歴史散歩 Vol.40

歴史コラム(韻を踏むこと)

 日本語は個々の発音が明確なので、定型詩は「5・7・5(7・7)」などの字数によるリズムで言葉としての美しさが感じられています。かかる言語は少数派で、多くの言語における美しさは「韻」(rhyme)で感じられていました。2つの語の最後の強勢の母音以降の響きが同じであることに言葉としての美しさが感じられていたのです。意味は違うのに響きが同じであるということ。それは言葉としての大切な何かが繰り返されている特別の感情を人に呼び起こすのです。
 羽生名人は毎日新聞夕刊「想創」(09年8月11日)でこう述べます。「私が将棋を長年指してきて学んだことは人は似たようなミスを繰り返すということ。その時は後悔したり反省したりするのですが、しばらくすると忘れてしまうのです。こう書いている自分も同様のことが多くあって自己嫌悪に陥ります。(略)”歴史は繰り返す”はよく使われる表現ですが、私はそれよりも”歴史は繰り返さない、ただ韻を踏むのみ”というマーク・トウェインの言葉が好きです。失敗しても、そこからわずかでも学ぶことが出来て、その次に韻を踏むことが出来たら素敵ではありませんか。」
 そ歴史は単純には繰り返しません。状況は刻々と変化します。個々の背景事情が変わる以上、人間の行いが単純な繰り返しになる訳がありません。個々の具体的な行為の「意味」はその時々で全く違うはずです。が、歴史の中を生きる人間はいつも過去の誰かに仮託して自己をイメージしていることが多いのです。客観的な意味は全く違うはずのに、同じ「響き」にしたいという願望にかられるのです。私は歴史を単純に「繰り返すもの」と思いこんでいる人には歴史の女神は微笑んでくれないような気がしています。歴史は暗記するものではありません。重要なのは自分なりに歴史の意味を解釈すること。歴史から一般的な法則のようなものを見いだし、それを手がかりにして現在の混沌とした世の中を進んでゆく道標にすることではないかと私は思います。尊敬に値する先人(故人)の響きを見いだし、自分の人生において韻を踏むことが出来たら何と素敵なことではありませんか。

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