ちょっと寄り道(太宰府)
太宰府は全国的知名度を誇る福岡県一番の観光地です。先日、2日かけて大宰府を散歩してみました。1日目は古代都市(大宰府)の側面に焦点を当て、2日目は菅原道真信仰(太宰府)に焦点を当てています。和歌や俳句を散りばめて文学的な香りも付けてみました。(参考文献・杉原敏之「遠の朝廷・大宰府」新泉社、守弘子「太宰府紀行」海鳥社、高倉洋彰「大宰府と観世音寺」海鳥ブックス、「特別史跡・水城跡」九州歴史料館、西高辻信宏他「大学的福岡太宰府ガイド」昭和堂、高野澄「太宰府天満宮の謎」祥伝社黄金文庫、太宰府天満宮文化研究所「天神様と25人」、小宮洋「漱石の新婚旅行」海鳥社、「西都大宰府への道」筑紫野市歴史博物館など)
西鉄大牟田線「都府楼前」駅で降りる。県道112号線(旧国道3号線)を西北に向かって歩く。10分ほど歩くと緑に覆われた水城の遠景が見え、やがて水城東門に着く。水城は版築工法で築かれた古代の防衛施設である。「二日市地峡帯」といわれる、福岡平野が最も狭くなったところに築かれており大宰府政庁を博多沿岸方面から守っていた。全長約1・2キロメートル。堤体は二重構造をなし幅約80メートルの基底部上に高さ約7から9メートルの土塁本体を構築している。1300年以上前に構築された、交通を阻害する土木施設が現代も大事に保存されているのは奇跡と言って良い(国の特別史跡に指定)。水城の博多湾側には水を貯める濠があった。外敵からの防御力を高める仕組である。従来その構造が明らかでなかったが、近年の発掘調査で木樋の存在が確認されている。水城の東西の端には門があった。JR「水城」駅近くにあるのが西門である。東西の門から各々博多湾方面に向けて直線的に2本の官道が伸びていた。現在、東門では発掘調査址が視覚的に保存されている。古代官道は信じられないくらい広く直線的に形成されていた。その様は現代の高速道路をイメージさせる(近江俊秀「古代道路の謎・奈良時代の巨大国家プロジェクト」祥伝社新書「海路第12号・九州の古代官道」海鳥社を参照・2011年10月15日「上津土塁と筑紫大地震」末尾の注にも言及)。東門は大宰府と博多湾沿岸部との結界を形成していた。結界を象徴する小さい祠があり、「賽の神」が祀られている(賽の神は古来の神・地域と地域の境界に置かれることが多い)。大伴旅人は水城東門における女性(児島)との別れを次のように詠んでいる(万葉集)。
児島「凡ならば かもかもせむを 怖(かしこ)みと 振りたき袖を 忍びてあるかも」 旅人「ますらおと 思へる我や 水くきの 水城の上に なみだ拭はむ」
東門から南に向かって歩く。左に曲がり山手に10分ほど歩くと筑前国分寺跡がある。奈良時代に文明の受電盤として全国に配置された国分寺の1つである(2016年11月4日「本郷歴史散歩」参照)。当時の国分寺は国家施設であり民衆への仏教普及とは関係が無い(民衆への仏教普及が一般化したのは鎌倉時代以降である)。現在の国分寺は古代国分寺遺跡の一角に後年創られたものであり、古代の国分寺とは別物だ。少し歩くと大宰府市文化ふれあい館。この館の中庭に、かつて国分寺に存在した七重塔のレプリカが設置されている。一見の価値がある。展示を拝見し無料の配布資料をいただく。ふれあい館を出て「歴史の散歩道」と称される道を歩く。
東に15分ほど歩くと広大な大宰府政庁跡に着く。当時「遠の朝廷」と言われた日本最大の地方官衙である。柿本人麿はこう詠んだ。
大君の 遠の朝廷とあり通う 島門を見れば 神代思ほゆ
大宰府は日本最初の風水都市である(平城京・平安京より古い)。北の四王寺山を背にして南に向けて展開されていた。「天子は南面す」という中国思想にもとづく。鬼門である東北に宝満山がある(京都の比叡山に相当する)。南に御笠川があり、この御笠川と交差する形で政庁正面南に朱雀大路が形成されていた。この朱雀大路延長線の脇に南館(菅原道真の蟄居処・榎社・2日目に触れる)や客館(外国使節供応所・西鉄二日市駅前)があった。
古代山城と水城の意義は、以前、高良山神籠石や上津土塁を論じる中で紹介したことがある(「白村江と古代山城」「上津土塁と筑紫大地震」)。663(天智2)年、白村江の敗戦後、天智政権は唐新羅による侵攻を怖れて国土を要塞化する。防人(さきもり)や狼煙(のろし)を配備し、唐新羅連合軍進軍予想ルートである西日本各地に防衛網を構築し中央集権体制確立に向け邁進した。奈良時代に完成する律令国家は重税と軍事力強化に貫かれた日本史上初の中央集権国家だった。日本の政治家はこの過程で「対外的危機をたてに国内的権力を確立する」味を覚えたのであろう。
大宰府は大野城・基い城・博多湾側の水城に守られる要塞都市であった。筑紫野市の前畑遺跡第13次発掘調査によれば、宝満川から基い城に至る線上に土塁があったことが確認されている。この線は大野城・水城・小水城・基い城・とうれぎ土塁・関屋土塁・前畑遺跡・阿志岐城・宝満山・大野城という広大な「大宰府羅城の外郭線」と考えられている。この構造は百済の首都「扶余」と酷似しているらしい。この大宰府政庁の特徴は以下のとおりである(板楠和子「別冊太陽・古代九州」133頁)。①高級事務官の定員が多く特別技能職も多く抱えた。②北九州に配備される防人を統括する「防人司」が置かれていた。③「番客」「饗応」「帰化」などの外交に関する職務を司っていた。④他地域では都に送られる税が西海道では大宰府に集められ自身の運営費にあてられた。この国家機関としての大宰府政庁は天平14(742)年頃に廃止された(「藤原広嗣の乱」によるもの)。大宰府政庁は衰退に向かい、天慶4(941)年の「藤原純友の乱」により政庁は焼失した。以後、大宰府政庁が昔の栄光を取り戻すことは無かった。現在、政庁跡は「都府楼址」と呼ばれている。政庁建物の多数の礎石が印象的。夏目漱石は明治30年に鏡子との新婚旅行として訪れこう詠んだ。
鴫立つや礎(いしづえ)残る事(こと)五十
昭和38(1963)年、四王寺山山麓に大規模な宅地造成計画が持ち上がった。史跡保存にとり危機的な事態であった。大宰府町と福岡県は史跡の指定拡張を国の文化財保護委員会に申請した。指定範囲を約120ヘクタールとする大規模なものだった。史跡の意義を理解しない不動産業者や近隣住民の反対を尻目に保存運動が展開された。その結果、昭和45(1970)年、文化庁は大宰府史跡の指定範囲拡張を告示した。政庁跡の復元整備も行われた。貴重な古代遺産が現在も残されているのは、このとき戦ってくれた先人のおかげである。感謝。
政庁跡の東に隣接するのは学校院址。古代国家の役人養成をしていた役所とされる。この地も前述の指定範囲拡張の際に保護対象となったものである。その東は戒壇院。「日本三大戒壇」の1つ(他は奈良東大寺と下野薬師寺)。観世音寺に設置された付属施設であったが、江戸時代の復興の際に観世音寺から独立し臨済宗妙心寺派の寺院となっている。内陣には現在も石戒壇が設けられている。
隣の観世音寺へ向かう。天智天皇が朝倉で死去した母・斉明天皇の菩提を弔うために創立した国家寺院である。かつては方3町(270メートル四方)の寺域を持ち、講堂・金堂・五重塔を中心に七堂伽藍が立ち並ぶ西日本随一の大寺院だった。発願から80年余を経て天平18(746)年に完成したという。菅原道真は梵鐘の音を詩に詠い、紫式部も源氏物語の中で取り上げる程の存在感を有していた。空海は唐から帰国して3年、観世音寺に住んだとされる。漱石はこう詠んだ。
古りけりな 道風の額 秋の風
観世音寺には日本最古の鐘のひとつが存在する。京都妙心寺の鐘と兄弟鐘とされている。大晦日のNHK「ゆく年くる年」では数年毎にこの古鐘の音が紹介される。宝蔵には巨大な仏像が所狭しと並んでいる(不空羂索観音像は高さ5m17㎝を誇る)。大宰府が奈良・京都に匹敵する古代日本の文化的中心であったことを実感する。律令体制が衰退し観世音寺は国家の庇護を失い自力で寺を運営するしか生き残りの道がなくなった。観世音寺は富の源泉である荘園の獲得競争に参加し、太宰府に勃興した安楽寺との勢力争いを強いられた。領地争いでは安楽寺との武力衝突まで起きた。
東に歩くと御笠川にかかる五条橋を超える。古代都市大宰府は中世に寂れたので江戸時代以降は五条付近が街の中心となる。交差点を右に曲がり西鉄五条駅から帰路につく。1日目終了。
2日目は西鉄二日市駅から。北に10分ほど歩いたところに榎社がある。人間としての菅原道真を実感できる場所だ。古代都市大宰府における南館であり、道真はこの地で蟄居を強いられた。道真は延喜3(903)年2月25日に南館で失意の内に死去(享年59歳)。人間としての道真は孤独の内に死んだのである。京から下向し満2年目の春であった。キリスト教が世界宗教になるにあたりパウロの存在が不可欠だったように榎社で死んだ道真が「神」として祀られ太宰府天満宮が現在の興隆を誇るためには次の3人の存在が不可欠だった(「天神様と二十五人」)。
味酒(うまさけ)安行は菅原道真に仕えた従者である。道真の棺を載せた牛車が四堂という場所で動かなくなった。味酒は「ここを墓に、との管公の思し召しであろう」と考えこの地に墓を設けた。現在、太宰府天満宮として栄えている場所は最初から「神社」だったわけではない。それは「墓所」として創られ、延喜10(905)年に「安楽寺」として自己の基礎を形成したのである(神道は「死」を忌み嫌うので「墓」が神社になることは通常はない)。
多治比文子は天慶5(942)年に京都で「我を北野に祀れ」という天神の声を聞いたとされる巫女(シャーマン)である。当時、京には災いが続いていた。特に御所清涼殿への落雷が重大事件であった。託宣を受けて京都北野に天満宮が開設された(異説もある)。道真は神「天満大自在天神」となったのである。自然神的傾向の強い日本で異例の人間神が出現した。管公は祟り神であり・荒ぶる神であった。管公は(現在の庶民にイメージされているような)優しい神ではなかった。それは恐怖の対象であり雷と雨の神であった。そのことが稲作のため雨を不可欠とする農民の信仰を得る契機になった(当時の農民にとって学問は遠いものだった)。後世、天満宮が日本中に広まったのは農民信仰の故である。庶民は落雷を「管公が怒っている」として恐れた。「天神様からヘソを取られるぞ」と怖がらせる大人がいた。雷の被害を免れる為のおまじない「くわばら・くわばら」は常套句となった(道真が自分の故郷である「桑原」にだけは落雷をしなかったという信仰に基づく)。管公への恐れの感情を良く表現しているのが童謡「とおりゃんせ」である(天神様の細道は「怖い」)。
天神信仰の広範化とともに、太宰府の新興勢力寺院「安楽寺天満宮」は観世音寺に対抗する勢力を持つに至る。安楽寺は天神信仰を背景に九州内に広い荘園を獲得した。代表例が水田(筑後市)である。安楽寺の主力荘園水田に勧請されたのが水田天満宮。江戸末期に真木和泉が蟄居し倒幕派の聖地となった。同様に都落ちした三条実美他五卿が蟄居させられたのが安楽寺の延寿王院(現・西高辻宮司邸)である。神道による国民教導を進める明治維新政府により神仏分離は強引に実行された。神仏習合色の強かった安楽寺天満宮も打撃を受けた。安楽寺は宝満山と共に仏教色を払拭し「太宰府神社」と改称した。太宰府神社は保有していた広大な荘園を失い困窮した。この困窮していた「太宰府神社」を現在の興隆に導いたのが西高辻信貞(第三八代宮司)である。昭和21年11月23日、西高辻は「太宰府神社」を「太宰府天満宮」に改称することを決めて神社本庁に申請する。昭和22年2月7日、申請は受理された。正式に「太宰府天満宮」と称することが出来るようになったのである(「太宰府天満宮」は昔からある呼称だと思われているが戦後になり正式に付けられた呼称である)。西高辻は「現代における天神信仰は如何にあるべきか」を真剣に模索した。そのため1年間ハーバード大学に留学する。彼はアメリカで庶民生活にキリスト信仰が溶け込んでいる様を見聞して感動し天神信仰に生かす道を模索した。試みられたのが管公の「学問の神様」という面を強調することだった。高度成長期、進学熱が高まる中、管公は「受験の神様」として庶民の広範な支持を呼ぶ。西高辻のアイデアにより菅原道真は<呪う神から祝う神へ>転身した。このことが現在の太宰府天満宮の興隆を導いたのである。戦後、困窮していた天満宮付近を復興させたのは太宰府観光協会設立や太宰府梅ヶ枝餅協同組合設立・西日本鉄道による太宰府駅改築や市による駅前広場改修など官民挙げての努力に依るところが大きいが、その根底にあったのは名宮司・西高辻信貞氏の力である。
あれこれ考えている内に西鉄太宰府駅に着いた。では太宰府天満宮を参拝しよう。西鉄太宰府駅を出て右に曲がると直ぐに参道である。長大な門前町が続く。歩いて直ぐに若干段差のような短い坂道がある。かつて此処には石段があり前後で街の性格が異なっていた。段の上は天満宮の社家が並ぶ区域であった。段の下には大野屋・松屋などの旅館が並んでいた。天満宮に参拝するときにはこれらの旅館で泊まるのが庶民の楽しみの1つであった。これらの旅館は太宰府馬車鉄道の開業(明治35年・菅公千年忌大祭)により日帰り客が増加したことで廃業に追い込まれた。ちなみに菅公1025年忌大祭が行われた昭和2年に線路を敷き変えて電化したのが現在の西鉄太宰府線である。大鳥居は筑豊の炭鉱王・伊藤傳右衛門の寄進によるものである。延寿王院は西高辻宮司の居宅であり、五卿の蟄居先である。左に曲がると池上に赤い反り橋が3つ連なっている。橋の横に末社が連なっている。江戸時代、池の両脇には巨大な仏塔(五重の塔と七重の塔)が建っていた。神仏習合の光景が広がっていたのである。この赤い反り橋を漱石はこう詠んだ。
反り橋の 小さく見ゆる 芙蓉かな
本殿に着く。小早川隆景(毛利元就三男)の寄進になるもの。隆景は秀吉の九州平定後、筑前一国を与えられ名島城に入部した。隆景は神仏への崇敬が篤く、荒廃した安楽寺の再興に取り組んだ。天正19(1591)年に5年の歳月をかけ造営された本殿は五間社流造・檜皮葺の切妻造で正面に巨大な唐破風を設けている。煌びやかな本殿は秀吉好みである桃山様式の雰囲気を現代に伝えている貴重な遺構である。石田三成が筑前代官になった慶長3(1598)年に楼門が再建されている。関ヶ原合戦後に筑前52万石に封じられた黒田長政は中門・回廊摂末社・石鳥居・石灯籠・縁起絵巻などを寄進した。武家の寄進によって安楽寺天満宮の姿が出来上がったのである。
本殿前の「飛び梅」は京都から飛んできたという伝承を持つ天満宮の象徴である。
東風(こち)ふかば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
回廊の外(東)側に相輪橙がある。五重の塔の上に乗っている様な形の青銅製の橙だ。これが現在の太宰府天満宮内に残る神仏習合時代の唯一の遺構である。本殿の裏に管公歴史館がある。第1場「梅の花の歌」から第16場「安楽寺」まで、恨み・祟り・復讐というイメージは排除されている。京に霊が飛んで怨霊となり藤原氏にリベンジする、昔の印象は無い。これこそが「菅公を呪う神から祝う神へ転身させる」西高辻信貞氏の構想力である。歴史館の展示は、西高辻宮司が、留学先アメリカで見分した教会に置かれているキリストの受難図にヒントを得て設けられたものと私は想像する。歴史館には神仏習合時代の安楽時天満宮を再現した絵もある。興味がある方はご覧あれ。
参道東に「だざいふえん遊園地」があり西に「太宰府幼稚園」がある。道真の死を象徴する天満宮が「生の明るさ」に満ちている。門前町を通り梅ヶ枝餅を1つ買って食べながら帰路につく。二日市で大牟田線に乗り換える。上りホームは「福岡(天神)」行き。「天神」という名は地区内の水鏡天満宮に由来する。福岡全域に菅原道真信仰がいかに浸透しているかを象徴する。大宰府は長い歴史を感じられる街だ。対外的危機を背景に形成された軍事都市としての側面は「外的視点の偏重によって内的支配を強化しようという現代日本」を読み解く鍵を与えてくれる。呪う神から祝う神へ転身した菅原道真のあり方は「キャッチコピーの優劣で庶民の感情を左右することが出来る日本」を読み解く鍵を与えてくれる。そんなことを考えながら私は大牟田行き特急電車に乗った。(終)
* 古川順弘「神と仏の明治維新」(洋泉社歴史新書)によれば安楽寺天満宮の御神体は道真自筆「法華経8巻」でした。道真が3年かけ書写したと伝えられていましたが宮司が「法華経が御神体なのは都合が悪い」として焼き捨ててたそうです。残っていたら国宝クラスでしょう。
* かつて安楽寺天満宮の本地仏であった十一面観音座像・毘沙門天立像・不動明王像は佐賀県基山町の大興善寺(天台宗)にて祀られています。
* 九州国立博物館新元号祈念特別企画レジュメに次の記述があります。<大伴金村の躍進の後、大伴昨(旅人の曽祖父)・狭手彦等は派遣将軍として九州北部で軍備を整え、朝鮮半島に赴きました。また内乱となった「壬申の乱」(672)では大伴吹負・安麻呂(旅人の父)は大和制圧の大功を挙げました。このような名門氏族の直系として665年に大伴旅人は誕生しました。旅人の生きた時代は律令国家が形づくられてゆく期間と重なっており、唐新羅からの新来文化が次々と流れ込む一方で古墳時代の旧来要素も残る時代でした。この新旧要素の狭間で誕生した最たるものが「大宰府」。大宰府は古墳時代に起源を持つ地方行政官「大宰」を律令制に取り込んだことで成立した日本独自の行政府でした。旅人が大宰府に住んだ728年~730年頃は古代都市大宰府の整備が完了した時期にあたり、平城京の規模を縮小した形で条房都市が整えられていました。旅人が勤めた大宰府の役所は大宰府式といわれる立体感のある鬼瓦や蓮華文をあしらった軒丸瓦・軒平瓦などが屋根に葺かれ、国家の威容を誇る佇まいでした。大宰府管轄下の諸国には筑前国に山上憶良(筑前守)、筑後国は葛井大成(筑後守)等の優れた歌詠みも赴任していました。彼らとの交流により旅人は歌人としての円熟期を迎えたと評価できます。(小嶋篤・九州国立博物館研究員2019・4・23)
* 新型コロナウイルスの蔓延による緊急事態宣言の中でのフェイスブック投稿。
菅原道真が筑前大宰府で亡くなったのは延喜3(903)年。6年後に藤原時平が亡くなり20年後に保明親王が亡くなる。保明親王の死亡原因は咳病(インフルエンザ)とされる。醍醐天皇は改元するも7年後に落雷が清涼殿を襲い道真左遷に関わった人が多数死ぬ。衝撃を受けた醍醐天皇は3か月後に亡くなる。その原因も咳病だった。当時の御所にインフルエンザウイルスが蔓延していたのは間違いない。菅原道真は雷神であるとともにインフルエンザウイルスの祟り神だったのかも。今年は天神祭も盛大にやるべきか。(2020年5月10日)