・陽菜の家は田端駅南口の坂を登って直ぐの場所にあるという設定だった。辺りはごく普通の住宅地である。坂を上った道路の脇に広い三角区画があった。私は木口先生の久留米講演によって「芥川旧居の敷地が三角形」なるイメージを勝手に作り上げていたので「ここが芥川の旧居だったところなのか」と勘違いした(後に補正)。そのまま北に真っすぐ歩いていくと道路上に橋(東台橋)が架かる。この道路は1933年(昭和8年)に台地を切り開いて作られた道で現在の都道458号である。橋は切り通しを作る際に設置された。橋と駅の高低差が凄い。これこそ「海食崖の途中に形成された田端駅」らしい景観である。
 階段を下って田端駅北口正面にある「田端文士村記念館」を訪れる。学芸員木口直子先生は昨年「久留米市美術館」にて講演を拝聴した。感銘を受け今回の旅で田端訪問を加えたいと思ったのだ。お声掛けさせていただき「芥川龍之介旧居址」の場所を質問した。御説明を聞くと、私が思った三角地帯は芥川旧居ではなかった。正確な場所を把握したので後で訪問する。木口先生に感謝し北区地域振興部が窓口の「芥川龍之介記念館建設基金」に若干の寄付を約束した(帰福後に実行)。

切り通し脇の階段を上り少し歩いた先の小道を左折。そこに旧居址はあった。現在は「芥川龍之介記念館建設予定地」として北区の掲示がかかっている。ここで芥川の多くの名作が作られた。
 芥川龍之介は外国人居留地に近い東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三とフクの長男として1892(明治25)年3月1日に生まれた(ちょっと寄り道「銀座京橋」参照)。敏三は外国人居留地に牛乳を提供する耕牧舎(牛乳搾取販売業)本店の支配人であった。辰年辰月辰日辰刻(午前8時頃)に誕生したので「龍之介」と名づけられた。敏三42歳フク33歳と共に厄年であったため「大厄の子」として龍之介は家の向かい側にある外国人居留地52番にあったイギリス教会宣教会の聖パウロ教会前に捨てられ松村浅次郎(敏三の勤める耕牧舎日暮里支店経営者)が「拾い親」となる「捨て子の形式」(儀礼的な習俗)がとられた(高橋龍夫「芥川龍之介」ミネルヴァ書房8頁)。生後7か月頃にフクが精神に異常をきたしたため本所区小泉町(両国)にある母の実家である芥川家に預けられた。11歳のときに母が亡くなる。翌年(明治37年)に伯父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになった(その前提として敏三が龍之介に対し推定家督相続人廃除の訴訟を裁判所に請求する必要があった・当時の民法では長男を他家の養子とすることは原則として認められていなかったからだ・敏三にとって長男の廃嫡は本意ではなかった)。芥川家は代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家。家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。これが芥川の基礎的教養を形作る。東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け明治43年9月第一高等学校第一部乙類英文科に入学した(ちなみに当時の一高は弥生にあった・駒場の農学部と交換されるのは後年)。
 芥川家がこの地「田端」に居を構えたのは大正3年(宝塚少女歌劇創始・日独戦争勃発)。4月20日から8月11日まで師と仰ぐ漱石が名作「こころ」を朝日新聞で110回連載している。芥川は自ら命を絶つまでの13年間、この家を「終の棲家」とした。ただ彼はずっと田端にいた訳ではない。大正5年(漱石が亡くなった年)横須賀海軍機関学校教官となり鎌倉に下宿し(「横須賀2」)一高時代の恩師:菅虎雄の世話になっている(芥川は虎雄の次男忠雄の家庭教師をした)。その縁により大正6年に初の著作「羅生門」を刊行した際には題字を虎雄が揮毫している。扉に「夏目先生の霊前に献ず」とある(芥川は漱石の葬儀にて受付を担当した)。機関学校時代は土曜日に田端に帰り月曜朝に鎌倉に戻っていた。大正7年2月に塚本文と結婚。大阪毎日新聞社と社友契約を締結し「職業作家」となった(漱石の朝日新聞社友契約に倣う)。大正8年3月機関学校を退職。9年に長男比呂志・11年に次男多加志・14年に三男也寸志という優秀な3人の子供に恵まれた。短い芥川の人生で最も充実した時代である。田端2階の書斎を「我鬼窟」と名づけ虎雄に揮毫してもらった扁額を掲げた。
 芥川は「芸術的活動は意識的でなければならぬ」と宣言し、ありとあらゆる小説創作の方法を駆使した。舞台は神の国(天上)から河童の国(地底)まで、時代は古代・中世・近世・現代(大正)まで、文体も描写体・説明体・独白体・書簡体・談話体・問答体・記録体など、およそ考えられ得る現代小説の方法を次々と繰り出していった(臼井)。谷崎潤一郎との論争(雑誌『改造』昭和2年)においては「筋の無い小説もありうる」との論陣を張った(ジェイムズ・ジョイスなどの現代文学的な問題意識)。それは芥川の「肥大化する自己意識」のなせる技(業)であった。肥大する自己意識の地獄は既に師匠漱石が明瞭に描き出していたものであったが、芥川はこの意味でも彼の良き弟子だった。他方で芥川は少年時代を過ごした本所両国の文化を浴びて育ち、旧来の江戸的教養を濃厚に残していた。後に「江戸文人的趣味をこよなく愛していた」と彼は語っている。彼は田端という「山の手」に(西洋文化を誰よりも先進的に取り入れた)自己の思索を展開できる理想的環境を見出した(彼は漱石同様に最先端の西洋文学作品を原語少なくとも英語で読破している)。芥川には屈折した部分があり「自分を育んだ下町の文化を愛おしく思う」と共に「下町を憎み距離を置きたい」という気分も濃厚に存在した。こうした芥川の「引き裂かれる自己意識」が歯車となって彼の生命自体を引き裂き自死に向かわせた面もあるだろう。こういった「肥大化する自己意識」「引き裂かれる自己意識」に加え芥川を追い詰める要因として「義兄(西川豊・姉ひさの夫:弁護士)の自死」がある。1926年末、大正から昭和に元号が変わり、1927年は昭和2年となった。金融恐慌がおこり多くの企業が倒産した。この年1月4日西川の家の2階から火が出て書生部屋が焼けた。巨額の火災保険に入っていた豊に放火の嫌疑がかけられた。既に偽証教唆により弁護士資格を停められていた豊は(大正天皇の大喪の恩赦で復権があり得たが)放火の嫌疑で叶わないと悲嘆し昭和2年1月6日鉄道自殺する(後に判明した失火の原因は漏電であった)。遺書には「身の潔白をたてるため死を選ぶ」とあった。芥川はその事件処理のために忙殺させられた。しかも、妻と子3名だけでなく、養父母・叔母・西川の姉・その子など合計12名を扶養せざるを得なくなった。豊が残した借金の返済まで芥川の肩にかかってきた。生活費をねん出するためか、芥川はこの年「河童」「歯車」「文芸的な、あまりに文芸的な」「或阿呆の一生」など驚嘆すべき執筆量をこなしている(全集3冊分!14~16)。このような芥川を取り巻く外的状況が芥川の精神と身体を蝕んでいったであろうことは想像に難くない。
 昭和2年7月24日早朝、薬物摂取により自死。
 文はこう記している。長年連れ添った夫人にしか書けない言葉だ(木口より引用)。

主人が亡くなりました時、私はとうとうその時が来たのだと自分に言い聞かせました。私は主人の安らぎさえある顔(私には本当にそう思えました)をみて『お父さん、よかったですね』という言葉が出てきました。私の言葉を聞かれた方は冷たい女だと思われたでしょうが、私は、主人の生きてゆく苦しみが、こんな形でしか解決できないところまで来ていたのかもしれない、と思ったからです。死に近い日々は、責め苦の連続のようでした。今はどんなにか、その苦痛が去り、安らかな思いであろうか、と思いました。

芥川の葬儀は自死の3日後に谷中の斎場で行われた。会葬者は700人を超えたという。遺骨は巣鴨の「慈眼寺」に葬られた(もともと慈眼寺は本所猿江にあり芥川家の菩提寺であった・明治43年に水害で谷中の妙伝寺と合併し巣鴨に移転していた)。毎年7月24日「河童忌」が行われる。菊池寛(文芸春秋創始者)は昭和10年に新進作家の登竜門として「芥川賞」を設けた。この賞は多くの新人作家が文壇にデビューする格好の舞台となった。龍之介亡き後も、芥川家の人々は約17年間ここに住んでいた。しかし戦争の進行に伴い、昭和19年6月、一家は文の実家(藤沢市)に疎開している。この期間中、田端の家は鉄道官舎に賃貸された。昭和20年4月13日、次男多加志はビルマで戦死。希しくも同じ日に田端の家はアメリカ空軍B29の大編隊による空襲により跡形もなく焼失した。

橋を渡って北の方に足を延ばす。今回の旅の目玉の1つ。カフェ「ノースライト」(北区田端6-4-18)。田端駅北口より徒歩7分。民家の2階にあるハンドドリップコーヒーとホームメイドのお菓子を楽しめるカフェ。眺めの良い自宅の一部を開放して営まれているカフェである。窓からの眺めが最高だ。左に向かうのが山手線・中央が京浜東北線・高架が東北新幹線。右脇は新幹線車両センター(旧田端操車場)。左側が海食崖で右側が古代の海である。映画「天気の子」では大雨により水につかった東京下町が描き出されていた。下町と山の手の残酷な対比だった。浸水の境界線をなすのが(京浜東北線などが敷設された)「古代の海食崖」なのであった。「ノースライト」はもう少し長居をしたかったのだが、眺めの良い席を独占するのは気が引けるので早々にカフェを出た。
 少し北に歩くと加島瀧蔵の住居跡がある。瀧蔵は、近代鉄道建設において躍進した鹿島岩蔵(鹿島建設創業者)の長男である(鹿島岩蔵については「軽井沢1」を参照)。加島瀧蔵は田端に集う芸術家や文学者たちの良きパトロンであった。「社会の上層部は密接に繋がっているものなのだ」私は「軽井沢1」でこう記したのだが、この田端における繋がりを見ても本当にそう実感する。
 少し戻り西に坂を降りていくと大龍寺。ここに正岡子規の墓がある。北区のウェブサイトによると大龍寺の創建は明らかではない。慶長年間(1596-1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781-1789)になって湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興し「大龍寺」と称したとされる。正岡子規は「静かな寺に葬って欲しい」と日頃から弟子に話していたので武蔵野台地の端にあり林に囲まれて静かなこの寺が選ばれたそうだ。墓には自撰の碑文があり、松山藩士の子であること・陸羯南の日本新聞から貰っていた月給が三十円であったことまで書かれている。「竹ノ里人」の号にちなみ墓の後ろには竹が植えられている。正岡子規は「短歌俳句の革新」を生涯の課題とした。「誰もが実感できる共通感覚」(構造性)を詠むことを旨とした伝統的和歌を「自分独自の感性」(実存性)を表現することを旨とする近代短歌への変換を促すものであった。京都人の感覚から言えば「西洋に範を求めた近代詩の一種」である。正岡子規はまさにそれを狙ったものと言える。

山手線に乗り東京駅で下車。丸の内オアゾの「丸善」に出向き若干の書籍を購入する。「銀座京橋」で述べたとおり丸善創業者は福澤諭吉門人:早矢仕有的(はやしゆうてき)である。夏目漱石や芥川龍之介は丸善の大のお得意様であった。早矢仕が愛好していた(ハッシュドビーフのような)食べ物はいつの頃からか「ハヤシライス」と名付けられていた。今回の旅は特に芥川を意識したものであったので創業者に敬意を表し「ハヤシライス」を選択。中央線山手線の電車を眺めながらの昼食は気分が良い。豊かな気持ちで丸善を後にした。東京駅丸の内口から山手線に乗る。
 浜松町でモノレールに乗り替え羽田に向かう。今回の旅は両国・神田・田端を巡る旅であった。「修習後30周年同期会」を契機とする旅であったが、これ迄あまり意識してこなかった両国・『虎に翼』所縁の地を回れた神田・芥川龍之介を強く感じながら回った田端は各々強い印象を私に残してくれた。「こんな旅をこれからも続けたい。」そう思いながら私は東京を後にした。(終)

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