ちょっと寄り道(別府1)
別府は言わずと知れた「日本一の温泉の街」です。現在の「別府市」は大合併した後の姿なので、合併前の別府を中心に歩き廻りました。1日目は別府駅東(海岸側・浜脇を含む)の散歩です。
(参考文献:平岡昭利「地図で読む100年(九州)」古今書店、下川正晴「占領と引揚げの肖像BEPPU1945~1956」(弦書房)、松田法子「絵はがきの別府」左右社、プリーズ編集室「九州ものしり学」海鳥社、高柳友彦「温泉旅行の近現代」吉川弘文館、NHK取材班「ブラタモリNO.12」角川書店、益田啓一郎「美しき九州:大正広重・吉田初三郎の世界」海鳥社など)
新幹線を小倉駅で降車し「にちりんシーガイア」に乗り換えた。小倉駅の日豊本線は新幹線や鹿児島本線と進行方向が逆になり、西に向かって走り出す。しばらく進むと線路は南に向かい、海沿いを電車は走る。のんびり海を観ながら別府解説の本を予習しているうちに列車は間もなく別府駅に到着した。宿をとった駅西側ホテルのフロントに荷物を預けて元気に歩き始める。
 別府駅東口を出て直ぐのところに「油屋熊八」のブロンズ像がある。子どものように手を広げた姿だ。彼は別府を今日ある興隆に導いた立役者である。2007年11月1日、その偉業を称えて大分みらい信用金庫の依頼によって建てられたものである。片足で両手を挙げ、熊八がまとう温泉マーク入りマントに地獄めぐりの小鬼がしがみついている。制作者:辻畑隆子によると天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけているイメージとのこと。まずは彼を語ることから始めよう。
 油屋熊八は文久3年(1863)愛媛県宇和島市に生まれた。実家は裕福な米問屋で、家業を継ぎ妻ユキを娶る。明治21年宇和島町議に当選(若干27歳)。大阪に渡り米相場で富を築いた。政治にも経済にも明るかったが日清戦争後の相場に失敗し全財産を失う。35歳の時、別府に住む亀井タマエなる女性に妻の身を託し突然アメリカに渡る。アメリカでは各地を放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年も滞在したという。バイタリティが凄い。帰国後、再度相場師にチャレンジするも上手くいかず、明治44年、妻を頼り別府を訪れた。当時の熊八に成功に向けた具体的目途があったとは思われないが、彼には野生の勘の如きものがあった。熊八は「旅人を懇ろにせよ」という聖書の言葉(旅人を親切に「もてなす」ことを忘れるな、という聖句)を胸に刻み、自らのサービス精神を実践するために「亀の井旅館」を創業した。その後の熊八については追って触れる。
坂を下りると右手に「別府駅前高等温泉」がある。古くは薬師湯といった。病を治すのに効能があると信じられていた(今も道沿いに薬師如来が祀られる)。ハーフティンバー様式風の建物は大正13年(1924)築。外に見える木材はおそらく装飾であり、構造耐力を担っている訳ではないと感じる。昭和2年(1927)に所有者から別府市に譲渡され以後は「市営の公衆浴場」として愛されている。
 昭和6年(1931)発行の『温泉の別府案内』に次の説明がある。
薬師温泉・別府駅の東方一丁・駅前通に在る区営の浴場なり。浴舎は瀟洒たる洋風二階建にして階下は男女湯に充て各々湯及び上等湯を設く。上等湯は有料にて湯瀧・蒸湯の外に泉浴あり。階上には食堂及び露台の設けあり。泉質は炭酸性単純泉にして無色透明なり。
昭和57年(1982)約700万円かけて屋根の大修理が行われた。翌年にも約700万円が投じられ大改築がなされた。昭和59年、道路に面した広場全面をカラータイル張りとした。この建物を「別府温泉のシンボル」として大事にしたい市の意気込みが感じられる。さっそく入場。番台を中心に右が「ぬる湯」左が「あつ湯」。各々男女湯がある(計4湯)。一般人は「ぬる湯」がオススメとの評判を聞いていたので迷わず「ぬる湯」を選択。250円。扉を開けると脱衣場で、そこから下方に年季の入った湯船が見える。湯船の廻りは濃い茶色に変色している。汚れではなく温泉成分が長年にわたって蓄積したものである。「ぬる湯」といっても普通の人間にとっては適温である。が、私は若干熱めの湯が好みなので「あつ湯」にすべきだったかと一瞬反省。でもレトロな公衆浴場を味わえて満足だった。番台に戻り来所記念のタオルを購入した。2階は安価な宿泊施設になっていると聞く。心の中で2階に行きたかったのだが、番台の方に声をかける勇気が出ず、このときは見送った。
道を下り左折して「海門寺温泉」へ向かう。観光客に最も人気のある公共浴場だ。250円。湯船も広く快適に温泉を楽しめる。観光客に最も人気があるというのも納得。この温泉は昭和11年に市営温泉として開設された。明治5年(1872)に開設された「不老泉」や明治35年(1902)に開設された「竹瓦温泉」らの『横綱クラス』に比較すると歴史は浅い。この温泉は市営公園の北側に位置する。公園は戦後別府の代表的ヤミ市が置かれたところで「海門寺マーケット」と呼ばれていた。この地を市が買い上げて朝鮮からの引揚者で住居の無い人たちを抽選で選び入居させたとされる。
 当時の状況を水上勉「木綿恋い記」(文春文庫)はこう描写する(下川より孫引き104頁)
駅前や海門寺のあたりでは、韓国人と日本人のけんか・闇商人同士・進駐軍の中でも黒人とアメリカ人とのけんか、夜はパトカーがサイレンを鳴らしてくる。
殺人はなくとも傷害事件は日常茶飯事だった。
現在の温泉の建物は平成22年に建設されたもの。綺麗で集会室も併設している。昭和60年(1985)の改修時に場所を少し北側の現在地に移動している。「海門寺」なる名前は「寶生山海門寺」という寺に由来する。明治41年(1908)に記された『海門寺由来記』によると建長3年(1251)久光島に建立された「久光山海門寺」が源流だ。慶長2年(1597)鶴見岳爆裂の際に久光島が海中に没したため廃絶された。慶長5年(1600)石垣原合戦勃発のため民は疲弊した。加えて害虫発生も重なり農作物も育たず民は飢饉や疫病に苦しんだ。そこに府内(現在の大分市)から高僧・雷州禅師が訪れる。禅師が民の患難を憐み祈り続けると飢饉は落ち着き民は歓喜した。雷州禅師は現在の海門寺付近一帯を「霊域」と定め久光島海門寺の再興も兼ねて「寶生山海門寺」を建立した。建立にあたり建設費人件費などを別府・浜脇・田の口・朝見・立石・鶴見・石垣など7村が協力し合って負担した。維持のため7村に住む民が報恩感謝として年初めに米と麦を1升ずつ寄進した。海門寺は施餓鬼会と精霊流しを毎年行った。特に「精霊流し」は盛大であった。人々は精霊船を作り日が暮れると「海門寺」と書かれた提灯を手に持って海門寺公園から駅前通りを経て北浜から10号線を大分方面へ行列をつくり精霊船が(久光島が沈んだとされる)海上(楠港東南約5キロメートル)に達するまで見守った。かように地元に密着した海門寺は地域住民に愛されてきた。私も公衆浴場の湯を楽しみ、湯上り後もロビーでまったりした。良い気分で海門寺の周囲を少し散歩してみた。
海門寺を出て道を下ると左前方に「別府タワー」が現れる。「塔博士」とも呼ばれた建築家・内藤多仲の設計にかかるタワー六兄弟の1つである(他は名古屋テレビ塔・通天閣・さっぽろテレビ塔・東京タワー・博多ポートタワー)。昭和32年(1957)3月20日から開催された「別府温泉観光産業大博覧会」の目玉施設として建設が構想され、当時の別府市長(脇鉄一)らが立ち上げた「別府観光開発株式会社」が建造した。資金繰りの関係から開幕には間に合わず閉幕直前の5月10日に完成した。当初は電波塔としての利用が予定されたが、大分県下の各放送局は別府市十文字原高原に十文字原テレビ・FM放送所(1959年開局、標高469m)を建設したため電波塔の役割を果たすことは無かった。1960年代に入ると年間100万人に及ぶ観光客と修学旅行生で賑わった。が、1970年代に入ると隣接する国道10号線の拡幅工事により敷地の一部が削られたため入場者数が減少。1987年には巨大な収入源だった広告ネオンサインの契約が終了。経営危機に陥り、解体も検討されたが、翌1988年、タイホーレジャーグループが会社を買収し解体を免れた。広告は朝日ソーラーを経て、2002年から2022年までアサヒビールと契約した。同年5月10日から大規模改修を開始し、2023年1月27日にリニューアルオープンした。私は中学生時代の修学旅行で訪れている。時間の関係で今回は遠くから眺めるだけにした。付近には現代的な温泉旅館やホテルが立ち並んでいる。ちなみに現在別府タワーの建っている場所には(戦後)米兵専用のキャバレー「ナンバーワン」があったと聞く。
ゆめタウン北側に「別府港の碑」がある。昔、この辺りは遠浅の海だった。砂浜を浚渫して「大型客船が付ける港」とするには相当の力を要する(三池港周辺1参照)。この港が出来るまでは南の「浜脇温泉」の朝見川河口付近が船の泊地として機能していた。日田県知事となった松方正義が別府を視察した際「海上交通の便を図れば発展が期待される」と評価。1870年(明治3年)2月に工事が着工された。この際「港の安全と今後の発展」を祈願し、港に近い竹瓦温泉の北に「波止場神社」が勧請されている(境内に1913年(大正2年)に建てられた「別府築港の碑」が存在する)。
 1873年(明治6年)5月、大阪開商社により航路が開かれて蒸気船「益丸」が就航すると、2年後に競業他社の「満珠丸」「金刀比羅丸」「安全丸」「大西丸」「凌波丸」も就航し、大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路は競争時代を迎え別府は瀬戸内海各方面から集まる湯治舟で賑わった。1912年(明治45年)5月には、観光開発を目的とした1,000トン級のドイツ製貨客船「紅丸」が就航。瀬戸内航路が別府を「日本一の温泉都市」へ発展させた。港から西に伸びる「流川通り」は大いに賑わった。
 敗戦後、瀬戸内航路は最盛期を迎え1960年(昭和35年)には瀬戸内の女王と呼ばれた「くれない丸」(三代目)が同型船「むらさき丸」とともに瀬戸内航路に就航した。後に「すみれ丸」「こはく丸」「あいぼり丸」「こばると丸」が就航し3000トン級クルーズ客船は最大6隻となった。瀬戸内航路は多くの旅行客を別府へ運んだ。その港湾機能が(北方にある)別府国際観光港へ移転すると主役は客船からフェリーへ変わる。そのため別府港は1992年(平成4年)に埋め立てられた。工事の完了後「別府夏の宵まつり納涼花火大会」や「べっぷクリスマスHANABIファンタジア」などの各種イベントに使用された。埋立地への商業施設誘致の是非に関しては賛否両論があった。2006年(平成18年)5月是非を問う市長選挙をする事態となった(船渠を問う選挙)。再選市長の下で商業施設誘致が決定する。船渠の埋立て後も(桟橋跡など)港の面影が残っていたが、2007年(平成19年)「ゆめタウン別府」が開店したことにより「旧別府港」の名残は完全に姿を消した(涙)。
 別府市温泉課「べっぷ市営温泉巡り」パンフレットによると、長い間、近くに存在した「別府海浜砂湯」は令和5年4月1日廃止された。コロナ禍により利用者の減少に見舞われたのが引き金になったものと推察するが、海浜の砂場と砂湯こそ「別府温泉の象徴」である。復活を願っている。
油屋熊八の話に戻る。大正10年、熊八は由布院の金鱗湖畔に「賓客をもてなすための草庵」を構築した。今の「亀の井別荘」である。運営は部下の中谷巳次郎(現在の「亀の井別荘」経営者中谷氏の先祖)に託した。大正13年に別府の「亀の井旅館」を洋式ホテルに改装し「亀の井ホテル」を開業。続いてバス事業にも進出し昭和3年に「亀の井自動車」(現「亀の井バス」)を設立。日本初の「女性バスガイドによる案内つきの定期観光バス」の運行を開始した。熊八は供給側が積極的に需要を作り出すという「近代観光サービス原理」を理解し実践した(阪急の小林一三に通じる)。
 さらに熊八は別府宣伝協会を立ち上げ「別府お伽倶楽部」の活動に参加。おもてなしの哲学と奇抜なアイデアで別府の宣伝に努めた。「大正の広重」と称される吉田初三郎とタッグを組み「別府」の名前を全国へ広めた。港湾に関しても、定期航路の汽船は(当初は良港が無かったので)沖合に停泊し「はしけ」による上陸を強いられていたため熊八は大阪商船に掛け合い1916年に汽船が接岸出来る「専用桟橋」を実現させた。熊八はコピーライターとしても優れていた。「山は富士・海は瀬戸内・湯は別府」なるコピーを考案し、このコピーを刻んだ標柱を1925年に富士山の山頂付近に建てた。現代目線では明らかに「やりすぎ」である。だが熊八の別府宣伝に向ける情熱は途方もないものであった。「別府温泉の宣伝」は熊八の私財と借財でまかなわれていた。それゆえ熊八没後、亀の井自動車や亀の井ホテルの株式は借金返済のため売却された(両社の現在の株主は異なる)。
狭義の別府温泉街は明治4年(1871年)5月に流川河口に旧別府港(楠港)が完成して発展した。その中心にあるのが「竹瓦温泉」である。明治12(1879年)に創設された。当初は海岸近くに湧き出した温泉を楽しむため地元漁師が簡素な小屋を建てたものであったとされる。「竹瓦」なる名は当初の建物が「竹屋根葺きであったこと」に因む。温泉の効能が評判になると港の近くという利便性もあって湯治客が大勢訪れるようになり明治35年(1902年)に最初の改築。大正2年(1913年)には2階建ての建物に建て替えられた。そして昭和13(1938)年に現在の立派な建物が完成している。「別府温泉のシンボル」たる風格がある。ここには「砂蒸し」温泉もある。この場所はかつて海岸沿いの地であった。砂蒸し温泉が盛んだった当地の記憶を偲ばせる貴重な遺構である(「別府海浜砂湯」が廃止されたので貴重さが増した)。竹瓦温泉の直ぐ北に「波止場神社」がある。前述のとおり築港の安全を願って建立されたものである。大正元年に「別府築港の碑」が設けられている。この直ぐ近くで西鉄ライオンズの黄金時代を担った鉄腕:稲尾和久は生まれている(その記念碑も存在する)。周辺には怪しげな店舗がいっぱい存在する。なので小中学生を連れて行くのはちょっと憚られる。少し駅寄りにはソルバセオ銀座や弥生銀天街なる古いアーケード街がある。レトロというよりも時代から完全に取り残されてしまった街である。でも、だからこそ面白いのだ。
「流川通り」を渡る。昔は文字通り「流川」という川があった。この川を基準として明治40年代に碁盤目状に作られたのが近代別府の市街地である。ただし流川は正確に東西方向に流れていた訳ではない。斜めの部分は暗渠となっていて、現在も街の中に川の痕跡が見受けられる。流川通りの延長線上に「ラクテンチ」なる遊園地が設けられた(ここは明治大正時代の金鉱の採掘跡らしい@ブラタモリ)。アヒルレースで人気を博した。中学の修学旅行のとき私もやった記憶がある。
 南へ歩く。古いアーケード街(楠銀天街)を通って「松原公園」へ向かう。明治39年に旧別府町と浜脇町が合併。別府市の初代市長(日名子太郎)は周辺道路を整備し18年かけて碁盤目状の区画に整理した(当時としては画期的)。付近は人口が増えて賑わった。「九州の浅草」と言われた松原公園界隈の遊興街はこの都市計画で生まれたものである。周辺に幾つもの映画館・ビリヤード場・見世物小屋・サーカスのテントが生まれた。浅草と同様、付近には私娼街もあった。歩くと往時を忍ばせる住吉神社があった。立派な造りである。当時の住吉神社氏子の財力を物語る。松原公園の一角にはコンクリートで作られた舞台があり、賑わっていた往時の街の様子が描かれている。
 浅見川に架かる橋を渡り「浜脇」へ向かう。この周辺には遊郭街があったとの情報を得ていたが、再開発により近隣の風景は変わってしまっている。市営「浜脇温泉」に赴くも営業時間外であった。残念。明治初頭、浜脇は別府より人気があったと聞く。松原公園一帯の賑わいはその帰結と言える。周辺は扇状地の端であり浅見川が別府湾に注ぎ込む。古くから良港があったのだ。
 少し坂を上って「東別府駅」へ。レトロな駅舎が素晴らしい(平成15年市有形文化財指定)。「別府史談」第26号によるとこの駅は明治44年11月1日に鉄道院豊州線「浜脇停車場」として開設された。浜脇温泉街は昼は旗行列・夜は提灯行列で夜を徹して祝った。事後「別府」の知名度上昇により「東」別府駅とされたのが悲しいけども(変更:昭和9年4月1日)見事な木造レトロ駅舎が残されているのが駅舎ファンの私にとって喜ばしい。改札口のラッチは木製・右から書かれた「版告廣時臨」・電灯のホヤ・天井から直接釣り下がったランプの傘・カバーのある止め金具(袋ナット)・配電線の碍子などが見事な駅舎の前には明治45年6月建立の「停車場建設記念碑」が誇らしげに存在を主張している(揮毫:長谷場純隆・元衆議院議長・文部大臣)。素晴らし過ぎる。
 浜脇が栄えた頃「市街地の北限」は別府港と流川通りを結ぶ辺りであった。その後、市街地は「北へ・北へ」と移った。この流れは現在も続いている。昭和26年に大型船舶の接岸可能な国際観光港の建設が別府港北約3㎞地点で開始。1957年(昭和32年)最初の2000トン級バースが完成。1985年(昭和60年)国際観光港に5万トン級バースが完成し大型客船の接岸が可能になった。観光だけではない。物流の担い手が自動車に代わると物流拠点も北部となった。大学(別府大学・APU)も北方に設置され未来を担う若者の多くは北部に集まっている。石垣原の区画整理はこの流れを加速した。南部の寂れと北部の繁栄。その図式的現実を意識しながら東別府駅のホームで列車を待つ。
日豊本線普通列車に乗車する。微高地上を走る。列車は数分で「別府駅」に到着。
 ホテルに帰るにはまだ早いので別府駅の近くの市営「不老泉」にて3度目の入浴をする。250円。単純温泉。ここは歴史が古い。明治5年(1872)に開設された。別府最古の温泉のひとつである。直ぐ近くに熊八が創業した「亀の井ホテル」がある。「流川通り」に面して建てられている。別府の発展史の象徴といえる。近くの居酒屋で軽い夕食をとる。ホテルに戻って健康睡眠。

