歴史散歩 Vol.68

夏目漱石と久留米3

「吾輩は猫である」に多々良三平という奇人が出てきます(五と十一)。多々良君は久留米に縁がありますが、あまり社会的に認知されていません。原武哲「喪章を着けた千円札の漱石」(笠間書院)に沿って三平君の会話を読んでみます。五の登場の場面(原武127頁・岩波文庫187頁)。

「奥さん。よか天気で御座ります。」と久留米弁訛りで挨拶し先生の様子を尋ねた。「奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」「わたしに言っても駄目だからあなたが先生にそうおっしゃい」「そればってんが」と言いかけたとき、娘のとん子とすん子が出てきて土産の御寿司の催促をする。「寿司は持って来んが山の芋は上げたろう。お嬢さん食べなさったか?」「山の芋ってなあに?」と姉のとん子が聞く。「まだ食いなさらんか。早くお母さんに煮ておもらい。久留米の山の芋は東京のと違ってうまかあ」と三平君がお国自慢をする。(略)また山の芋を取った泥棒の話になる。「山の芋ばかりなら困りゃしませんが普段着をみんな盗っていきました」「早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬なら良かったのに惜しいことをしたなあ。奥さん犬のふとかやつを一丁飼いなさい。猫は駄目ですばい。飯を食うばかりで。ちっとは鼠でも捕りますか」「一匹も捕ったことはありません。本当に横着な図々しい猫ですよ」「いやそりゃどうもこうもならん。早々捨てなさい。わたしが貰っていって煮て食おうかしらん」「あら、多々良さんは猫を食べるの」「食いました。猫はうもう御座ります」 (略)多々良君、泥棒の件で先生にきつい言葉。「先生泥棒に遭いなさったそうですな。なんちゅう愚なことです」「這入る奴が愚なんだ」「這入る方も愚だばってんが取られた方も余り賢くはなかごたる」。吾輩に向けてもきつい一言。「しかし一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どういう了見じゃろう。鼠は捕らず、泥棒が来ても知らん顔をしておる。先生この猫を私に呉んなさらんか。こうして置いたっちゃ何の役にも立ちませんばい」「遣っても良い。何にするんだ」「煮て食べます。」

次に十一の場面(原武132頁・岩波文庫504頁)。三平君、真っ白なシャツにフロックを着て4本のビールを持ち苦沙弥先生の家に現れる。

「先生、胃病は近来良いですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」「まだ悪いとも何とも言いやしない」「いわんばってんが顔色はよかなかごたる。先生、顔色が黄色ですばい」(略)三平君は金田の令嬢を嫁に貰うことにした。「あなたが寒月さんですか。博士にゃとうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから私が貰うことにしました」「博士をですか」「いいえ金田の令嬢をです。実はお気の毒と思うたですたい。」(略)三平君は苦沙弥先生を披露宴に招待する。「おれはいやだ」「私の一生に一度の大礼ですばい。出てくんなさらんか。少し不人情のごたるな」「不人情じゃないが、おれは出ないよ」「羽織と袴くらいどうでもしますたい。ちと人中へでも出るがよかたい。先生」

こうして吾輩は三平君の持参したビールを飲み・酔っぱらってカメの中に落ちて死ぬのでした。
 以上のように「我が輩は猫である」において多々良三平は重要な役割を与えられています。この多々良三平のモデルは俣野義郎です。俣野義郎は漱石が熊本で第五高等学校の教授をしているときに書生として世話をした人物です。同様に漱石が熊本で世話した人物として土屋忠治がいます。2人を原武哲先生の「夏目漱石をめぐる人々」(毎日新聞筑後版)を底本に御紹介します。

俣野義郎は明治7(1874)年に現在の久留米市東櫛原町で生まれました。尋常中学明善校(現県立明善高校)を卒業し明治27(1894)年に熊本の第五高等学校に入学します。俣野は同郷のよしみで菅虎雄宅の離れで書生として同居させてもらっていました。ここに松山から越してきたのが漱石です。書生たちは玄関脇の小部屋に移り、離れに漱石が入室しました。明治30(1897)年8月、虎雄は病気の為に五高を退官することになり熊本を離れます。居場所を失った俣野は9月から漱石が新たに借りた大江の借家(水前寺公園裏に移築保存)に書生として押しかけます。このとき土屋忠治も入り込んできました。こうして漱石が熊本を離れるまで俣野と土屋は書生として同居することになります。俣野は大食漢で身の回りに全く無頓着な奇人でした。次のエピソードがあります。①俣野は漱石夫婦よりも早く朝食をとっていた。味噌汁の美味いところを俣野が食べてしまうため漱石が食べるときは汁だけになった。そのため後日からは女中は漱石夫婦のために味噌汁を最初に取り分けて残りを書生に出すようになった。②漱石の弁当は俣野と土屋が毎日交代で五高まで持参して行った。ある日、漱石が鏡子に「今日の弁当はまずくて食えなかった」と言うと鏡子は「あなた弁当は空になっていました」と反論した。数日後も同じ言い合い。調べてみると俣野が食べていたのだった。そのため俣野が弁当を持参するときには女中が弁当に封印をすることになった。③鏡子は1個80銭もする高級石鹸を使っていたが、奇妙なことにいつの間にか激しく減ってゆく。鏡子が女中・テルに聞くと「俣野の顔に石鹸の匂いがぷんぷんします」。またしても俣野が高級石鹸を興味本位で使っていたのであった。
 神経を病んでいた漱石と鏡子夫妻にとって俣野は家の中に笑いを生じさせる愛すべき書生でした。漱石は留学先からも俣野を案じた手紙を鏡子に送っています。「多々良三平は唐津の人なのでは?」と思った人がいたら相当の漱石ファンです。岩波文庫では「肥前の国は唐津の住人多々良三平君」とされているからです(181頁)。が初出である「ホトトギス1905年7月号」では「筑後の国は久留米の住人多々良三平君」と表記されています。この表記の変更には次の事情がありました。当時、俣野は大学を卒業して三井鉱山合名会社が運営する三池炭鉱(大牟田市)に勤務していたのですが「ホトトギス」に連載された「吾輩は猫である」が大評判となり、俣野をつかまえて「おい多々良君」と呼ぶ者が多数現れました。俣野は憤慨し、漱石に手紙を送り「取り消してくれ」と依頼しました。しかし、既に出版している書物を改稿するには大変な手間がかかるため漱石が難渋していると、俣野は「自分が三平と誤られるのは三平が久留米出身だからである・肥前唐津の出身ということにしてくれまいか」と懇願します。漱石は根負けし、以後「肥前国は唐津の住人・多々良三平君」と表記されるようになったのです(原武127頁)。俣野は三井物産を退社後に大連に渡り南満州鉄道(満鉄)で勤務します。俣野の次男仁一の名前は満鉄総裁の中村是公が、長女みどりは漱石が名付親になりました。俣野は満鉄を退社後、大連で、弁理士・石炭商・福岡日日新聞特派員など多彩に活躍しました。大連市議会議員にもなっています。俣野は久留米から衆議院議員への立候補も考えましたが、有馬頼寧が出馬したため(08/2/9「有馬記念の生みの親」参照)「有馬の殿さんが出るんなら楯突くわけにはいかん」として立候補を断念したそうです。

土屋忠治は明治9年に大分県速見郡で生まれました。五高で俣野と知り合ったことが土屋の人生を変えます。土屋は貧しかったので俣野が漱石に強引に頼み込んで書生にしてもらったのです。土屋は五高を卒業して帝国大学法学部に入学します。貧しい土屋のため漱石は妻鏡子の父中根重一(衆議院書記官長)に書生とすることを依頼しました。かような漱石の援助の下で土屋は法律を学びます。明治32年、土屋の母が亡くなったときには「学資困難ならば相談するように」と激励しました。このため土屋が「ある銀行から奨学金を受ける代わりに卒業後はその銀行に勤める」という話をすると漱石は「義務年限はどうか・過重な義務なら自分が月5・6円を送金する」と援助を申し出ました。漱石の暖かい配慮により土屋は明治38年に大学を卒業します。土屋は二十三銀行の法律顧問を嘱託され、福岡県立中学伝習館教員を嘱託されました。同年、土屋は司法官試補となり、以後は検事として佐賀・鹿児島・都城・福岡・延岡・長崎・大阪に赴任した後、最後は(久留米に近い)柳川で弁護士になりました。福岡県弁護士会史(上)によれば土屋忠治は大正13年2月7日に弁護士登録し、昭和16年9月30日に退会しています。筑後部会の大先輩・坪池隆先生(「ルーテル教会2」参照)と同僚でした。登録場所は本町16番地。現在の福岡地方裁判所柳川支部近辺のようです。漱石宅に書生をしていた土屋先生が弁護士会の先輩という事実を知ったときに私は不思議な縁を感じてしまいました。

 漱石文学における「方言」と地方都市との「縁」について考えます。漱石は朝日新聞の職業作家になった明治40年以降は作品中に方言を多用することをしていません。当時は未だ標準語の確立に苦労していた時期です。我々は漱石の後期作品を違和感なく読むことが出来ますが、それは現代に通じる日本語のスタイルを漱石が生み出したからだと考えることが出来ます。漱石は新聞で毎日読まれるものとして相応しい文章日本語を書き続けました。現代日本語の標準的スタイルは漱石が確立したのです。けれども初期の作品で漱石は「方言」を巧みに取り入れています。これは当時の漱石が「職業作家」ではなく自由に書くことが出来たからという面が大きいものと思われますが、もうひとつ標準語の確立とともに失われてゆくであろう方言の面白さを作品に残すという漱石の(100年後を見据えたような)慧眼によるものと私には感じられます。方言を駆使した漱石作品として成功したのが「坊っちゃん」。「ぞなもし」という松山弁の柔らかい感じが作品に面白みを現出させています。松山市は漱石の生み出した柔らかい雰囲気を観光面で最大限に活用し街中を走る路面電車は「坊ちゃん列車」と命名されています。かかる演出のもたらす良いイメージは松山市の最大の観光資源となっています。しかし漱石がデビュー作「吾輩は猫である」でまず活用した方言は久留米弁なのです。この作品中には英文学・漢文学・日本の古典・戦況のパロディなど様々な要素がちりばめられていますが<方言の活用>という面からも記念碑的作品と言うことが出来ます。かかる大作において漱石がまず活用した方言は久留米弁なのです。このことを久留米の人はもっと認識すべきだと私は思っています。菅虎雄がつくった漱石と久留米の御縁は俣野義郎という奇人を介することで傑作「吾輩は猫である」に表現されているのです。久留米市は菅虎雄が作った「漱石との御縁」をもっと大事にすべきではないでしょうか。

前の記事

夏目漱石と久留米2

次の記事

夏目漱石と久留米4