ちょっと寄り道(横浜1)
秋の良き季節に「横浜・横須賀」をめぐる旅を企画しました。両市とも複数回訪れたことがありますが歴史の観点を固めた散歩は初めてです。各2回でまとめました。
(参考文献)八木牧夫他「ちゃんと歩ける東海道五十三次」山と渓谷社、吉村昭「生麦事件」「桜田門外ノ変」新潮文庫、NHK「ブラタモリ8」角川書店、南学「横浜・交流と発展のまちガイド」岩波ジュニア新書、岡田直他「地図で楽しむ横浜の近代」風媒社、都道府県研究会「地図で楽しむすごい神奈川」洋泉社、老川慶喜「日本鉄道史・幕末明治編」中公新書、旅と鉄道編集部「京急電鉄のすべて」山と渓谷社、清野博「横浜・鎌倉、半日さんぽ」昭文社など。
午前9時福岡発の全日空244便は富士山を左目に観ながら伊豆半島を通り過ぎる。2日後に廻る三浦半島の形状を私は意識して見つめた。上空から眺めると三浦半島は特徴的な形状をしている。右側の房総半島が北東から南西に曲がっているのに対して、左側の三浦半島は西北から東南に曲がっている。小さいのに三浦半島の形状は特殊であり存在感がある。上空から眺めながら私は親指を意識した。他の指4本全部と比較すれば小さいにもかかわらず、別方向を向いていることによって親指は人類の歴史を変えた。同じ意義を近現代の三浦半島は有しているのだ。両側から握りしめられるように東京湾は守られている。そんなことを色々と考えているうちに244便は房総半島から左に旋回し、東京湾を横切って羽田空港に着陸した。京急電鉄に乗る。京急が羽田空港に直接乗入れることが出来るようになったのは意外と遅く、1998年のことだ。モノレールしか無かった都心との連絡線が複数化されたことにより羽田空港が受けた恩恵は多大である。京急蒲田駅は羽田線の開通にあたって大改修を受け、重層構造の接続駅となった。蒲田駅近くは民家が密集しているため拡幅用地が確保できなかったのだろう。北に向かっていた列車は進行方向を変え南の横浜方面に向けて走り出した。
川崎・鶴見を経て生麦駅で降りる。ここは幕末の日本を揺るがせた「生麦事件」の発生地だ。文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)、薩摩藩・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人数名を供回りの薩摩藩士たちが殺傷した事件である(1名が死亡・2名が重傷)。この事件現場を私は自分の目で見分したかった。現場は生麦駅前の道を左折し旧東海道を江戸寄りに戻ったところ。ガイドブックでは駅から近いように書かれている。が実際に歩いてみるとかなり遠い。公的な案内板がないので判りにくい。私は周囲を右往左往したあげく古老の男性の親切な御教示でやっと判ったくらいである。いったい横浜市の文化財保護課はなにをしているのか?遠方から来る歴史マニアに対して判り易い表示をしたらどうか?(なおリチャードソンの絶命地を示す生麦事件の碑は移転され今はキリンビール工場脇の高速道路下)。尊王攘夷の高まりの中で生麦事件の処理は大きな政治問題となった(青年イギリス人外交官がこの事件をどう見たかについてアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新(上)」岩波文庫58頁以下を参照されたし)。本件は偶発的事件であるが当時の薩摩は簡単に賠償交渉が進むような相手ではなかった。交渉の失敗から文久3(1863)年7月に薩摩イギリス間で「薩英戦争」が勃発する(元治元(1864)年8月には四カ国連合艦隊による「下関戦争」も勃発)。両戦争において横浜は「兵站基地」としての意味を持った。
生麦事件の伝承に関しては浅海武夫氏のご努力が特筆されるべきである。浅見氏はこの地で酒店を営む市井の民であった。氏は日本史に残る大事件なのに公的資料館が無いことを嘆かれ膨大なエネルギーを費やして事件資料を収集された。そして1994年から自宅内に私設「生麦事件参考館」を開設された。館内にはオランダ国立大学から取り寄せたリチャードソンの遺体写真まであった。作家吉村昭氏は小説「生麦事件」を書く際に浅海氏に取材したほどだという。「参考館」は生麦駅近くの住宅街(京急が開発した最初期の分譲地)にあったが、残念ながら、浅見氏の老齢化に伴い昨年5月に閉館されている(ネット上の情報による)。事件現場に設置された説明板も浅見氏の手によるものである。郷土史家のはしくれとして浅海氏の行動力に深淵なる敬意を表する。
再び京急に乗り「神奈川新町」駅で降りる。すぐ南側を横切っているのが旧東海道。まず神奈川通東公園を見学する。最初のオランダ領事館が置かれた長延寺跡である。当時の長延寺前には土塁があり「神奈川宿の入口」という位置づけをされていた。開国後、最初期の各国の領事館は神奈川宿の各寺院に置かれた(江戸幕府の指示:長延寺(オランダ)慶運寺(フランス)本覚寺(アメリカ)など)。寺が高度な政治的意味を有しているのは日本史上で普通のことであり珍しいことでは無いが中には「修理中である」と称し幕府の命令を断った処(良泉寺)もあるそうだ(端的に幕府の権威低下を示す)。神奈川宿は長大である。なにせ東海道という当時のメインストリートにおける江戸直前の主要宿なのである。しかも湊をも備えた複合的な宿場であった。神奈川湊と神奈川宿は江戸の入口にある「物流の拠点」だったのだ。横浜市歴史博物館学芸員の小林紀子さんは神奈川の意義を次のように整理している(ブラタモリ№8の26頁)。①陸上交通(東海道)の拠点:宿場、②海上交通(江戸湾の要所)の拠点:湊、③景勝地(北斎「神奈川沖浪裏」と広重「東海道五三次神奈川宿」で著名)、④漁港としての性格(大都市江戸の食糧を供給)、⑤幕府支配の拠点(西への備え)。この「神奈川」(湊と宿場)こそが開港後の「横浜」を機能させる基盤となった。そうであるからこそ旧相模国の県名が「神奈川」と命名されたのだ(しかし後の横浜の驚異的発展によって「横浜」と「神奈川」の関係は複雑にねじ曲がってゆく)。神奈川小学校の塀に巨大なタイル画がある。東海道分間延絵図の神奈川宿部分を再現しているものである。屏風のように折れ曲がって展開している。その先には金蔵院(右)熊野神社(左)がある。両者は神仏混淆時代は一緒であったが廃仏毀釈で分離されたものである。東神奈川公園を過ぎる。左手に高札場が復元されている。
私は神奈川宿を甘く見ていた。相当歩いても目標の坂に届かない。滝乃川にかかる橋を渡る。江戸末期には河口左側に台場が築かれたところである。狭義の神奈川宿はこの川の東だけを言い川より西は青木町と言った。2個リュックを背負っているので疲れてきた。どうしようかと思い始めたその時にやっと右手に坂道が現れた。しかし「東海道」を示す標識はない。横浜市はもう少し歴史散歩愛好者に優しい案内板を造ったらどうだろうか?怒りながら「宮前商店街」を示す坂道を登った。右手に洲崎神社が現れる。この鳥居の正面にあたるところが江戸時代の神奈川湊であった。ひと昔前までは神社のすぐ目前まで海が迫っていたのである。世界的に有名な葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」はこの海上が舞台だ。洲崎神社の裏に幸ケ谷公園(権現山公園)がある。下方横には複数の鉄道線路が通っている。権現山はひと繋がりの山だったが、鉄道敷設のために切り崩された(土は低地の埋め立てに使われた)。日本の鉄道敷設の歴史において良く見受けられることである。右に京急神奈川駅がある。陸橋(青木橋)を渡る。更に険しい坂道が右手に現れた。私は「これこそ広重の絵の風景ではないか」と誤解して苦労しながら登ったのだが全くの勘違いだった(後で調べたら東海道は左手の低い道だ)。この急な坂道は本覚寺参道であった。高台に位置する絶好の場所。アメリカ初代総領事ハリスは神奈川宿を見渡せるこの地を気に入りこの寺にアメリカ領事館を置いたのだ。ちなみに生麦事件で負傷したイギリス人は、この寺まで運ばれて、医師ヘボンの治療を受けたのだという。
東海道と思い込んでいる私は本覚寺から先に進む。高島台に入った。高島嘉右衛門の別邸があったところである。高島は天保3(1832)年、江戸京橋の材木商遠州屋嘉兵衛の長男として出生した。安政2(1855)年に安政地震を予言した高島は材木取引で多大な利益をあげた。彼は開港に湧く横浜に赴き材木店を出店する。繁盛したが小判の密売事件に関わり投獄され6年間を獄中で暮らした。出獄後に高島嘉右衛門と改名、横浜に定住して材木商兼建設請負業として再出発する。材木・生糸の取引をはじめとして彼の事業は多岐に及ぶ。高島学校を設立し教育事業に尽力する一方、洋式ホテル「高島屋」も開業(百貨店の高島屋とは関係がない)。洋式劇場(港座)まで経営した。さらに横浜瓦斯局を設立し主要軸線「馬車道と本町通り」に日本初のガス灯を点した。
高島の事業で最も特筆すべきなのが鉄道建設である。神奈川宿から開港地横浜への海面(湾の入口部分)をショートカットする長さ1400メートルほどの築堤を造成し鉄道線路を敷設する工事を請け負いわずか135日で完成させた。その功績を称え埋め立てられた土地は「高島町」の名が付けられた。明治10(1877)年、実業家としての自分の役割は終わったと思ったのか四十代半ばにして実業界を退く。身を引いた嘉右衛門は「呑象」の号をもって易学に専念。明治19年には「高島易断」を著す。今も信奉者が多い。道を間違ったおかげで、私はそれまで全く知らなかった高島嘉右衛門のことを知ることが出来たのだ。たぶん私は運が良い。
とは言え、それは後付けの正当化である。散歩時点の私は迷っていた。私の頭の中には明治時代の地図しかない。方向性から考えて南西に降りていけば現在の横浜駅に着くはずだ。そう考えて、急な階段を降りてゆく。本来の東海道に出た。目前に神奈川関門の跡を示す碑がある。開港後、外国人が多数殺傷されたため、治安の責任を負う幕府が安政6(1859)年に横浜周辺の主要地点に置いた関門の1つである。その付近から更に下への階段を見つけた。ほんの少し歩いただけで突如ビル街を抜けて横浜駅近くに出た。なんという利便性であろうか。現在の高島台は高級住宅地と認知されているが、歩いてみればその理由は一目瞭然である。
現在の横浜駅は1928年、埋立地の中に造られた3代目だ。最初の横浜駅(現桜木町駅)は居留地に面した利便性の良い場所にあったが東海道線の輸送力強化のためには不適当であった。そのために「横浜駅」は2度変遷したのである。現在の横浜駅は6種類もの路線(JR・東急・横浜高速鉄道・京急・相模鉄道・横浜市交通局)が入線している日本有数の巨大駅だ。乗降客も極めて多い。
横浜駅から根岸線に乗り桜木町駅で下車する。私がこの駅に降りるのは初めてである。日本の鉄道の歴史は明治5年に始まる「横浜・新橋」線である。この文脈でいう「横浜駅」は現在の桜木町駅であり「新橋駅」は汐留にある旧停車場である(復元されている)。桜木町駅構内には「日本で最初の停車場であったこと」が視覚的に数多く展示されている。明治5年の設置以来、桜木町駅は長らく終着駅だった(旧国鉄時代に根岸線として関内石川町方面に路線が延伸されるのは昭和39年のこと)。東急東横線だって横浜駅から先が「みなとみらい線」に改修されるまでは桜木町が終点であったのだ(2004年1月30日 東急東横線のうち横浜駅桜木町駅間の運行が終了した・現在撤去作業が行われているようだ)。これらに桜木町なる特殊な駅の歴史が表象されていると言えよう。
1日目の宿は「ホテルメッツ桜木町」である。メッツは「JR桜木町駅」に直結した利便性の高いホテルだ。驚いたのは、このホテル1階にも明治時代の鉄道資料が多く展示されていることである。さすがは「JR東日本が直営するホテル」という感じがする。長い距離を歩いているのでまず風呂に入って体の疲れを癒す。ほっこり。気分を変えて歩き始める。
横浜の最初のお題は掃部山と野毛山だ。初代の横浜駅は掃部山麓の海岸線ぎりぎりのところを削って開設された。ゆえに掃部山は桜木町駅のすぐ裏という感じだ。横浜市立本町小学校内にはガス灯が立っている。この地が「日本におけるガス事業の発祥地」だからである。前述した高島嘉右衛門が設立したものである。こんなところで高島さんに再会できるとは縁がある。紅葉坂を上る。けっこうな急坂だ。現在の県立青少年センターに神奈川奉行所が置かれた。ここは開港場と外国人居留地を一望できる絶好の場所だ。県立青少年センターを右折すると直ぐ前に掃部山がある。
掃部山は蒸気機関車に不可欠な水を供給したので鉄道山とも呼ばれていた。山中に掘られた井戸から「横浜駅」に水が送られていた。正式名である「掃部」とは井伊直弼のことである。開港時における幕府側の中心人物(大老)だった。その巨大な銅像がある。井伊直弼は世界情勢や他国との軍事力の差を冷静に認識し開国に努力した開明的な人物であった。安政5(1858)年、日米修好通商条約締結の立役者とも言える。しかし難儀な政治的役回りを背負ったために「攘夷派」から憎まれ、万延元(1860)年3月に「桜田門外の変」で生命を落とす。彼が安政6(1859)年に行ったという「安政の大獄」なる用語は後に暗殺正当化のため付与されたレッテル貼りである。彼は水戸を中心とする攘夷論者から憎まれ死後も屈辱を受けた。名誉回復のために明治42(1909)年、横浜開港50年目に設置されたのがこの銅像だ。建立準備に井伊家の子孫が奔走を始めて約30年が経っていた。当初は上野公園なども候補に挙がったが政府の許可が得られなかった。開港50年の節目が決め手となり、井伊家子孫が所有権を取得した鉄道山への設置が決定する。銅像は井伊大老が海を見ている姿で設置された。台高約7メートル・像高約4メートルの堂々たるものである。大正3(1914)年、井伊家は銅像と土地を市に寄付し「掃部山公園」として公開。戦中の金属回収により銅像は撤去されるが、昭和29年に再建された。政治家の難儀に思いをはせ頭を垂れる。
県立青少年センター前に戻る。右折して伊勢山皇大神宮の先を左折し奥の方に歩いて行くと野毛山がある。市民から動物園の地として認知されている。初期横浜において貴重な水を供給してきた配水池がある。横浜は海を埋め立てて拡張してきた街であるため飲み水に恵まれなかった。井戸水は塩分を含み飲料水に適しなかった。それゆえ神奈川県知事は英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマー氏を顧問に迎え、西洋式水道の建設に着手。明治18(1885)年に相模川と道志川の合流地点の三井(相模原市緑区三井)を水源として上水道建設が開始される。取水口が高ければ途中が低くても導水できるサイフォンの原理により水は野毛山に送られた。こうして明治20年10月日本初の「西洋式近代水道」としての給水が開始された(神奈川県営)。明治22年市制施行により横浜市が誕生し、明治23年水道条例が制定されて運営が横浜市に移管されている。野毛山公園の一番奥のところに水道施設の遺構がある。その奥に展望台が設置されているので登ってみた。素晴らしい景色だ。特に江戸時代に干拓された「吉田新田」が目の前に広がる様が印象深いものであった。遠く根岸の競馬場跡まで見渡せることに感銘を受ける。
坂道を下る。古書「苅部書店」があったので立ち寄った。吉村昭「生麦事件」新潮文庫2冊が格安で売られていたので即購入。私は運が良い。野毛の商店街を歩く。多くの飲食店が連なる繁華街。意外と和風のお店が多い。野毛は庶民的盛り場。戦後はヤミ市も多かった。それだけ人が集まる場所だったのだ。駅近くの洋風居酒屋でビールを飲みながら軽い夕食をとる。ホテルに帰るには未だ早いので大岡川の脇を「みなとみらい」方面に歩く。ランドマークタワーなど巨大なビル群が広がっている。目の前に日本丸の美しい姿が見られた。明日の散歩も楽しみだ。良い気分でホテルメッツ桜木町に帰る。私の横浜歴史散歩1日目はこれで終了した(続)。
* 新橋(汐留)と横浜(桜木町)を結ぶ最初の鉄道に関する費用はイギリスの銀行オリエンタル・バンクからの借り入れで賄われましたが、その際の日本政府側全権が大隈重信。大隈は横浜と高輪で「海の上を通す築堤を造る」という前代未聞のアイデアで日本最初の鉄道敷設に成功した(大隈重信没後100年・鉄道開業150年記念特別展「陸蒸気を海に通せ」佐賀城本丸歴史館)。