夏目漱石と久留米1
100年の長きにわたり日本人を魅了している文豪・夏目漱石。雑司ヶ谷霊園にある墓には、今でも多くの漱石ファンが訪れています。しかしながら、この墓碑を揮毫したのが「菅虎雄」という久留米出身の人物であることは(漱石ファンにすら)あまり知られていません。
菅虎雄(1864-1943)は漱石が生涯にわたり交友を重ねた無二の親友です。虎雄は漱石の人生における重要な局面にしばしば立ち会っています。虎雄は五高・一高・三高・一高の教授を勤め(赴任した順番で記載)虎雄と漱石は五高と一高で同僚になりました。虎雄がいなければ漱石は松山に行くこともなく熊本に来ることもありませんでした。3歳年上の虎雄を漱石は兄の如く慕い、虎雄は就職の世話・借家探し・金銭的援助・一時的同居など物心両面で漱石を援助しました。漱石は虎雄の親族に好意を寄せ、久留米出身の書生の世話をし、5回も久留米を訪れています。そこで数回にわたり(虎雄との交友を軸に)「漱石と久留米のかかわり」について書き綴ります。
本稿は原武哲・福岡女学院大学名誉教授の「夏目漱石と菅虎雄・布衣禅情を楽しむ心友」(教育出版センター)「喪章を着けた千円札の漱石・伝記と考証」(笠間書院)「夏目漱石をめぐる人々」(毎日新聞筑後版02/4/12から04/12/17)を底本としました。原稿補正と写真掲載に関しても原武先生の多大なるご援助を賜りました。記して謝意を申し上げます。
菅虎雄は元治元(1864)年10月18日に久留米市城南町(吉野家辺り・呉服町43番地)で生まれました。父親は久留米藩有馬家の御典医であり、菅原道真を先祖に持つ名門です(家紋は梅鉢)。従兄・池尻茂四郎と母兄・加藤常吉は蛤御門の変で敗れて敗走し真木和泉守とともに天王山で自刃しています(「水天宮界隈」参照)。虎雄が生まれたのはその3ヶ月後です。
虎雄は久留米師範学校附属小学校・県立久留米中学校を優秀な成績で卒業し(ただし末尾で触れる油屋事件あり)上京して東京大学医学部予科に入ります。親が医師なので、虎雄も医師になることを求められたのです。同窓に日本の精神医学の基礎を築いた呉秀三(座敷牢制度を批判)や日本住血吸虫病研究で名を上げる宮入慶之助(「宮入博士と筑後川」参照)がいます。ドイツ語の成績が極めて良かった虎雄は教師から請われて医学科からドイツ文学科に転身します(帝国大学ドイツ文学科の第1回卒業生)。漱石が英文科に入学するのはその2年後です。漱石は当初は建築科志望でしたが、米山保三郎(「吾輩は猫である」における天然居士のモデル)から「今の日本ではセントポール寺院のような後世に残る大建築をするのは不可能だが文学なら幾百年幾千年の後に伝わる大作だって出来るじゃないか」と煽てられて英文学に転身しました。2人とも中途転身組なのです。(*当時、東大では自分の写真にサインして交換するのが流行っていました。)
虎雄は明治21年、鎌倉の円覚寺に参禅します。宗教的覚醒が早かったのか、翌年、虎雄は管長の洪川宗温から若くして「無為」の居士号を授けられました。早くから俗世を達観した禅的境地が認められたのでありましょう。他方、漱石は明治26年7月大学院に進学し10月には東京高等師範学校の英語授業の嘱託を受けました。しかし漱石は教師と大学の寄宿舎生活の窮屈さから精神に異常を来します。明治27年に松島の瑞巌寺で参禅を試みましたが得られるものは無かったようです。漱石は虎雄の紹介により大学寄宿舎を出て小石川の寺(法蔵院)に引越します。法蔵院の和尚(豊田立本)は内職で身の上相談をしており漱石も1度見て貰ったそうです。和尚は「貴方は親の死に目にはあえませんね」と言います。「そうですか」と漱石が答えると、更に「貴方には西へ西へ行く相がある」と予言しました。この予言は後に現実化することになるのですが当時漱石がこの言葉をそれほど真剣に受け止めたとは思われません。その年の暮れ、虎雄は漱石に円覚寺塔頭・帰源院を紹介し、漱石は釈宗演のもとに2週間ほど参禅することになりました。この参禅の体験は後に小説「門」において描かれています。釈宗演は明治25年34歳で円覚寺管長に就任した俊英で、慶応義塾で福沢諭吉の教えを受けたので英語にも堪能でした。シカゴで開かれた万国宗教大会にも出席しています。
明治28年、漱石は虎雄の紹介で横浜の英字新聞「ジャパンメイル」への入社を志し、入社試験として禅に関する英文を提出します。しかし日本語で読んでも難しい禅に関する論文を英文で書いたものだから理解されず返却されたそうです。漱石は激怒し「いけないならいけないで場所と理由を指摘して返すのが礼儀じゃないか、黙って突き返すとはけしからん」と叫んで虎雄の前で原稿を引き裂いてしまいました。漱石は人生に行き詰まっていました。居場所を見い出せずに呻吟していました。このどん底状態の漱石を救い出したのが虎雄でした。明治28年3月、虎雄は久留米出身の浅田知定(愛媛県参事官・内務部第一第三課長)から「愛媛県尋常中学校の英語教師を捜している」と問われたとき直ぐ漱石を推薦します。漱石の松山中学(現県立松山東高等学校)への赴任はこうやって実現したのです。漱石は松山の体験をもとに後年「坊っちゃん」を誕生させます。が、松山の生活は長く続きませんでした。明治28年8月、虎雄は郷里に近い熊本で第五高等学校のドイツ語と論理学の教授を委嘱されました。直ぐに漱石から松山生活の不平を述べた書簡が来ます。松山の人に対して「小理屈を言う」「ノロマのくせに不親切」「出来ぬくせに生意気」等散々な評価です(漱石が評価したのは道後温泉だけです)。漱石は東京に戻りたいと切望しましたが、叶いませんでした。呻吟している漱石のところに又も手を差し延べたのが虎雄でした。「中川元(はじめ)校長が『熊本高等学校に英語の教師が欲しいが』というような話をされたので『そんなら』と云って夏目君の話をして明治29年春に熊本へ来るようになった」という趣旨を後日虎雄は述べています。このときも住居が定まるまで漱石は数ヶ月ほど虎雄の家に居候していたのです。漱石は後年「夢十夜」(第七話)にて船の話を書いています。この中である男と「この船は西へ行くんですか?」という不思議な問答をしたことを記しています。漱石の中には「西へ西へ」という不思議な力が感じられていたことでしょう。その力を生み出すものが虎雄によるものであることも感じ取っていたことでしょう。(後年「西へ西へ」というその力は大陸を飛び越えた遙かな西であるロンドンにまで及ぶことになるのでした。)
こうして虎雄は職探し・借家探し・金銭的な援助など物心両面で漱石に友情の手を伸ばしました。虎雄自らは明治36年5月、中国の南京へ行って教鞭をとります。南京三江師範学堂(現在の南京大学)のドイツ語と論理学の教師となったのです。この南京で虎雄は六朝の書法を体得します。きっかけとなったのは虎雄が書聖ともいうべき李瑞清と意気投合し、南京在住の3年余りの間、李瑞清から筆法骨力の神髄を学んだことにあります。虎雄はほとんど城外に遊ぶことなくひたすら李瑞清の風格ある書法を学んだのでした。虎雄は南京において書家としても大成したのです。
「書家・菅虎雄」の痕跡は久留米市内の数カ所にあります。特に有名なのが次の2つです。篠山神社の「戊申従軍記念碑」と高良大社「大鳥居石柱」(後者に関しては末尾を参照)。
東京に残る虎雄の揮毫で有名なのは久留米に縁のある水天宮の碑です。
漱石のその後の活躍は皆様ご存じのとおりです。明治40年、大学教師の職を捨てて朝日新聞の作家となり僅か10年余の間に名作を次から次へと生み出してゆきました。執筆を継続した自宅は出生地の近くにあり「漱石山房」と呼ばれています。この場所に夏目漱石記念館が建設される予定です。
夏目漱石は大正5年12月9日に亡くなります。享年50歳(数え年)。虎雄は中村是公らと葬儀の仕方を協議します。虎雄は狩野亨吉に友人代表の弔辞を依頼し自らは墓標を揮毫しました。導師をつとめたのは前述した円覚寺の釈宗演です。
今日、夏目漱石が友人に出した書簡は公刊されています(岩波書店「漱石全集」に編纂)。多くの学者がこれら書簡から漱石文学の秘密を探ろうと地道な研究を重ねています。書簡の一部は後に岩波文庫「漱石書簡集」「漱石子規往復書簡集」講談社文庫「漱石先生の手紙」等に所収されていますので一般市民も手軽に読むことが出来ます。しかしながら漱石の一番の友人である虎雄に対する書簡の多くは残されていないのです。実は虎雄は漱石から受け取った大量の書簡類の多くを鎌倉の自宅ではなく「久留米にいる親族」に預けていたのでした。虎雄は漱石から受け取った大量の書簡のうち差し障りのない40通程を岩波書店に提出し、それ以外を非公開としたのです。漱石は生前から大変な人気作家であり、その書簡を保有する虎雄に出版社や研究者から提供の催促が来ることは必至でした。虎雄は漱石との親密な関係をひけらかすような人間ではありませんでしたし、有るものを無いと言う嘘をつけない性格でした。書簡類を自宅に置いておくと提供を拒む言い訳をするのが面倒と思われたのでしょう。ところが「久留米に保管されていた貴重な漱石直筆の大量の書簡」は、ある事情によって永久に失われてしまったのです。この事情は次回述べることにします。
虎雄は教え子である芥川龍之介「羅生門」の揮毫を頼まれています。芥川は(横須賀で教師をしていた頃)虎雄の次男である忠雄の家庭教師をしていました(なんと贅沢な個人授業!)。後に谷崎潤一郎「文章読本」の揮毫もしています。
虎雄は昭和18年11月13日に亡くなりました。享年80歳。菩提寺である梅林寺に眠っています。墓は自ら揮毫したものです。広間には虎雄が揮毫した見事な書が掲げられています。
菅虎雄先生顕彰会(原武哲会長)は夏目漱石と菅虎雄の友情を記念し梅林寺外苑に両者の碑を建てることを計画しています。梅林寺を詠んだ「碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き」という漱石自筆の句が刻まれます(「山内」は<やま>と読みます)。漱石自筆の句碑が建てられるのは九州では初めてのことです。平成25年10月20日、多くの皆様の御出席の下で顕彰碑の除幕式が執り行われました。立派な碑ができて菅虎雄先生も喜んでおられることでしょう。(続く)
*補注 虎雄は9歳の頃、隣家(油屋)の子と喧嘩になったとき石を投げてしまいました。その石が不幸にも眉間に当たり、その子は死亡してしまいます(久留米市美術館「芥川龍之介と美の世界」図録8頁・原武哲執筆)。この「偶発的な事件」は虎雄の精神に長く長く暗い影を落としたものと思われます。虎雄がエリート医師になる道を捨てて禅を極めた理由の1つとも言えそうです。虎雄と漱石が共感し得たのは互いが抱える「傷」への深い理解があったように思われます。
*久留米市文化財保護課の白木さんからの情報。
大鳥居石柱には現在「高良大社」と刻まれていますが建立時は「高良神社」と刻まれていました。昭和22年に社格制度の廃止に伴い、高良神社から「高良大社」に改称されます。菅虎雄は昭和18年に亡くなっているため当時は「高良神社」の時代だったのです。現在の標柱は昭和25年に表面を4.5センチほど削り、新たに「高良大社」と(他人の手により)改刻したもの。表面だけは工具か工法が異なるためか他の三面とはノミの加工痕が異なっているのだそうです。