ドイツ兵俘虜収容所1
大正時代に大勢のドイツ人俘虜が久留米に住んでいたことは久留米市民にも意外と認識されていません。そこで2回にわたりドイツ兵俘虜収容所を取り上げることにします。今回が収容所設置の経緯(総論)次回が収容所の内実(各論)です。以下、久留米市文化財調査報告書153集・195集・213集、瀬戸武彦「青島から来た兵士たち」同学社等を基礎にしてご紹介します。
* 平成26年10月4日「ドイツ兵久留米俘虜収容所展」および平成29年7月8日「軍都久留米の風景とくらし展」の展示内容とパンフレットを参考に補正を加えました。
* 平成31年3月24日福岡市の九大西新プラザで開かれたシンポジウム「なぜ百年前の福岡久留米にドイツ兵俘虜がいたのか?」に参加。専門家6名による充実した議論を拝聴し大いに勉強になりました。学んだことを末尾に付記。学恩に感謝。
* 令和5年10月21日久留米大学公開講座「久留米俘虜収容所の開設とその後の展開・管理運営と食生活」を拝聴。文化財保護課小澤太郎先生の講話に感銘。学恩に感謝。
久留米には明治40年に第18師団が設置されます。誘致にあたって佐賀県との誘致合戦があり久留米市が13万坪・有馬家が2万坪を献納するという官民上げての大歓迎により成功したものです。以降、習志野と東京から騎兵第22連隊・熊本から野砲兵第24連隊・小倉から独立山砲第3大隊・姫路から歩兵第56連隊が移転し久留米は「軍都」として急速に発展しました。主要施設は①現在の税務署から社会保険事務所付近、②南町の福岡教育大付属小中学校付近、③国分の自衛隊付近、④御井の久留米大学付近です(赤線で囲った部分が師団関係施設)。
師団司令部は現在の久留米税務署にありました(当時の門柱が残されています)。
師団長官舎は現存します。「高牟礼会館」の名称で公的な会合などに使われています。
第18師団は大正14年5月に軍縮により廃止されます。4師団が廃止された、宇垣軍縮によるものです(世界的な緊張緩和にもとづく)。童女木池の畔に第18師団の記念碑がありますが、これは廃止の際に建立されました(なお第18師団は昭和12年に軍拡により復活しています。)
第1次世界大戦で日本は日英同盟によりドイツに宣戦布告し、ドイツの拠点:青島(チンタオ)要塞を攻撃しました。日本ではこの戦争を「第1次世界大戦」とは認識しておらず「日獨戦争」と言っていました(「第1次世界大戦」とは後世の歴史家が付けたもの)。JR南久留米駅近くの久大線の線路の脇に「日清・日露・日獨」戦争の記念碑が残されています。
青島要塞攻撃の主力は(地理的に近い)久留米の第18師団を中心に編成された「独立第18師団」でした。独立第18師団は熊本の歩兵第56連隊、久留米の歩兵第48連隊、佐賀の歩兵第55連隊、大村の歩兵第46連隊などから編成されていました。
独立第18師団の諸部隊は大正3(1914)年8月25日に駐屯地を出発し、9・10月に準備を整え攻撃を開始。独立第18師団は直接に要塞を攻撃することは困難と見て、山東半島反対側の龍口(港町)に上陸し数百キロ先の青島に進軍しました(正面攻撃を繰り返し死傷者を増やした日露戦争の旅順要塞攻撃の反省によるものでしょうか?)。そして激戦の末に11月7日に青島要塞を陥落させました。この戦闘でドイツ兵4791名が俘虜(当時は「捕虜」ではなく「俘虜」と言いました)になり、内4679名が全国各地に送られました。主力部隊第18師団の駐屯地である久留米には最大の俘虜が送られることになり、青島陥落の見通しが立った10月6日には早くも久留米俘虜収容所設置が告示されています。これは全国16カ所に設けられた収容所で最初のものです。
10月9日、午後8時11分、門司港から搬送されたドイツ兵55名が久留米駅に降り立ちました。駅前や沿道は彼らを一目見ようと集まった群衆であふれかえったようです。樫村所長から俘虜に対して次の訓示がなされました。「ドイツ軍人の地位と名誉を認める。生命の危険に対する心配は無用である。軍紀や秩序はドイツの兵営と等しく厳守すること。俘虜である期間は日本軍の将校衛兵に厳正に服従する義務がある。ドイツにおける生活とは大きく異なるであろうが品物や設備について徐々に改善する必要がある。希望があれば班長を通じて申し出るように。火災予防については各自が細心の注意を払うように。」(大正3年10月11日「福岡日日新聞」)。
俘虜収容の根拠となったのはハーグ陸戦条約第2章(俘虜)です。第4条(俘虜は敵の政府の権限内に属し・・人道をもって取り扱うこと。)第5条(俘虜は一定の地域外に出られない義務を負わせて都市・城塞・陣営その他に留置できる。)第6条(国家は将校を除く俘虜を階級・技能に応じ労務者として使役することができる。その労務は過度ではなく一切の作戦行動に関係しないものでなければならない。)第7条(政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。交戦者間に特別の協定がない限り、俘虜は糧食・寝具及び被服に関しこれを捕らえた政府の軍隊と対等の取り扱いを受けること)。第8条(俘虜はそれを捕らえた国の陸軍現行法律・規則・命令に服従すべきものとする。不服従の場合、必要な厳重手続きを施すことができる。)
収容所は当初、料亭(香霞園)跡や梅林寺・大谷派教務所(現・日吉小学校)等に置かれていましたが、度重なる搬送によって増大する俘虜の数に対応できなくなりました。
大正4(1915)年5月25日、所長は真崎甚三郎中佐に交代しました。真崎所長は同年6月9日、国分村の衛戊病院新病舎跡(現在の久留米大学医療センターと西側宅地一帯)に新しく俘虜収容所を設け、3カ所に分散していた俘虜を国分村の新収容所に統合しました。
* 小澤先生によれば、この地に収容所が選定された理由は主に3つ。①管理上の理由(市郊外の第48連隊に隣接・東には第56連隊も存在・非常時に対応しやすい)②経済上の理由(日独戦の日本兵患者を収容するため仮設営された衛戍病院新病舎跡がちょうど空いていた)③生活上の理由(豊富な湧水があり、隣接する水源地から清浄な飲み水を得られた)。
以後、大正9(1920)年3月12日に閉鎖されるまでの5年半もの間、大勢のドイツ人(最大1319名)が久留米の街に住むことになりました。これは大正4年6月9日に福岡132名・熊本645名の俘虜を統合したものによるものです。(「収容所展」解説シートより引用)
現在、収容所跡は久留米大学医療センター駐車場になっています。
駐車場の中に樹木と石碑があります。この辺りに収容所の入口がありました。石碑は衛戍病院の跡を示すものでありドイツ兵俘虜収容所への言及はありません。
遠方から観る市営山畑住宅跡です。現在は民有地になっており収容所跡の雰囲気を全く感じさせないものとなっています。私人の宅地なので近接写真の掲載は控えます。
隣接した白川公園に当時の遺構が残っています。直下にある水源の水を貯めて収容所の生活用水をまかなった貯水槽です。100年以上も使われており、現在は農業用水として使われています。
(この貯水槽については末尾の補足を参照願います。)
狭い敷地に大勢の俘虜を押し込んだため俘虜の不満は極めて大きいものでした。他の収容所と比較する数字が明らかになっていますので確認してみてください。
収容所名 敷地面積(㎡) 収容人数
久留米 29000 1319
坂東 57000 1028
習志野 95000 918
青野原 22680 478
似島 16000 548
(収容所中央広場に整列した俘虜たち)
歴代所長のエピソード
1 樫村弘道(大正3年10月6日から大正4年5月25日)
カトリック久留米教会のミシェル・ソーレ神父が週に1回儀式を執り行うことを許可しています。この縁が「松尾ハム」に繋がります(次回触れます)。
2 真崎甚三郎(大正4年5月25日から大正5年11月15日)
226事件の黒幕と囁かれる権威主義的な人物。俘虜の逃亡や所長による俘虜将校殴打事件すら起こりました。真崎所長は子細な規則違反に対しても厳罰で臨んだため俘虜の反感も強く、更なる強権的管理を招く悪循環を引き起こしていました。ただ音楽には寛大で「ドイツ人にとって音楽は日本人にとっての漬物のようなものだ」とコンサートを許可しました(次回触れます)。
3 林銑十郎(大正5年11月15日から大正7年7月24日)
遠足・スポーツ大会・工事への使役・野菜栽培の奨励など俘虜の健康に留意しました。これが所内スポーツの興隆に繋がります(次回触れます)。
4 高島巳作(大正7年7月24日から大正7年9月7日)
他の収容所への移転を担当。190名の俘虜が習志野・坂東・青野原・名古屋へ移転しました。自身はシベリア出兵に従軍するため久留米から転出しています。
5 渡辺保治(大正7年9月7日から大正9年3月12日)
収容所閉鎖まで担当。隣接する畑を整地しスポーツ環境が改善しました。俘虜が音楽の練習をしているときに良く聴きに来たそうです。
大正8(1919)年6月、ヴェルサイユ条約が結ばれると俘虜は帰国の途に就きました。大正9年1月26日に最後の118名が解放され、同年3月12日に収容所は閉鎖されました。亡くなったドイツ人11名の慰霊碑が久留米競輪場下の一画にもうけられています。
塔の碑文 SCHWERT ENTWUNDEN DURCH SCHICKSALS MACHT GEFANGEN GEBUNDEN SANKT IHR ZUR NACHT (運命の力によって剣を奪われ、捕らえられ、拘束されて君らは夜の帳に沈んだ) 台座の碑文 ZUM GEDAECHTNNIS DEN KAMERADEN DIE FERN HEIMAT STARBEN (故郷遠く没した 戦友達を偲んで)碑を愛でるように植えられている樹はドイツ人が好きな菩提樹です。
(次回に続く)
* 福岡市の収容所は将校と下士卒で分けられ、将校は現福岡市民会館に、下士卒は柳町にあった遊郭跡地に収容されました。下士卒は大正4年3月26日以降今津の元寇防塁記念碑をつくる基礎工事に従事。旧陸軍墓地(谷公園)には収容中に亡くなったドイツ兵の墓が設けられています。
* 2018年12月に追記。
鳥栖在住の郷土史家・横尾義明様より「白川公園下の地下タンク」の調査について貴重な資料(設計図)をいただきましたので報告します。
第1軍用水源地の第5号井戸のドーム型天井は厚さが約45センチメートルもあり、鉄筋も入っている頑丈なものでした。天井部分を取り外すと今も水が貯まっています。俘虜収容所のみならず近くの軍関係施設の飲料水として「不可欠の水源」だったことが判ります。
* 真崎所長によるドイツ将校殴打事件に関しては複数の見方があります。久留米大学の上村一則教授によれば将校側にも相当に問題があったように伺われます。フィッシャ-氏は「僕らの将校は5年間も黄色人種に対して優越さの原則を頑固に守り続けてきた」と評しています。クルーゲ氏は「収容所の5年間、とても傲慢で愚かな礼儀知らずのドイツ兵士官集団がいた」と評しているそうです。
* 山口淳「軍都久留米」(花品社)の指摘。従来の久留米郷土史では軍隊誘致の経済効果ばかりに目が向けられてきた。発展の陰で生じた事象にも目を向ける必要がある。①師団廃止に大揺れ(宇垣軍縮の際に翻弄された)②水源の枯渇(国分村:経済的発展の影)③兵営裏の存在としての悲劇(高良内村:農地減少と離農者続出)。④演習場としての悲惨(上津荒木村:高良台演習場の水利問題)。「軍都久留米」と言っても主な軍事施設が設けられたのは旧久留米市ではなく周辺の「村」であった(広域合併で久留米市に取り込まれた)。