東京の石橋正二郎2
石橋正二郎は「自分の趣味は建築・庭園・美術だ」と人に語っていました。今回は前2者(建築と庭園)を見ていくことにしましょう。
東京に拠点を移した正二郎は麻布永坂町に私宅を構えます。正二郎は昭和8年に洋館の建つ土地を購入していましたが昭和11年には旧邸を取り壊し新築しています。設計したのは松田建築事務所で、主に担当したのは平田重雄です(デパートの消滅、石橋迎賓館を参照)。正二郎は大変な建築好きで自分で自宅・別荘・工場などの図面を引き基礎的な設計をするのを無上の喜びとしていました。自宅には製図用の机もありました。前回紹介した東京工場基本設計スケッチが「石橋正二郎資料館」に残されています。かような正二郎が一貫して松田建築事務所に設計を依頼していたのですから、松田兄弟や平田との相性がよほど良かったのだろうと思われます。正二郎は彼らの良きパトロンであったに違いありません。しかしながら自分でも図面を書くくらいに建築好きだった正二郎は彼らにとって怖い施主でもあっただろうと私は想像しています。新建物は、セントラルヒーティングを持つ(当時としては)信じられないモダンな機能とデザインを誇っていました。私生活を徹底して洋風にした正二郎は私宅から和風要素を排除します。3階には眺望室が、屋上にはテラスがありました。玄関階段部分にはアールデコ風の意匠が見られます。庭にはプールもありました。以下にあげるのは正二郎所有時の写真です(石橋財団ブリヂストン美術館編「コレクター石橋正二郎」72頁より引用)。
この建物は運良く戦災を免れましたが、戦後GHQに接収されます。接収解除後にアメリカ政府に買収されて、現在はアメリカ公使邸となっています。
正二郎の造園センスは卓越したもので久留米石橋文化センター庭園(野中町)や水明荘(御井町・非公開)庭園に発揮されています。東京における正二郎の庭園趣味が開花したのが「鳩林荘」(府中市)です。非公開ですが正二郎自身も著書「私の歩み」で内部を写真公開していますので私も写真を交えながら御案内することとします。
まず鳩林荘の場所の意義を理解いただくために武蔵野におけるハケの説明をします。ハケとは多摩川の河岸段丘縁端に所在する段差数メートル程度の小さい崖です。武蔵野台地には2種類の河岸段丘があります。ひとつは北部に見られるもので多摩川の流路の名残りと考えられているものです。もうひとつは南側に見られるもので、低い段丘は立川面、一段高い段丘は武蔵野面と呼ばれます。
段丘の縁端は段差数メートル程度の崖になっており、武蔵野の方言でこれをハケと呼びます(学術的には崖線と呼ばれます)。ハケの斜面地の多くは雑木林で覆われ下部には湧水がみられます。有名なのが国分寺市の「お鷹の道・真姿の池湧水群」です。これは国分寺崖線下の湧水であり野川(多摩川の支流)の源流のひとつです。これら湧水の存在がこの地域に武蔵国国府や国分寺が設けられた理由の1つと考えられます。野川沿いのハケ(国分寺崖線)には著名人の別荘やその跡を利用した公園が見受けられますが(殿ヶ谷戸庭園等)ここから一段下がった府中崖線に存在するのが鳩林荘です。鳩林荘は東京競馬場の至近にあります。ここはもと2000坪ほどの茶庭として明治時代に子爵・岡部長職(おかべながもと)により開かれ、これを加藤辰弥(西園寺公望秘書官)が買い受けたものです。加藤氏所有時から鳩林荘(きゅうりんそう)と呼ばれています(正二郎が鳩山氏と縁戚関係を築いたことから「鳩」を付けた訳ではありません)。正二郎は昭和25年に加藤氏から庭園を引き継ぐと隣接地も買い入れ園域を約6000坪に拡張しました。2つの池を造成し、建物を移築・樹木を移植するするなどして、大がかりに手を加えて現在の姿にしています。これは、元の庭が茶室用で格式が強すぎるものであったため正二郎好みの<自由と明るさ>を取り入れることを目的としたものでした。鳩林荘庭園はハケの段差と湧水を利用して造園されています。 提灯に迎えられて中に入ると、かやぶき屋根の家屋の先に2段に別れた広大な庭園が広がります。入ったところは上の段なので下方にも段があると言うほうが正確です。上の段に三角形をモチーフにしたスパニッシュの洋館(昭和28年築)があります。 西洋風の明るい生活スタイルを好んだ正二郎の造園意思が明瞭に現れています。久留米の水明荘庭園とよく似たコンセプトと言えるでしょう。
庭園の中央部にケヤキの巨木があります。樹齢約500年とされます。ネット情報によると幹周4・4メートル・樹高約25メートル。ケヤキの右(北)側が上の段・左(南)側が下の段です。
上の段から下の段にむかう水の流れが作られています。正二郎は静中に動を生じさせる水の流れを庭園中央に設けるのが好きだった模様です。時期的に文化センター庭園造成の方が後なので正二郎は鳩林荘庭園の経験をふまえ久留米の文化センター庭園造成を行ったと見るのが正しいようです。下の段に3棟の茅葺き建物があり、現在はゲスト用飲食場として利用されています。
下の段に鎌倉街道が残されています。古き良き武蔵野の面影を感じることが出来る貴重な場所です。正二郎は週末をこの場所で静かに過ごすのが好きでした。