歴史散歩 Vol.75

ドイツ兵俘虜収容所1

 大正時代に大勢のドイツ人が久留米に住んでいたことは久留米市民にも意外と認識されていません。そこで2回にわたりドイツ兵俘虜収容所を取り上げることにします。今回が収容所設置の経緯・次回が収容所の内実です。以下、久留米市文化財調査報告書153集・195集・213集、瀬戸武彦「青島から来た兵士たち」同学社等を基礎にしてご紹介します。
* 平成26年10月4日「ドイツ兵久留米俘虜収容所展」および平成29年7月8日「軍都久留米の風景とくらし展」の展示内容とパンフレットを参考に補正を加えました。
* 平成31年3月24日、福岡市の九大西新プラザで開かれたシンポジウム「なぜ百年前の福岡久留米にドイツ兵俘虜がいたのか?」に参加。専門家6名による充実した議論を拝聴し大いに勉強になりました。学んだことを末尾に付記しています。

久留米は明治40年に第18師団が設置されます。誘致にあたっては佐賀県との誘致合戦があり久留米市が13万坪・有馬家が2万坪を献納するという官民上げての大歓迎により成功したものです。以降、習志野と東京から騎兵第22連隊・熊本から野砲兵第24連隊・小倉から独立山砲第3大隊・姫路から歩兵第56連隊が移転し久留米は「軍都」として急速に発展しました。主要施設の場所は①現在の税務署から社会保険事務所付近、②南町の福岡教育大付属小中学校付近、③国分の自衛隊付近、④御井の久留米大学付近です。(地図の赤線で囲った部分が師団関係施設です)。

 師団司令部は現在の久留米税務署にありました(当時の門柱が残されています)。
  
第18師団は大正14年5月に軍縮により廃止されます。4師団が廃止された、宇垣軍縮によるものです(世界的な緊張緩和にもとづく)。童女木池の畔に第18師団の記念碑が残されていますが、これは廃止の際に建立されたものです。(第18師団は昭和12年に軍拡により復活しています。)

 第1次世界大戦に於いて日本は日英同盟によりドイツに宣戦布告し、アジアにおけるドイツの拠点たる青島(チンタオ)要塞を攻撃することになりました。当時、日本ではこの戦争を「第1次世界大戦」とは認識しておらず「日獨戦争」と言っていました(第1次世界大戦とは後世の歴史家が付けたもの)。JR南久留米駅近くの久大線の線路の脇に「日清・日露・日獨」戦争の記念碑が残されています。これが当時の国民の意識でした。
 青島要塞攻撃の主力は久留米の第18師団を中心に編成された独立第18師団でした。独立第18師団は熊本の歩兵第56連隊、久留米の第48連隊、佐賀の歩兵第55連隊、大村の歩兵第46連隊などから編成されていました。

 独立第18師団の諸部隊は大正3(1914)年8月25日に駐屯地を出発し、9・10月に準備を整えて攻撃を開始しました。独立第18師団は直接に要塞を攻撃することは困難と見て、山東半島の反対側の龍口という港町に上陸して数百キロ先の青島に進軍しました(正面攻撃を繰り返し死傷者を増やした日露戦争の旅順要塞攻撃の反省によるものでしょうか?)。そして激戦の末に11月7日に青島要塞を陥落させました。この戦闘でドイツ兵4791名が俘虜(当時は「捕虜」ではなく「俘虜」と言いました)になり、内4679名が全国各地に送られました。攻撃の主力部隊第18師団の駐屯地である久留米には最大の俘虜が送られることになり、青島陥落の見通しが立った10月6日には早くも久留米俘虜収容所設置が告示されています。これは全国16カ所に設けられた収容所で最初のものです。収容所は当初、料亭(香霞園)跡や梅林寺・大谷派教務所(現・日吉小学校)等に置かれていましたが、増大する俘虜の数に対応できなくなりました。

大正4(1915)年5月25日、所長は真崎甚三郎中佐に交代しました。真崎所長は同年6月9日、国分村の衛戊病院新病舎跡(現在の久留米大学医療センターと市営山畑住宅一帯)に新しく俘虜収容所を設け、3カ所に分散していた俘虜を国分村の新収容所に統合しました。以後、大正9(1920)年3月12日に閉鎖されるまでの5年半もの間、大勢のドイツ人(最大1319名)が久留米の街に住むことになりました。これは大正4年6月9日に福岡132名・熊本645名の俘虜を統合したものによるものです。(「収容所展」解説シートより引用)
医療センター駐車場の中に樹木と石碑があります。この辺りに収容所の入口がありました。石碑は衛戍病院の跡を示すものであり収容所への言及はありません。

山畑住宅は建物が全て取り壊され更地になっているため収容所跡の雰囲気をわずかに感じることが出来ます。
近くにある白川公園には当時の遺構が残っています。直下にある水源の水を貯め(周辺の陸軍施設も含め)収容所の生活用水をまかなった貯水槽です。100年以上も使われており、現在は農業用水として使われています。(末尾を参照)

狭い敷地に大勢の俘虜を押し込んだため俘虜の不満は大きいものでした。他収容所と比較する数字が明らかになっていますので確認してみてください。
     収容所名        敷地面積(㎡)     収容人数
     久留米         29000       1319
     坂東          57000       1028
     習志野         95000        918
     青野原         22680        478
     似島          16000        548
(収容所中央広場に整列した俘虜たち)

 歴代所長のエピソード
1 樫村弘道(大正3年10月6日から大正4年5月25日)
  カトリック久留米教会のミシェル・ソーレ神父が週に1回儀式を執り行うことを許可しています。この縁が「松尾ハム」に繋がります(次回触れます)。
2 真崎甚三郎(大正4年5月25日から大正5年11月15日)
  226事件の黒幕と囁かれる権威主義的な人物。俘虜の逃亡や所長による俘虜将校殴打事件すら起こりました。真崎所長は子細な規則違反に対しても厳罰で臨んだため俘虜の反感も強く、更なる強権的管理を招く悪循環を引き起こしていました。ただ音楽には寛大で「ドイツ人にとって音楽は日本人にとっての漬物のようなものだ」とコンサートを許可しました(次回触れます)。
3 林銑十郎(大正5年11月15日から大正7年7月24日)
  遠足・スポーツ大会・工事への使役・野菜栽培の奨励など俘虜の健康に留意しました。これが所内スポーツの興隆に繋がります(次回触れます)。
4 高島巳作(大正7年7月24日から大正7年9月7日)
  他の収容所への移転を担当。190名の俘虜が習志野・坂東・青野原・名古屋へ移転しました。自身はシベリア出兵に従軍するため久留米から転出しています。
5 渡辺保治(大正7年9月7日から大正9年3月12日)
  収容所閉鎖まで担当。隣接する畑を整地しスポーツ環境が改善しました。俘虜が音楽の練習をしているときに良く聴きに来たそうです。

大正8(1919)年6月、ヴェルサイユ条約が結ばれると俘虜は帰国の途に就きました。大正9年1月26日に最後の118名が解放され、同年3月12日に収容所は閉鎖されました。亡くなったドイツ人11名の慰霊碑が久留米競輪場下の一画にもうけられています。 
  
塔の碑文  SCHWERT ENTWUNDEN DURCH SCHICKSALS MACHT  GEFANGEN GEBUNDEN SANKT  IHR ZUR NACHT  (運命の力によって剣を奪われ、捕らえられ、拘束されて君らは夜の帳に沈んだ) 台座の碑文  ZUM GEDAECHTNNIS DEN KAMERADEN DIE FERN HEIMAT STARBEN  (故郷遠く没した 戦友達を偲んで)碑を愛でるように植えられている樹はドイツ人が好きな菩提樹です。

* 2018年12月に追記。
  鳥栖在住の郷土史家・横尾義明様より「白川公園下の地下タンク」の調査について貴重な資料(設計図)をいただきましたので報告します。
 
第1軍用水源地の第5号井戸のドーム型天井は厚さが約45センチメートルもあり、鉄筋も入っている頑丈なものでした。天井部分を取り外すと今も水が貯まっています。俘虜収容所のみならず近くの軍関係施設の飲料水として不可欠の水源だったことが判ります。
 
 * 福岡市の収容所は将校と下士卒で分けられており将校は現福岡市民会館に、下士卒は柳町にあった遊郭跡地に収容されました。下士卒は大正4年3月26日以降今津の元寇防塁記念碑をつくる基礎工事に従事しました。旧陸軍墓地(谷公園)にドイツ兵の墓が設けられています。
* ドイツ将校殴打事件に関しては複数の見方があります。久留米大学上村一則教授によれば将校側にも相当に問題があったように伺われます。フィッシャ-氏は「僕らの将校は5年間も黄色人種に対して優越さの原則を頑固に守り続けてきた」と評しています。クルーゲ氏は「収容所の5年間、とても傲慢で愚かな礼儀知らずのドイツ兵士官集団がいた」と評しています。

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